吾妻雄太と話したい?(3)
こんな時に限って、うちの兄ちゃんは能天気に声を掛けてくる。「雄太の県大会、いつからだっけ?」
兄ちゃんはあたしの高校名じゃなく、雄太の、という言い方をする。高校野球ファンの兄ちゃんが一番贔屓にしているのは、やっぱりかつてのチームメイトらしい。
あたしはその名前を家でも聞きたくなかったけど、しょうがないから答えた。
「来週」
「お、そっか。準決勝からは中継入るよな」
お気楽大学生の兄ちゃんが、浮かれた様子でカレンダーをチェックする。
そしてあたしもカレンダーを見て、憂鬱な思いに囚われる。来週、なんだよね。県大会。大事な時期だってのに、あたしは何て酷いことをしちゃったんだろう。
「しっかしなあ、あの雄太がこんなに話題になるとは。今じゃドラフトの目玉候補だもんなあ」
兄ちゃんは少し大げさな物言いで、まだ雄太の話題を続ける。
話を逸らす為にあたしは噛み付いた。
「そりゃ兄ちゃんに比べたら誰だって才能あるでしょ」
「そう言うけどな」
だけど兄ちゃんは、あたしの言葉に怒りもせずに、
「あの雄太も、昔はすごい泣き虫だったんだぞ」
と言ったから、びっくりした。
「雄太が? 嘘、知らないよ、そんなの」
あたしはよく、兄ちゃんの所属するリトルリーグの試合を見に行った。兄ちゃんを応援する、と言っていたけど、本当は雄太のことばかり見てた。あの頃から雄太はエースで四番、身体はちっちゃいのに上級生たちを圧倒させるような存在だった。
雄太が泣いてる顔なんて、あたしは見たことがなかった。試合に勝っても負けても、笑ってる顔ばかり覚えていた。試合を見に来たあたしに、手を振ってくれた明るい顔。だから兄ちゃんの言うこと、すぐには信じられなかった。
「嘘じゃないよ」
兄ちゃんは言って、首を竦める。
「雄太、身体ちっちゃかっただろ。腕はよかったけど力負けして、打ち込まれることも結構あってさ。そういう試合の後では、こっそり隠れて泣いてるの、何回か見た」
あたしは唇を結んだ。黙って、兄ちゃんの話の続きを聞く。
「今でこそ豪腕エースなんて呼ばれてるけど、昔はそれほどでもなかったんだよ。泣き虫で、そのくせ負けず嫌いでさ。負けるたびにべそべそ泣くから、しっかりしろってどやしたこともあったくらいだ。でも――さすがだよな。雄太は本当に、しっかりしてたんだ。少し泣いたらすぐにけろっとして、次の日の練習には何事もなかったように出てきてた」
兄ちゃんは懐かしそうにそんな話をする。
あたしの知らない、雄太の話を。
「今の雄太があるのも、あの頃のお蔭なんだろうな。さすがに俺のお蔭なんて言うつもりはないけど、でも打たれたり、負けたり、悔しい思いをしてるからこそ、成長出来たんだって思うよ。本当に強くなれる奴ってのは、まず気持ちが打たれ強いんだろうな」
雄太は、強かったんだ。打たれても打たれても、ちゃんと立ち直ってみせるくらい、強かったんだ。あたしとは全然違う。打たれることを怖がって、びくびくして、周りの目を気にしてばかりいるあたしとは、全然違う。
雄太の泣いてる顔も、悔しそうな顔も知らないあたしは、ぼんやりしながら尋ねた。
「全然、知らなかったなあ……。雄太、人前では泣かなかったよね?」
「そりゃ、お前に見えるところで泣く訳ないだろ」
兄ちゃんが、そう言ったのを訝しく思う。
「何で?」
「何でって……ま、昔の話だからな。気にしない、気にしない」
手をひらひらさせて兄ちゃんが、会話を打ち切る。
大層不自然に見えたけど、あたしはあたしで忙しいから放っておくことにした。
――うん、忙しい。行かなきゃいけないところが出来た。もう遅いけど明日じゃ駄目なんだ。今すぐに!
