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春の再来(3)

 俺の部屋に立ち入った雛子は、その大きな変化に絶句していた。
 隠すつもりは毛頭なかったのだが、こうして反応を示されるのもそれはそれで気まずいものだ。どのみち隠しようのない代物だけに買ってしまった以上はどうしようもないのだが、もう少し時間を置いてから買えばよかっただろうか、とも思う。
 戸口から部屋を覗き込んだ彼女が、棒立ちのままで右手奥に位置するセミダブルベッドを凝視している。そして落ち着きなく瞬きを繰り返した後、傍らに立つ俺に、ためらいながら尋ねてきた。
「……買ったんですか」
 責めるでもなく、笑うでもなく、戸惑いだけは隠さないままの問いだった。
 俺もここまで連れてきたからには腹を括っていたし、買い物自体に非があるとも思っていない。恥じ入る態度を見せればかえって彼女が気まずかろうと、開き直ってやることにする。
「買った。何か問題があるか」
 雛子は笑いを押し殺すように唇を結び、その後で答えた。
「全然ないです」
「なら気にするな。本来ならあってもおかしくはない家具だ」
 俺が言い聞かせても、雛子はまだ釈然としていないような顔で新顔の家具を眺めている。そいつのせいで手狭になってしまった部屋は、一時居心地の悪い沈黙に支配された。しばらく部屋を空けていたのに室温はいやに高く、暑ささえ感じた。
 実際、存在していて不自然だというものではない。これまでは徹底して寝具の類を片づけ、見せてこなかっただけで、部屋の中にあったのは事実だ。単にそれを常時置いておくようにした、というだけならおかしなこともあるまい。
「どうせなら収納にも役立つ品がいいと思って、これにした」
 あまりにも雛子が熱心に見つめるので、俺はその視線に割り込むように告げた。
 それでも彼女は黙っている。彼女が何を考えているのかは大方推測できるから、いっそ非難でもしてくれた方が反応しやすいのにと思う。黙って赤面されるのが最も反応に困る。
「黙るな。俺としても、魂胆が見え透いているのは自覚している」
 取り繕っても仕方がないと、俺は素直に言った。
 結局は雛子がいるから、この部屋に今後も招くつもりでいるからこそ購入したものだ。
 雛子が恐々とこちらを見る。人見知りの子供のような覚束ない口調で、
「ね、寝心地は、どうですか」
 脈絡のないことを尋ねてきた。
 予想外の問いに戸惑いつつ、一応答える。
「まあまあだ」
 まさかここで、試してみてはどうだとは言えまい。
 俺の無難な答えをどう思ったか、雛子は表情を明るくする。
「そうですか……。あの、よかったですね」
「ああ」
 会話は特に弾むことなく、そこで完全に途切れた。
 どうやらベッドの存在に彼女はすっかり動揺し、萎縮してしまったようだ。たまに俺が面食らうほど早熟なことを口走るくせに、根本のところは初心なのが不思議でならない。この多面的な心理状態こそが女心の典型例だというのなら納得がいくものだ。
 さておき俺は彼女を萎縮させるつもりはなかった。せっかく部屋に招いたのに、ろくに会話が弾まないというのも寂しい。空気を変える為の口火を切るのは俺の役目だろうと、思いきって彼女に告げた。
「そう身構えなくてもいいだろう。さっきも言ったが、今日はそういうつもりでお前を招いたわけでもないし、これを買ったから呼んだのでもない」
 誤解のないようにとなるべく簡潔に諭したつもりだったが、雛子は安堵するどころかますます意識したかのように視線を逸らした。
 そういうつもりはないと言っているのに、全く女心というのは解せないものだ。
