ピーナッツとクラッカージャック(2)
雄太からは、金曜の朝に電話があった。両親は週末の三連戦を観る為、既に家を出ている。俺が留守番だと知った雄太は、少しばかり不満そうにしてみせた。
『何だよ耕太、結局来ねえの?』
「悪い。土日は楽団の練習があって」
言い訳が一応、嘘にはならないことにほっとしていた。罪悪感もあった。これまでなら無条件に信じていられた双子の弟の実力を、信用し切れていない今の自分に。
『せっかく久々に顔見れるかと思ってたのにな』
「そんな時間あるのか?」
『作るってそのくらい。親孝行もしないとだし』
プロとしての自覚って奴なんだろうか、殊勝な台詞が聞こえてきて、へえと思う。こいつ、少し会わないうちに大人になったみたいだ。こんなことでも水を開けられた格好の俺は、照れ隠しみたいに答える。
「俺の顔はもう見飽きただろ。俺はお前の試合、観るけどな」
これも嘘じゃない。とりあえずは。
『んじゃあ今日の試合は観といてよ。衛星なら放送入るよな?』
「ああ」
俺は短く答えて、今日なんだろうなと当たりをつける。雄太もはっきりとは教えられないんだろう。前回登板から中六日、ここで実力を示して先発ローテ入りを目指したいところ――なんて今朝のスポーツ紙には書かれてるんじゃないだろうか。しかし買って読む勇気はない。
甦りつつあったナーバスな気分に、奴が水を差してきた。
『そういえば耕太、彼女とは上手くいってんの?』
「は? 急に何」
聞き返しつつ、これはむしろ水を差してもらえたというべきなのかな、とも考える。いや、歓迎したい話題ではなかったが、試合の話を続けられるよりはましだ。
『そういえばあの子とも随分会ってねえし。どうしてっかなーなんてふと思った訳』
「どうって、元気だよ、普通に」
『それだけ?』
「……お前、忙しいんじゃねえの。こんな与太話してていいのかよ」
からかいたがっている声に噛み付けば、電話越しにうくくく、と笑う声がした。
『忙しいから単刀直入に聞いたんだって。つかよくある話じゃね? 親が旅行でいない隙に彼女を家に連れ込んじゃうとかさあ』
一瞬、双子のテレパシーという単語が脳裏を過ぎった。まさか。息を呑んだせいで直後の反論が上擦る。
「ば、馬鹿、何言ってんだ」
『あれ? うろたえちゃってもしや図星ですか兄貴?』
「うるせえこんな時だけ兄扱いすんな」
『どうなんすかお兄様』
「気色悪っ」
劣勢を悟った俺は罵倒に終始するほかなく、一方の雄太は上機嫌で続ける。
『そういうことならしょうがねえなー、次は旅行がてら試合観に来れば? 彼女と二人で』
最後のフレーズだけを妙に強調してきて、
『俺も頑張るからな。安心して観に来いよ、耕太』
通話の締めくくりは実にさらっと、やり返す隙もなく告げられた。
後に残されたのは切れたての携帯電話と、行き場のない感情――何て言うか俺、こいつの為に一人でナーバスになってて馬鹿じゃねえの、みたいな。心配なんかしなくたって雄太は、登板を控えているらしいその日の朝にこんな電話を掛けてくるだけの度胸があるんだから。
まあちょっとだけ、はしゃいでる風にも思えた。あいつも全く緊張してないって訳ではないらしいが、だとしても俺を気遣い、からかう余裕まである。何が兄貴だ、いつだって俺は置いてかれっ放しだ。
彼女には、今日かもしれないという推測をこっそり打ち明けた。
それから試合開始に合わせて夕方、来てもらうことにした。彼女は俺の家の場所を知っているが、家の中へ招くのは初めてだ。なのに弁当まで作ってきてもらうのは申し訳ない気もしたので、俺は約束の時間の前にコンビニへ行き、飲み物と菓子類を適当に買い込む。ピーナッツとクラッカージャックがあればいかにもお約束な感じなのに、コンビニではそれらは揃わない。やむなく一通りポピュラーなお菓子を用意した。
