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彼と彼女とアップルキッシュ(2)

 この街の水族館に行くのは、実は初めてだった。
 とは言え展示や内部マップはネットでしっかり調べたし、イルカやアシカのショーの時間もチェック済みだ。水族館を思う存分満喫する準備はできている。
 何より、水族館は規模の大小や展示の充実度に違いはあっても、中の雰囲気は大体一緒だ。
 薄暗くて、静かで、涼しくて、とても青い。
 まさに夏のデートにぴったりのシチュエーションだと思う。

「向坂さんはどんな魚が好きですか?」
 バスを降り、水族館入り口目指して歩き出しながら、私は向坂さんに聞いてみた。水族館までの道は真っ直ぐに舗装されていて、もうその先にそれらしい建物が見えていた。
 冷房が効いていた車内から外へ飛び出した途端、焦げつきそうな日差しと息が詰まるような熱い空気に包まれた。空はどこまでもどこまでも青くて、目眩がするほどいい天気だ。
 そんな晴れ空の下、向坂さんは私の問いに、眉を顰めて考え始める。
「魚?」
 意表をつく質問だったんだろうか。向坂さんは難しい表情でたっぷり二十秒考えた挙句、強いて言うならという口調で答えた。
「寒ブリだな」
「いや、食べる方じゃないっす」
 すかさず私が突っ込むと、困ったように笑われた。
「悪い、そっちでしか考えられなかった」
 ボケなのかと思ったら本気の回答だったらしい。そっか、寒ブリが好きなんだ。覚えとこう。
 って言っても、寒ブリを使ったお菓子はまずないだろうし、本気の手料理じゃないと駄目だよなあ……。いつかそういうのも作ってみたりするかな。向坂さんに。
 妄想が暴走する前に話を戻す。
「食べる方はわかりましたけど、見る方の好みはないんすか?」
「見る方か。熱帯魚は見てりゃきれいだと思うし、ジンベイザメは前に見てすげえってなったけど」
 向坂さんはそれでも一応考えてくれたようだけど、これと言って思いつかなかったようだ。やがて匙を投げ、太い首を竦めた。
「そもそも水族館も何年ぶりかって話だからな。小学校の遠足以来だ」
「遠足で水族館かあ。いいっすね」
 私はそういうの、行ったことないな。遠足の行き先も地域によっていろいろだけど、その選択肢に水族館はなかった。動物園なら行ったかな。
 羨ましがる私を、向坂さんは訝しげに見る。
「お前は行かなかったのか? 小学校どこだよ」
 そう聞くということは、この街じゃ遠足の行き先に水族館が選ばれるのは当たり前みたいなものなのかもしれない。
「私、小学校こっちじゃないんで。うちの親、転勤族なんすよ」
「……そうだったのか」
 向坂さんは驚いたみたいだ。目を見開いていた。
 別段珍しい話でもないだろうし、実は、なんて重々しく打ち明けるような秘密でもない。私は幼稚園時代からほぼ二年ごとに引っ越しを経験していて、この街にやってきたのも高校入学直前だった。短いサイクルで強制的にリセットされる人間関係が私のいい加減な性格を形成したといっても過言ではない――なんて、格好つけた物言いで責任転嫁してみる。
 クラスの子の話によれば、向坂さんは中学時代からボクシングで有名な人だったらしい。その頃からこっちに住んでたら中学生の向坂さんに会えたかもしれないのにな、と思うとすっごく残念だ。向坂さんなら中学時代も格好よかったに違いない。
「それじゃここの水族館、来るの初めてか?」
「そうっす」
 私が頷けば、向坂さんはだんだんと近づいてくる水族館の建物を指差した。
「じゃあ楽しみにしてていい。ここらじゃ結構有名だからな。よそからも観光客が大勢来るし、言った通り遠足でもまず確実に行くようなとこだ。すぐ横には遊園地もあるし、そういうのが好きなら一日いても楽しめる」
 真夏の強烈な日差しの下、水族館はギリシャの神殿みたいな白さに見える。その真っ白い建物の上部には水族館の名前と共に、青いイルカの絵が描かれていた。
 その隣の敷地内には向坂さんの言った通り、遊園地があるようだ。フリーフォールやバイキングといったアトラクションがもう既にお客さんを乗せて稼働しているのが見える。近づいていくにつれ楽しそうな歓声が聞こえてきて、こっちまで浮き足立ってしまう。
「ただ俺も久々だし、展示内容はしょっちゅう変わるらしいからな。中までは詳しくねえ。案内してやれたらよかったんだけどな」
 説明しながらも、向坂さんはちょっと悔しそうにしている。
 その気持ちだけで十分嬉しい私は、張り切って答える。
「向坂さんが久々で私が初めてなら、新鮮な気持ちで楽しめそうっすね!」
「ま、そうだな。その通りだ」
 納得した様子で、向坂さんも深く頷いた。