 しかしこちらの気遣いは通じたのか、ややあってから雛子はぎくしゃくと室内に視線を巡らせ、それから俺を見た。
「生活感があるっていうのもいいと思います」
 真面目な顔で言ってきた、その単語を俺は繰り返す。
「生活感? 今まではなかったか?」
 どちらかというとそれは、これまでずっと隠してきたものだった。
 そうしたかったというわけではなく、むしろそうすべきだと思っていた。雛子であれ、あるいは他の相手であれ、この部屋を訪れる人間にそういうものを悟らせてはいけないと思っていた。そういうものを人前に晒すのは無様だとさえ考えていたのだ。
 俺の無益な潔癖さを笑うが如く、この部屋には徐々に物が増えつつある。この一年間で新たにやってきた物もいくつもある。全て雛子なしでは手に入れられなかった、あるいは俺一人なら欲しいとも思わなかったものばかりだ。
「そうですね、あんまり……」
 雛子は笑わないように気を使うそぶりで続ける。
「でもこうして、家具が一通り揃ったら、先輩がここで暮らしているんだということがわかっていいと思います。少なくとも私は、何だかほっとしました」
 生真面目な彼女のその言葉は、俺を少々どきりとさせた。
 もしかするとこれまで、隠すべきだと思ってきたもののせいで、俺は彼女を不安にさせてきたのかもしれない。
 そして、前にもあったな、と思う。俺が隠し事をしたから、かえって雛子を振り回す羽目になったことが。
 嘘をつく必要がないということは、隠し事をする必要もないということにも繋がるだろう。いっそありのままを見てもらう方が俺も気が楽で、彼女も安心できて、お互いにいいのだろう。
 ましてやこれから、二人で過ごす時間が増えていくのだから。
「……そういうものか」
 俺は静かに息をついた。
 相変わらずベッドは視界の中でその存在を主張しているが、俺たちの間にたゆたう気まずい沈黙は随分緩和されたようだ。見えない手が何かを取り払い、空気を和ませてくれた。そのきっかけをくれたのは、やはり彼女だ。
「お前がそう言ってくれて、俺もほっとした。どうやら取り繕う必要もなかったな」
 本心から呟くと、俺は雛子に向かって声をかける。
「飲み物を用意してくる。紅茶でいいな」
「はい。ありがとうございます、先輩」
「礼を言うのはこちらだ」
 笑いかけようと思うより先に、自然と口元に笑みが浮かんだ。
「すぐに持ってくるから、座って待っているといい」
 雛子はぎこちなく微笑みながらも、俺から目を逸らさずしっかりと頷いた。

 この部屋には彼女にまつわるものが多くある。
 俺一人では飲むこともまずなかった紅茶の葉も、それを入れる為のティーポットも、あの白い紫陽花の鉢植えもそうだ。
 そして彼女にまつわるものたちは、たった一年間で更に増えた。彼女がくれた手紙やカード、俺の好みに合いそうだと勧めてくれた本、持つつもりもなかった携帯電話とその中に保存された『ハートの女王』、文化祭の為に作成した文集、そしてあのセミダブルのベッド。
 彼女はいつも、形に残る記憶をくれる。それらはいつも俺を幸せにしてくれる。
 いつかこの部屋が本当に彼女にまつわるものばかりになって、それだけに埋め尽くされて、他にはもう何も入らなくなったらどうなるのだろう。このまま行くと本当にそんな日が、すぐ数年後くらいにやってきそうだ。
 いや、その時はもっと広い部屋に移ればいいのだろう。
 形に残る幸せな記憶を抱えながら、二人で生きていけばいい。
 そんなことを考えつつ、俺は彼女の為に紅茶を入れた。
 今日は俺も紅茶にした。何となく、気まぐれに。

 紅茶を注いだ二人分のティーカップを座卓に並べてから、俺はホワイトデーの菓子を雛子に手渡した。