夕方、家のチャイムを鳴らしてきた彼女は、大学で会う時よりはおめかしをしていた。たまのデートの時に着るような可愛いワンピース姿だった。でも迎えに出た俺の顔を見るなり気遣わしげにして、
「耕太くん、顔色が……」
と言ったから、恐らく相当に緊張して見えたんだろう。
「だ、大丈夫」
俺はぎこちなく答える。
「雄太が安心していいって言ったから、大丈夫だ。多分」
「そうなんだ、良かった」
彼女が胸を撫で下ろす。むしろ彼女の方が雄太を信頼しているように見えた。
家のリビングにはでっかいガラス戸の棚があって、そこには雄太が獲ってきたトロフィーやら賞状やら、ユニフォームの移り変わる数々の記念写真やらが飾ってある。その中には俺が、吹奏楽のコンクールで貰った個人用のちっちゃい賞状も交ざっている。リビングに入った彼女が真っ先に目を留めたのもそこで、無邪気な顔して眺めているその間、俺はテーブルにお菓子やペットボトルのお茶を並べて、テレビの電源を入れた。チャンネルは野球中継の入るBS、この時間はまだ釣りの番組をやっている。
「……座れば?」
それからソファーを指し示すと、彼女は柔らかい表情になる。ありがとうと言ってからソファーに腰掛ける。提げた弁当箱はテーブルの上に置き、すぐに先客の菓子類に気付いて目を丸くした。
「たくさん買ってきたんだね」
「ああ、ほら、つまむものは多い方がいいかなと……」
乾いた声で答える俺。少し笑われたのでぎくしゃくしながら隣に座り、言葉を継ぐ。
「もちろん、弁当もちゃんと食うから。全部」
「うれしいな。私、今日も縁起のいいメニューにしてきたんだ」
本当にうれしそうにしてもらうと、こっちの気分も和んだ。ようやく今の状況を振り返る余裕が出来た――親が旅行に出かけていない家、可愛くてやたら前向きな彼女と二人きり。彼女は腕を振るった弁当を作ってきてくれて、しかもこれからテレビで野球観戦を始めようというところだ。昔は俺も大好きだった野球を、今も双子の弟が、雄太が続けている。誰もが進める訳じゃないプロの舞台で。
あとは、きっと、俺の気持ち次第だ。
「なるべく、俺も頑張るけど」
俺は彼女に打ち明ける。
「もし……あんまり言いたくないけど、もしあいつが打たれたりしたら。あ、ランナー背負ったくらいなら何とか、頑張るけど」
「うん」
わかってると言いたげな目をして彼女が、顎を引く。じっと俺を見て告げてくる。
「耕太くんが頑張れるだけでいいと思う。私は応援してるよ、耕太くんのことも、雄太くんのことも」
そこまで言われて、頑張らない訳にはいかない。失点の一つや二つは耐え忍ぼうと心に決める。
やがてナイター中継が始まった。
案の定、今夜の先発投手は雄太だった。ウグイス嬢が早口気味にアナウンスしてみせた瞬間から動悸が激しくなった。つい数ヶ月前までこの家にいた双子の弟が、液晶ディスプレイの向こう、夜の球場のマウンドにいる。俺が到底辿り着けなかった遠い歓声の中にいる。現実感がなさ過ぎてぼうっとしてくる。
ホームゲームなので雄太の球団は後攻めだ。投球練習の模様を見て、実況アナウンサーと解説者が何か話をしている。でもまるで頭に入ってこない。プレイボールが掛けられても身動きが取れなかった。意識が戻ってきたのは雄太がワインドアップから第一球を投げた瞬間だった。球筋は高めに外れて、ボール。初球でいきなりボール。
「――チャンネル、替えていいか……?」
「耕太くん、さすがにまだ試合始まったばかりだよ」