吾妻兄弟の家の場所を、あたしはちゃんと覚えていた。
小学校の頃は何度か遊びに来たこともあるその家の、玄関のチャイムを、躊躇いがちに押す。聞き覚えのある音が響く。
ややあって、無用心にドアが開いた。
中から顔を覗かせたのは、耕太だ。昔とは違う、日焼けしてない無愛想な顔の耕太が、あたしを見るなり不審そうに眉を顰めた。
「どちら様?」
こっちはあたしのこと、覚えてないのか。多少がっかりしたけど、気にしないようにして、名前を名乗って、続けた。
「あたし、雄太と同じ高校に通ってる者です。どうしても雄太に話したいことが用事があって、来ました。夜分遅く、ごめんなさい」
そう話すと、耕太はわざとらしい溜息をついて、
「雄太は疲れてるんだけど。用って、明日じゃ駄目なの?」
まるで言い慣れた口調で告げてきた。
こんな風に女の子が尋ねてくること、よくあるんだろうか。あたしは気まずい思いで更に言う。
「雄太に聞いてみて貰えますか? あたしのことは、文集を貸した者だって言えば通じるはずですから」
「文集?」
耕太が、その時片眉を上げた。
そして少し考え込むような表情になってから、
「ちょっと待ってろ。呼んでくる」
短く言い残して、さっさとドアを閉めてしまった。
あたしは溜息をつく。やっぱり耕太は変わってた。こんなに愛想のない奴じゃなかった。野球を辞めたことと言い、一体何があったんだろう。
もちろん時が過ぎてしまえば、誰しも変わらずにはいられないんだろうけど。
あたしだってそうなんだから。
しばらくして、再び玄関のドアが開いた。
次に顔を出したのは、雄太だった。
あたしを見るなり、あ、と口を開け、すぐに笑った。
「どした? こんな遅くに」
「遅くにごめん」
手短に済ませるつもりであたしは、切り出した。
「今日のこと、謝りたくて来たの。雄太に酷いことしちゃったから」
すると雄太は笑うのを止めて、気まずそうに視線を足元に落とした。それからスニーカーをつっかけて、玄関の外まで出てくる。後ろ手でドアを閉める。
「今日のことは、……その、俺が悪かったから」
声を潜めて雄太が言った。
俯き加減のままでぼそぼそと、外の空気に溶け込むような声。
「お前が気に病むようなことじゃないよ。俺、無神経だったよな」
「ううん、そんなことない。悪いのはあたしの方だから」
すかさずあたしは早口で言った。
どう考えたって、そうだった。悪いのはあたしだ。冗談が通じなかったのも、人の目ばかり気にしてたのも、雄太の気持ちをほんの少しでも考えなかったのも、全部悪い。
本当はうれしかったんだ。あの画像、取っておけばよかった。雄太と二人で写ってるなんて、絶対いい思い出になるはずだった。友情がちゃんと続いてて、今でもここにあるってことを、あたしはもっと大切に思うべきだった。思い出を、大切にしなくちゃいけなかった。
でももう、そんなことは言えない。
出来るのは謝ることだけだ。
「ごめんね」
あたしは言って、頭を下げた。
「後から撮ってくれた方の画像は、大切にするから。クラスの子にちゃんと渡す。本当にありがとう」
約束は守らなくちゃいけない。本当は、嫌だけど。せっかく雄太が撮ってくれた写真、誰にも渡したくはなかったけど、そうしなくちゃいけなかった。あれは本当に雄太のことを好きな子が、持っているべきものだった。
打たれるのを怖がるあたしが持っているべきものじゃない。
「そっか」
雄太は顔を上げ、少しだけ笑った。夏の夜みたいにひっそりした笑い方だった。練習の後で疲れているせいか、玄関の明かりだけで照らされているせいか、見たことのない顔をしている。
「でも、俺も悪かったから。ごめんな、今後気を付けるよ。もう学校でお前に話し掛けたりしないから」
そう言われた時、ちょっとずきっとした。
当然のことだけど――あたしの為にも、その方がいいんだろうけど。
咄嗟に返事が出来ないあたしに、だけど雄太は言葉を続ける。
「だから、電話番号。教えて欲しいんだ」
「――え?」
はっとして見返せば、マウンドに上がった時みたいに真剣な顔が目の前にあった。
口調だけはやけに軽く、言ってきた。
「文集返す時、連絡するのにも必要だろ? 俺のも教えるから」
それはきっと、まずい。二人で写った画像を置いておくよりまずいことだ。見つかったら酷いことになるだろう。
でもあたしは、雄太の気持ちを裏切りたくはなかった。もう、傷つけたくなかった。そういう形でもいいから、ちょっとでもいいから、昔みたいに繋がっていたかった。何よりあたしがそうしたかったから、断れなかった。
送ると言って貰ったのは、さすがに断った。
一人で帰る夜道の途中、あたしは携帯電話を片手に、新しく登録したばかりの番号を消すべきか、残しておくべきか迷った。
だけど消せなかった。消せるはずがなかった。代わりにあたしは、ちょっと泣いた。
打たれるのが怖い、なんて思っちゃいけない。雄太なんて昔は、散々に打たれてたって言うんだから、あたしだって打たれることはあるはずだ。この先、何度だってあるはずだ。もしそうなってもへこんでなんかいられない。打たれて、負けて、悔しい思いをして、そうして手に入るものだってあるはずだから。
もう逃げない。泣き止んだあたしは真っ直ぐに前を見て、歩き出す。
あたし、雄太のことが好き。昔と同じように、今も好きなんだ。だから逃げない。どんなに打たれたって挫けない。どんな目に遭ったって、どんな結果になったって、立ち直ってみせる。絶対に、いつか、強くなってやる。だからもう、怖がって、人の目を気にして、びくびくするのは止める。
そうじゃなきゃ、吾妻雄太とは釣り合わない。
雄太を好きでいる為に、あの強さに見合うように、変わりたいとあたしは思った。