「開けてみろ。好みのものが入っているかもしれない」
「ありがとうございます」
 雛子は恭しくそれを受け取り、優しくリボンを解き、破かないようにと息を詰めながら包装紙を剥がす。箱の蓋を開けた途端、ぱっと表情を輝かせた。
 中に詰め込まれた数種類の洋菓子は、どうやら彼女を喜ばせることができたらしい。
「好きなものばかりです」
 顔を上げた彼女がとろけるような笑みを見せる。
 俺まで心が溶けていくようだった。恥をかきながらも菓子店まで出向いた甲斐もある。
「それはよかった。いろいろ買いすぎてしまったが、喜んでもらえたなら嬉しい」
 ほっとしつつ、俺は彼女に菓子だけではなく紅茶も勧めた。
「遠慮なく食べてくれ。それは全部、お前の物だ」
 すると雛子は一も二もなくお菓子に手を伸ばし始める。にこにこと相好を崩しながら、
「お菓子に囲まれての卒業パーティなんて、幸せです」
「パーティにしては、あるのはお菓子とパンだけだ。質素すぎないか」
 大げさな物言いをされ、俺は面食らった。
 ホワイトデーの菓子の他は、昼飯用にと購入したパンくらいしかない。今日パーティをすると言うなら事前に支度もしておいただろうし、買い物のついでに何か見繕ってもよかったのに。
「そんなことないです。私、先輩にお茶を入れてもらってお菓子を食べるのが好きなんです。私にとっては最高のパーティですよ」
 雛子は欲のないことを言う。
 その言葉が嬉しくないわけではないのだが、健気にも聞こえて心苦しくなる。こういう時こそわがままの一つでも言えばいいはずだが、雛子はまるで満ち足りた顔つきをしている。
「言えばもっと、何か用意しておいたのに」
 俺は思わず零したが、しかし彼女が満足しているのに俺が不満を唱えるのも妙だと、今日のところは引いておく。
「まあ、お前がいいと言うなら……乾杯でもしておくか」
 浮ついた振る舞いかもしれないが、パーティだというのならこのくらいはしてもいいだろう。俺がカップを持ち上げると、雛子も急いで自分のカップを手に取った。二つのカップが軽く触れ合うと、鐘の音のような涼しい音が響いた。それからお互いにじっくりと紅茶を味わう。
 コーヒーに慣れてしまった舌に紅茶の味は穏やかすぎて、普段はそれほど飲む気にならない。だが静かな午後のひとときには紅茶の優しい味が合っている。温かい紅茶の香りが身体に染み込んでいくと、眠気にも似た安らぎを覚えた。
 安らいだ気分の中で俺は雛子を眺め、雛子は至福の表情で菓子を食べている。マドレーヌやパウンドケーキといった数種類の菓子を一通り食べた後、彼女は言った。
「私、これが一番好きです。びっくりするくらい美味しいですよ」
 彼女が二つ目を手に取ったのは個包装されたブッセという菓子だった。どういう菓子かは店頭で見本を見たからわかっているが、せっかくなので名前も覚えておこうと思う。彼女をここへ招く際、また買っておくこともあるだろうから。
「気に入ったものがあってよかったな」
 俺はパンを食べながら、雛子が甘い菓子に顔をほころばせる姿を堪能した。何だかんだ言ってやはり彼女は甘いものなら際限なく食べてみせたし、その時の幸せそうなそぶりを観賞するのは大変に楽しかった。食べさせ甲斐がある、とでもいうのだろうか。
「しかしお前は、そんなに甘い物ばかり食べて、よく口が甘ったるくならないな」
 からかうつもりで俺が笑うと、彼女はそこでふと動きを止めた。
 食べかけの菓子を手に持ったまま、どこか呆然としたように俺を見ている。俺の言葉に驚いたというふうではなかったが、脈絡のない反応ではあった。
「どうした? 喉でも詰まったか」