わかってる、それはわかってるが、俺は既に目を逸らしたい気分で一杯だった。いきなりストライク入らないとか心臓に悪い。頼む、雄太、勘弁してくれ。
俺の逃げ腰っぷりを察したかのように、雄太の二球目はストライク。そこからは調子を掴んだか、相手チームの一番打者を空振りの三振に切って取る。溜息が出る。
しかしほっとしたのも束の間、二番バッターは雄太の球を打った。三球目に手を出して打球が飛ぶと、向こう側では歓声が沸きこちらは鳥肌が立つ。狭い球場だと一発が恐い、ボールは高く上がって中堅手がバック、捕球の位置に就く。無事に捕ってくれるまで息を止めていた。苦しかった。
「俺、もう駄目かもしれない」
「しっかり耕太くん! そうだ、お弁当開けようよ、ね?」
弱音を吐けば彼女が隣から励ましてくれる。すぐに弁当箱の蓋が開き、揚げ物のいい匂いがした。でも一回の表が無事終わるまで、俺は彼女が取り分けてくれたおかずを確かめることさえ出来なかった。目を逸らしたいと思っているくせに、試合に釘付けになっている。
弁当は攻撃中に食べた。白星おにぎりとフライ中心のメニューはすごく美味しくて、すきっ腹に染み込むようだった。彼女はますます腕を上げたようだったし、ちゃんとグリンピースを抜いてくれるのがありがたい。二回の表に備えてたくさん食べたかったのに、一回の裏は出塁さえせずに終わってしまった。相手ピッチャーもなかなか好調のようだ。
「やべ、どきどきしてきた……」
まだ二回だ。普通に行けばここから九回まである。ちょっと長過ぎやしないか、そこまで身が持つかどうか甚だ怪しいっていうのに。
箸どころか瞬きすら止まっていた俺の目に、振り被る雄太の投球モーションが映る。そして俺に手には何か温かいものが触れた。
温かくて柔らかい、彼女の手だった。
視線がひとりでに動いた。料理を作るのが上手くて、スネアドラムを叩くのもすごく上手い彼女の手から、素肌の腕を辿って細い肩へ。その上には思いのほか真剣な表情があって、口調も頼もしげに言われた。
「手、繋いでようか」
「え……?」
「そしたら、ちょっとは落ち着くかもしれないよ」
差し伸べられた手と比べても、彼女の頬はほんのり赤い。だから繋いだところでちっとも落ち着かないだろうと思いつつも、俺はその手をぎゅっと握った。
どきどきした。
でも、幸せにも思った。彼女がいること、隣にいて、こうして支えてもらっていること。
「……ありがとう、助かる」
二回の裏が三者凡退で終わった、そのタイミングで礼を言った。
彼女は黙って、もう片方の手も重ねてくれた。
試合は行き詰まる投手戦だった。さしもの雄太も何度かヒットを打たれ、フォアボールも一つ出した。ランナーを背負う度に俺はうろたえ、たじろぎ、逃げ出したくなる気持ちになった。
引き止めていてくれたのは彼女の温かい手だ。緊張のあまり強く握っても、手のひらに滑るほど汗を掻いても、決して離さずにいてくれた。申し訳なくなって途中、二度ほどタオルで拭いた。それでもすぐに繋ぎ直してくれた。
そして――両チーム無得点のまま迎えた七回裏、雄太のチームは好調の相手ピッチャーをようやく打ち崩し、辛くも二点をもぎ取った。俺と彼女も喜んだ。声を上げる余裕まではなく、よし、やった、と小声で囁きあっただけだったが。そこからはもう祈る気持ちで見守るしかなく、雄太がチームメイトの奮起に応え、残り二回も無事投げ終えるまで、弁当どころかお茶も喉を通らなかった。
吾妻雄太、先発二試合目の成績は四死球一、被安打三、無失点。公式戦二勝目を完封で飾った。