 水族館の窓口は入口のすぐ脇にあり、現時点で結構な行列ができていた。来る時のバスは空いていたからすっかり油断していたけど、他の人達は車で来たんだろうか。夏休みらしく家族連れの姿が多い。
「それで、お前はどんな魚が好きなんだ」
 行列に加わって順番が来るのを待つ間、向坂さんがこちらを向いて、私に尋ねてきた。
 私は即答する。
「いろいろありますけど、一番はクラゲっすね」
「クラゲ? あれって魚か?」
 向坂さんは笑いながら聞き返してきた。確かに魚類ではなさそうだけど、じゃあ何類かって言われたらよくわからない。植物ではないと思うんだけど、どうかな。
「わかんないですけど、英語でジェリーフィッシュっていうじゃないすか」
「だから魚だって?」
 私が反論すると向坂さんはますます笑った。おかしくてしょうがない、みたいな感じだった。
 つられて私も、うへへと笑っておく。
「もう大好きなんすよ、クラゲ。ふわふわしてるのを一時間見てても全然飽きないっす」
「そんなにか」
 尚もくつくつ喉を鳴らす向坂さんが、目を細めて言い添える。
「だったら今日はじっくり見ないとな」
 気のせいか、向坂さんはいつもより楽しそうだ。よく笑っているようにも思う。それによく、私を見ている。
 私はその顔を見上げて、心の中で決意する。
 クラゲももちろんだけど、じっくり見よう。せっかくのデートだ。

 水族館の入場料は決して安くはないけど、向坂さんはためらわずに私の分まで払ってくれた。
「奢るって約束しただろ、気にすんな」
 恐縮する私にチケットとパンフレットを手渡し、平然とそう言ってみせる。
 正直、私は自分のチケット代くらい出すつもりでいたし、奢られるにしても半額くらいでと考えていたんだけど、向坂さんは有無を言わさず財布を出し、お金を払い、私にエントランスへ向かうよう促してくる。私はぺこぺこ頭を下げながら水族館へと入場した。
「何か、すみません。本当にいいんですか?」
「いいんだよ。どうせ普段は遊ぶ暇なくて、金の使いどころがねえんだから」
 向坂さんがびくびくする私を笑い飛ばす。
「それに弁当作ってきてくれたんだろ? 材料費、光熱費、労力でまだ足りねえくらいだ」
 さすがにそこまでコストのかかってるものじゃないんだけど――でもせっかくなので今回は、素直に奢ってもらうことにする。
 にしても、遊ぶ暇がないんだ、向坂さん。それだけ練習に勤しんでるってことなのかな。もしかしたら今日も、本来ならトレーニングに励む貴重なお時間をいただいてしまったのかもしれない。これは責任重大、向坂さんにもめいっぱい楽しんでもらわなければなるまい。
 責任の重さに武者震いする私とは対照的に、向坂さんは泰然とパンフレットを広げている。
「さて、どっから見るか」
 その目が紙面をしげしげとなぞった後、私の方を向いてこう言った。
「クラゲの展示は館内の結構奥の方らしいぞ。まずそこに直行するか?」
「いえ、順路通りでもいいっすよ」
 私も広げられたパンフを一緒になって覗き込む。
 そこには事前にネットで調べた通りの情報が記されていた。入ってすぐの一帯はお馴染みの熱帯魚コーナーがしばらく続き、その次が白熊やペンギンなどの動物ゾーン、更にその先にはジンベイザメのいる大きな水槽があるらしい。そこから水中トンネルを通り抜けた先にようやくクラゲの水槽がある。深海魚コーナーの一歩手前の辺りだ。
「ほら、向坂さんの好きな熱帯魚の水槽も見ないと」
 熱帯魚とジンベイザメ。ここは押さえておくべきポイントだ。
 でも向坂さんは首を竦め、穏やかに応じた。
「そこまで好きってほどでもねえよ。あえて言うならってくらいだ」
「じゃあ向坂さんの好きなブリもどこかにいるかもしれませんし」
「そっちは見てるだけだとちょっとな」
 あくまで食べる方がいいらしい。
 でも私としては向坂さんにお金を出していただいた以上、それが無駄になるような回り方はしたくなかった。チケットの許す限り水族館内を隅々まで見て歩いて元を取らなければ気が済まないし、向坂さんにも申し訳ない。好きな水槽だけつまみ食いなんて、もったいなさすぎる。
「もうもれなく全部見て回りましょう。時間ありますし、せっかくですから」
 私が強く主張すると、向坂さんもその気になったようだ。
「わかった。なら順路通りに行くぞ」
「了解っす!」
 私達は人で混み合うエントランスを抜け、まずは熱帯魚の水槽が並ぶコーナーへと歩き出す。

 外の行列から予想できた通り、館内は人が多かった。
 青い光を放つ水槽の前を他の人が通り過ぎる度、薄暗い通路には弱い星の瞬きみたいに光が揺れて、まるで本当に水の中にいるみたいだった。
 人が多い割に辺りは、思いのほか静かだ。もちろん皆黙っているわけじゃなく、水槽に見入っては歓声を上げる人、感想を言い合う人達も普通にいたけど、それらの声が水槽いっぱいに張られた水の中に吸い込まれてしまったように静かだった。