 訝しく思い尋ねると、はたと我に返ってみせる。
「……いいえ、何でもないです」
 そして食べかけの菓子を口に放り込み、少々急ぎ気味に飲み込んでから、彼女は改まったように切り出した。
「そういえば先輩、もうすぐ二十一歳になりますね」
 雛子が口にしたその事実は、ちょうど今朝方、頭の片隅にあった。
 偶然の一致に心臓が高鳴る。彼女が覚えていてくれたことを嬉しく思い、そして去年彼女と交わした、誕生日についてのやり取りを思い出しては懐かしむ。
 あれからもうすぐ、一年になるのだ。
「ああ、そうだったな。もうすぐだ」
 俺が応じると、雛子は軽く頷いた。
「はい。もう来月の話ですよ」
「月日が経つのは早いな。ついこの間、年金の手続きをしてきたと思っていたが」
 当時の記憶は今も鮮明に蘇り、一年前の話という気がしない。二十歳になるのに合わせて次々と舞い込んできた各種手続きを多少は煩わしく思いつつ、それでも心の奥底では、大人になったのだという自負を抱いていた。
 あれから一年。今の俺は当時の俺よりも大人になれているだろうか。
「去年もお前と、こんな話をした覚えがある」
 記憶を手繰り寄せながら俺は言い、
「そうですね。先輩のお誕生日をどう祝うか、考えていたことを思い出します」
 雛子もまた、当時の記憶を手放さずにいるのかしみじみと語った。
「あの時はくだらん押し問答をしたな」
 そう言いつつも俺は、彼女なら今年も同じ事を言い出すだろうと確信していた。
「今年のプレゼントは何がいいですか?」
 そして案の定、雛子は弾む声で尋ねてきた。
 これも勘が鈍いと評していいだろうか。
「今年もその話をするのか」
「もちろんです。大事なことですし、私にとって興味深いことでもありますから」
 俺が顔を顰めてもどこ吹く風で雛子は言い募る。
 だからこちらも、以前告げたことを繰り返し、伝えていくしかない。
「前に言わなかったか、お前がいればいい」
 はっきりと言ってやれば言ったで、雛子は驚きに息を呑む。俺の言葉が意外だったというわけではなく、ただ不意打ちを食らったような顔を赤らめる。
「それは、聞いてましたけど……。今年は、せっかくですから手抜きをしたくないんです。そういう安上がりなものじゃなくて――」
 手抜きだの安上がりだのと――俺が宝物のように、特別すぎて大切すぎて失うことが考えられないとさえ思っているものに対して、随分な貶しようではないだろうか。
 俺は彼女の言葉を遮り、言った。
「そう軽んじられるのは心外だな。俺にとっては何より大切なものだ」
 びくりと肩を震わせ、雛子が唇を閉ざす。
「他には何も、なくてもいい」
 そう続けた俺は、黙り込む彼女を静かに見据えた。
 きつく叱るつもりはない。自覚しておいて欲しかっただけだ。彼女の存在が俺の人生にどれほど深く関わり、根本から変えてしまったかということを、知っておいて欲しかった。
 彼女がいなければ、今のこの時間すら存在しなかった。春の日差しの下で穏やかに、静かに過ごすこの時間も、二人でいるからこそ幸せだと思える。春の喜びも誕生日を迎える喜びも、雛子が思い出させてくれたことだ。
 ――かつては俺も、その喜びを知っていた。あの港町で澄江さんと暮らしていた頃、不幸なこともたくさんあったが、それでも幸せだと言えた。だから父親によってこちらへ呼び戻され、そういったささやかな幸いすら奪われて、俺は人として当たり前の感覚を忘れかけていたのだ。
 それからは、何度春が巡ってこようと、喜びを覚えることはなかった。
 俺の元にやってくるのは年度が変わるという区切りだけで、暖かな光差す芽吹きの季節ではなかった。どんな季節も俺の傍を行きすぎていくばかりで、その喜びを享受することなどできるはずもなかった。