そこからの流れも夢見心地だった。チームメイトや監督に声を掛けられて笑顔を見せる雄太が、お立ち台に上がってインタビューを受ける。内容は高卒ルーキーらしい不器用さと真面目さに溢れていて、今朝電話で話した時のはしゃいだそぶりなんてまるで見当たらなかった。実況アナウンサーが言う、
『今日はご両親が球場にいらしているそうですね!』
テレビカメラが観客席にいるうちの親をアップで映す。それに答えた雄太の台詞は格好良かった。
『今日まで育ててくれた両親に、まず一つ、恩返しが出来ました!』
親孝行、ちゃんとしていた。出来ていた。
俺はやっぱり、あいつに水を開けられっ放しだ。
ナイター中継が終わり、気が付けば弁当は食いかけのまま、お菓子は全くの手付かずだった。テレビを消してからもお互い放心状態で、食事を再開するまでにしばらく掛かった。もっとも、彼女の作る弁当は冷めても美味しかったし、まして雄太の勝利を見届けた後だ、格別の味がした。
お菓子は、彼女に少し持って帰ってもらうことにした。
「今日、付き合ってくれた礼に」
俺がそう言ったら、慌てたようにかぶりを振られたものの。
「お礼なんて。私も楽しかったから」
「楽しめたか? 俺のせいではらはらし通しだったんじゃ……」
「ううん、すっごく楽しかったよ。野球のルールも大分わかるようになったし」
微笑む彼女はすごく、いい子だ。高校時代は野球なんてほとんどわからなくて、とんちんかんなことばかり言っていたのに、いつの間にかルールも覚えてくれた。今日も快く付き合ってくれた。本当に、俺は幸せ者だ。
「じゃあ今度、球場に観に行かねえか」
思い切って提案してみる。彼女には、きょとんとされた。
「球場に? 一緒に行っていいの?」
「ああ、雄太が観に来いって言ってるから。……俺がもうちょい、慣れたらだけど」
テレビ観戦でも気力使い果たしてる今はまだ無理だが、もう少し落ち着いて観られるようになったら。前みたいに野球を、心から好きだって言えるようになったら。そしたら今度は球場で手を繋いでもらおう。……今日よりはもっと、こう、デートっぽく。
「うん。是非、行きたいな」
彼女の答えはあんまり構えた様子もなく、球場が近場にはなくて旅行をする距離になる点なんてまるで念頭になさそうに見えた。まあ、下手に意識されるよりはいいのか。俺がこんなんだから。
そして彼女は受け取った袋菓子を、弁当箱と共にしまい込んだ。粛々と帰り支度を始めている。その姿を見守る俺は当たり前のように寂しさを覚えていながらも、引き止めるにはまだ早いと思っている。
まず、しておかなくちゃいけないことがある。
「お前さ」
帰り支度が一段落したところで切り出してみた。
「とりあえず次は、うちの親がいる時に来いよ」
俺の言葉に彼女は、またも怪訝そうにする。瞬きを繰り返す表情に続ける。
「紹介するから。お前のこと」
するならまず、そこからだ。今まではそんな肝心な事柄さえ放ったらかしにしていたから――どうせいい兄貴にはなれそうもない。だったらせめて、まずはいい彼氏を目指してやろう。
俺を見つめていた顔がやがて、みるみるうちに赤らんだ。あ、と単語にならない声を上げてから語を継いでみせる。
「わ、私でよければ……」
「うん」
「よろしく、お願いします」
その答えがうれしくて、俺はもう一つ頷く。それから顔と同様に少し赤い、温かい手を取って、言ってやった。
「今日のところは送ってく」
帰り道はお互い、あまり口を利かなかった。
でも俺はすごく幸せで満ち足りた気分だったし、彼女も時々、くすぐったそうに小さく笑った。もし俺の言動で彼女のことも幸せに出来ていたならうれしい。幸せに出来ていないなら、これから頑張る。
出来の悪い兄貴も卒業だ。要らない心配をするくらいなら、俺は俺の好きなものと、好きな奴のことだけ考えていよう。