「あっ、クマノミ」
 オレンジ色をした小さな魚が泳ぐ水槽の前、私は思わず足を止めて見入った。
 熱帯魚コーナーは私でも名前を知っている魚がたくさんいた。クマノミ、ナンヨウハギ、チョウチョウウオ、ミノカサゴ。どれもスーパーで売ってるような魚とは違い、宝石みたいにきれいな色をしていたり、はっとするほど美しい模様があったりする。
「この辺の魚は派手な色してるよな」
 向坂さんも似たようなことを呟いたので、私はすぐに同意した。
「そうっすね。南の海じゃないとかえって目立ちそうっす」
「周りに合わせて上手く生きてんだろうな」
 青く光る水槽を覗いて、向坂さんが呟く。
 光に近づくと向坂さんのその姿も青く染まる。本物の南の海みたいな青さの中、向坂さんの凛々しく大人びた横顔は神秘的にさえ見えた。潔い坊主頭からきれいな額を経て通った鼻筋へ、目つきは鋭く、はっとするほど真剣だ。大きな薄い唇はきつく結ばれ、考えていることを外に漏らすまいとしているように見える――のは、気のせいだろうか。こんなに真面目に見つめてもらえるクマノミが羨ましくなる反面、向坂さんが何を考えているのかいまいちわからなくて、もどかしい。
 向坂さんは、同い年のクラスメイト達よりも、もちろん私なんかよりもずっと大人っぽく見える。高校生じゃないと言われても信用されるだろうし、お酒もタバコも咎められることなく買えそうだ。そんなことをする人じゃないだろうけど。
 そして大人っぽいのは見た目だけじゃない。ちょっとやそっとじゃ動じない態度も、どきどきするような優しさも兼ね備えた向坂さんは、時々年上の人みたいに映る。
 そんな人が頭の中で考えているのはどんなことなんだろう。
 青い水槽の中のクマノミを見て、どんな思いを馳せているんだろう。
 覗いてみたいと、今、思った。
 私が水槽じゃなくて向坂さんを見ていたからだろうか。やがて向坂さんがこちらに気づき、ばつが悪そうに苦笑した。
「……悪い、見入ってた」
「やっぱ熱帯魚、好きなんすね」
 私も笑うと、向坂さんは照れ隠しみたいに水槽の前から一歩離れた。
「いや、何かお前みたいのが一匹いると思ってな」
「私? ど、どれっすか」
「ほら、あれ。あの辺でちょろちょろ泳いでるやつ」
 向坂さんは水槽の中を指差してみせたけど、はっきり言ってクマノミなんて全部ちょろちょろ泳いでる。イソギンチャクの前を後ろを時にのんびり、時にすばしっこく泳いでいる。おまけにたくさん数がいるものだから、私に似てるのがどれのことかなんてちっともわからなかった。
「私にはどれも同じに見えるんすけど……」
 正直に打ち明ければ、向坂さんはなぜか得意げににやりと笑った。
「俺にはちゃんとわかるけどな。あれがお前だって」
 そしてもう一度水槽の中を指し示してくれたものの、やっぱり私にはどれかわからない。
 向坂さんはボクシングで養った動体視力があるからわかるんだろうか。それとも、私をからかってるんだろうか。
「ええー……。全然わかんないっすよ」
 しばらく水槽の中を眺めてみた私は、結局それらしいクマノミを見つけられずに降参した。
「別にわかんなくてもいい」
 向坂さんはそんな私の頭に手を置き、軽く撫でてくれた。大きな手の感触はいつもと変わらない。優しくて温かい。
 いつも、なんてとっさに思うほど、私はすっかりこの感触に慣れていた。
「よし、そろそろ次行くか」
 そう言うと、向坂さんは私の頭から離した手で、今度は私の手を掴んだ。
 慣れたと思ったはずの手のひらの感触が自分の手にぴたりとくっついた途端、私は驚きのあまりびくっとして、すぐ隣の向坂さんを見上げてしまった。
 向坂さんは私の手を握ったまま、私の反応に目を瞬かせている。
「嫌だったか? ならやめとく」
「い、いえ! 嫌じゃないっすむしろ是非! 是非お願いしますっ!」
 まさか手を繋いでもらえるとは思わなかったので! どぎまぎしてるだけです!
 当然ながら嬉しくないはずがなく、向坂さんの大きくて分厚くて少しだけざらついている手をそっと――勇気を振り絞ってほんのちょっと力を込めて、握り返してみる。向坂さんは気づいたのかどうか、ゆっくりクマノミの水槽前から歩き出す。
「茅野、向こうに白熊がいるぞ」
「ってことはぼちぼちペンギンもいますね。楽しみっす」
「何だ、お前ペンギンも好きなのか」
「そりゃそうっすよ。ペンギンが嫌いな女子の方がレアですって」
 私はすっかり浮き足立って、向坂さんの手を引っ張るみたいにペンギンのコーナーを目指す。
 向坂さんは優しく笑いながら、黙ってついてきてくれた。
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