 だが、俺にも春がやってきた。
 長い冬を越えて訪れた春は、今まで巡ってきたどんな季節よりも幸せに満ちていた。これほどまでに満ち足りた春を俺はずっと知らなかった。しかもまだ三月、始まったばかりだというのに、満たされるあまり抱えきれなくなりそうなほどの幸いがここにはある。
 持ちきれない分は雛子に捧げよう。素晴らしき春の再来を、彼女と共に分かち合いたい。
「本当に……それで、いいんですか」
 雛子は声を震わせている。投げ込まれた俺の言葉が彼女の心にさざ波を立てたのが表情からわかる。苦しげな呼吸と瞬きの音、彼女の胸の鼓動がここまで聞こえてきそうだった。
「ああ。楽しみにしている」
 当然のように俺は頷き、しかし面映さに笑うしかなかった。
「誕生日が楽しみだというのも、これが初めてかもしれないな。待ち遠しいと思ったことはこれまで一度もなかった。なのに今は、早く四月が来ればいいのにとさえ思う」
 幼い頃、澄江さんが誕生日を祝ってくれた時、嬉しい一方で酷く切なかった。
 あの頃はまだ、親のことばかり考えていた。傍にはいてくれなくてもせめて一言くらいと思った、その願いすら叶わなかった。
 今はもう、願うことも、面影を追うこともない。
 代わりに考えるのはこれからのことだ。願うのも全て、雛子と共に歩んでいくこの先の未来について、だけだった。
「ありがとう、雛子。お前のおかげで、俺はこれまでになく幸せだ」 
 伝えたくなったことに深い意味はない。ただ言いたいからそうした。彼女に聞いて欲しかった。
 だが雛子がそれを受け止めた時、思いもよらないほどの衝撃が彼女の中に走ったようだ。
 まず瞳が瞠られた。それも一瞬のことで、次に彼女の表情が歪んだ。まさかと思った時にはもう目に涙が盛り上がり、彼女は捩れた声を上げる。
「……こんなものじゃないですよ、先輩」
 それはありったけの力で振り絞られた精一杯の言葉だった。
「これからもっと幸せな日々がやってきます。先輩の日常が、いい思い出だけでアルバムが埋まってしまうような毎日になるんです。私が、必ずしてみせます」
 瞳に決意と涙を湛えて、言葉の前向きさ、力強さとは裏腹の涙声で、彼女は懸命に伝えようとしている。突然の涙に愕然とする俺を、むしろ落ち着かせようとするみたいに柔らかく続けた。
「だから……楽しみにしててくださいね」
 その直後、彼女の瞳から涙が零れた。堰き止めるものもない涙はぼろぼろと容赦なく零れ落ちては彼女の服に吸い込まれていく。
「どうした、雛子。なぜ泣いている」
 泣かせるようなことを言ってしまっただろうか。俺は焦ったが、雛子は落ち着き払って自らの涙を手で拭う。
「多分、嬉し泣きです」
 そう口にした時、事実彼女は笑んでいた。
「先輩の前だと、嬉しさでも泣けるんです。不思議ですよね」
 唇は軽く微笑んでいるのに流れ落ちる涙は止まらない。そして嬉し泣きだと言われてもこちらが安心できるはずもなく、俺は慌てて雛子の傍へ近づいた。いてもたってもいられなかった。
「嬉しいのなら別に、泣かなくてもいいだろう」
 言いながら彼女を抱き締めると、雛子は抵抗もなく俺の腕の中へ収まった。こちらに身体を預けてくるのが重みでわかり、いくらでも支えてやろうと思う。
「ごめんなさい。卒業式で泣かなかったから、これはきっとその分です」
 俺に縋りながら雛子は泣き、更に笑う。
 嬉しさに泣く彼女を見ていると、涙の理由はわかっているのに胸が痛み、音を立てて軋んだ。彼女が俺の幸せを願ってくれていることが、焼けつくような痛さと共に伝わってくる。
「じゃあせめて、泣くか笑うかどちらかにしろ」
 泣き止ませようと俺が懇願すると、腕の中の雛子が涙混じりの笑い声を上げる。
 俺は彼女の肩を掴み、胸から軽く引き剥がしてその顔を覗き込む。赤くなった目と涙に塗れた頬、そのくせおかしそうに笑う唇が見えて、俺まで笑ってしまう。
「全く忙しい奴だ。早く泣き止め、せっかくの好物がしょっぱくなるぞ」
「努力します」
 それで雛子も泣くのをやめようと思ったのだろう。ようやく息をついたかと思うと、片手で銀フレームの眼鏡を外した。濡れた睫毛を伏せながら目元を拭おうとするのが見え、俺は思わずその手を遮るように掴む。睫毛の影が落ちた下瞼は腫れたように赤らんでおり、頬にも涙の跡がくっきりと残っている。その弱々しい泣き顔を、俺は無性に可愛いと思う。
 思いつきで、俺は彼女の唇を塞いだ。数秒間触れた唇はほのかに涙の味がした。
「……ほら。涙の味がする」
 離してから息をつく俺に、雛子は眼鏡をかけ直してからはにかんでみせる。
「しょっぱかったですか」
「ああ」
 俺が首肯すれば彼女は何気ない口調で、
「チョコレートの味はしませんでした?」
「するはずがないな」
 即答してから俺は急にどぎまぎし始めて、そんなことを尋ねてくる彼女を叱りたくなる。
「今日は思い出させるな。忍耐力を保ちたい」
 わかっていて言っているのか、そうではないのか、彼女が相手ならその判断さえつきかねる。時々妙に早熟なことを言っては俺を煽ってみせるくせに、根本はまるで初心だから困る。
「そういうつもりで呼んだのではないと、さっき言ったばかりだからな。あっさり撤回しては信頼を損なう。お前もなるべく協力してくれ」
 俺はそんなふうに雛子を諭した。
 彼女に信頼される存在でありたいと思っている。愛の形は多種多様なのだろうが、それなら俺はまず何よりも信頼が欲しい。彼女が道に迷う時、悲嘆に暮れる時、何はなくともまず俺の手を取ってくれるように。彼女に頼られる人間でありたいと、いつも思っている。
 その頃にはもう泣き止んだ雛子は、しばらくの間考え込むようにしながら俺を見ていた。いつもの控えめな微笑を浮かべながら、泣いた後の瞳で俺をじっと見上げ、胸の内では何か思案を巡らせているようだった。
 やがて、答えが出たのだろう。
「私、先輩が好きです」
 彼女は唐突にそう言った。
 俺は、先程まで何の話をしていたかと戸惑った。そういうことを言われるタイミングではないように思えたからだ。
「何だ、急に。脈絡もないことを言うな」
 すると雛子は澄ました顔をする。
「……そうでもないですよ、先輩」
 相変わらず彼女は俺を見ている。先程まで涙を湛えていた瞳は未だに赤く、微かに潤んでいる。その中に浮かぶ光は春の日のように柔らかく、温かみに溢れていた。
 俺と同じように、雛子の元にもまた春がやってきた。それは彼女を去年よりも大人にしたようだった。俺を見る眼差しは昔と変わらずひたむきだが、いつの間にかそこに見てわかるほどの甘さが加えられている。砂糖を溶かしたような、チョコレートよりも遥かに甘い視線だった。
 そして俺は、自らの考えに訂正を入れる。
 早熟な、という形容はもう当てはまらないのだろう。春が来て、彼女もまた変わった。俺のように頑固な人間ですら一年でこれほど変わったのだ。彼女が勘が鈍くて扱いづらいだけの少女のままでいるはずもない。

 そこで俺は雛子に対し、そっと笑いかけてみた。
 それから、もう少女ではない彼女を今一度、今度は強く抱き締める。
 早鐘を打つ心臓が春の再来を告げている。胸躍る素晴らしき季節は、まだ始まったばかりだ。
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