春の再来(2)
雛子とは、三月十四日に会う約束をしていた。世間的にはホワイトデーと呼ばれるその日もまた、俺にとっては長らく縁のない日だった。しかし今年は違う。彼女がくれた物への感謝を込めて、バイト代をはたいて菓子類を買い込んだ。雛子の好きそうなものをあれもこれもと見繕った結果、少々嵩張るサイズになってしまったので、彼女に直接渡すのはやめ、俺の部屋まで食べに来てもらおうと決めた。
その俺の部屋にも今月、とある変化が起きていた。大槻が見たら案の定という顔をしてみせることだろうが、とうとうベッドを購入したのだ。セミダブルサイズのベッドは殺風景だった八畳間の趣をすっかり変えてしまい、そのことに未だ慣れない俺は、ここが二年暮らしてきた自分の部屋ではなくなったような気さえしている。しかし便利だというのは事実だ。まだ一人でしか寝たことがないが――いや本来なら一人で寝るものではあるが、ともかく、買って後悔しているわけではない。寝心地は悪くないし朝の目覚めもまずまずだ。ベッド下に引き出しがある為、収納用品としての機能にも優れている。特に問題はない。
しかし雛子がこの新しい家具を見たら、どんな顔をするか非常に気になるところではある。大槻なんかよりもよほど顕著に顔に出すに違いなかった。
彼女もやはり、案の定と思うだろうか。
それとも真っ赤になって慌てふためくだろうか。
見せたいような、見せたところでこちらが平然としていられる気がしないような、定まらない予感が胸の奥で揺れていた。
三月十四日は駅前で待ち合わせをした。
というのも、雛子が買い物をしたいと言い出したからだ。長きにわたる受験生活では自由に買い物を楽しむこともできなかったそうで、服や本を見て歩きたいというようなことを言っていた。特に服は、制服を着なくなった彼女にとって大学生活を送る上で早急に揃えなければならない品だという話だ。別にめかし込んで来るようなところでもないし、講義に出るだけなら普段着で十分ではないかと俺は思うのだが、雛子はどうしても通学用の服が欲しいようだった。その辺りは男にはわからない感覚なのかもしれない。
気が逸り早くに目覚めた朝、俺は約束の時間まで暇を潰すのに苦労した。昨日のうちから掃除を済ませた部屋は特に汚れてもいなかったが、改めてもう一度掃除をしておいた。特にベッドの周辺は念入りに整えておいた。こういうところに生活感を残しておくことと、それを誰かに曝け出すことについて、俺は未だに抵抗があった。
することが全てなくなり、じっと本を読んでいる気分にもなれず、家を出たのは約束の四十分以上も前だった。どうせ今日は天気もいいし、早く着いたところで、日に当たりながらのんびり待っていればいいだろうと思った。心情的にのんびりと待てるかどうかは定かではないが。
春らしいうららかな陽気の日だった。町行く人々の服装も冬とは違い、だんだんと軽装になりつつある。暗い色のコート姿はほとんど見かけず、明るい色合いの薄手のコートや上着を着ている姿が目立った。かく言う俺も冬のコートは既に着ておらず、上着の代わりにカーディガンを羽織ってきた。少々気が早いかとも思ったが、外を歩いてみればちょうどいいくらいだった。
こうして春の町並みを歩いていると、去年の出来事を思い出す。
正確には四月末の出来事だが、俺はやはり今日のように、駅前で雛子と待ち合わせをしていた。しかし大学で教授に用を頼まれ、約束の時間に間に合わなくなった。その為大槻に伝言を託し、雛子の元へ向かってもらったのだが――後から駆けつけた俺を待っていたのは、彼女の姿のない待ち合わせ場所、そしてすぐ近くの喫茶店にてのうのうとお茶を飲む雛子と大槻の姿だった。辺りを散々探し回り、彼女はもう帰ってしまったのではないかと思い始めていた頃にようやく姿を見つけた、その時の深い安堵と多少の怒りは今でも鮮明に思い出せる。今となっては笑い話だ――と言いたいところだが、思えばあの頃から大槻は油断ならなかった。あいつが雛子のよき先輩になれるかどうかは目下先行き不透明だ。
そして四月が来れば、俺は二十一歳になる。
今年は誕生日を忘れることもなさそうだ。それどころか楽しみに待っているようになるかもしれない。プレゼントは要らないと既に言ってあるが、改めて聞かれたらもう一度言おう。
俺は、お前がいればいい。
いつもより速いペースで歩を進めていたようだ。たった十分で駅前に着いた。
信号待ちの間に確かめた腕時計は約束の三十分前を示しており、のんびり待つかと自分に言い聞かせたところで、見慣れた町並みに立つ雛子の姿が目に留まった。思わず目を疑ったが確かに彼女で、春らしい若草色のコートを着てこちらに手を振っていた。
三十分も前なのに、どうして彼女がここにいるのだろう。俺は驚きのあまり手を振り返すのも忘れ、信号が変わると急いで彼女の元に駆け寄った。雛子はそんな俺を、一点の曇りもない極上の笑顔で出迎える。
「もう来ていたのか。まだ三十分前だぞ」
彼女の元へ辿り着くと、俺は真っ先にそう尋ねた。
雛子は上機嫌で答える。
「気が逸ったみたいで、つい早く来ちゃったんです」
照れを含んだ笑みとはしゃいだような声、それらは決して不快なものではなかったが、面映いとは思った。会うなり不意打ちを食らわされた気分だ。
俺はつられて顔が緩まないよう、口元を引き締めながら告げる。
「だったら連絡くらい寄越せ。何の為に電話を持ち歩いているつもりだ」
早く着いてしまったと、電話なりメールなりで一言寄越せば俺も急いだものを――こちらも出かけるまで時間を潰すのに苦心していたというのに。
「そんな、先輩まで早く来てもらうのは悪いですよ」
雛子は気遣うように言うのだが、全くもって無駄な気遣いだった。
「俺だって大分前から支度はできていた。お前が早く来ていると一言寄越せば、こちらももっと早くに出てこられたのに」
せっかくこうして二人で会うのだから、少しでも長い時間一緒にいたいと思うのが当然だろう。遠慮せず言ってくれればいいのにと俺が不満をぶつければ、何がおかしいのか雛子がそこで吹き出した。
今日の彼女は長い髪を下ろしており、その髪は春風に吹かれてもするりとまとまっていた。ほんのり化粧を施した顔に眼鏡をかけ、手の爪もわずかだが色づいて、光沢がある。膝下丈のブーツはおろしたてのように磨き上げられていて、ここにやってくる前に入念な準備をしてきたことが全身から窺えた。
高校を卒業したからといって劇的な変化があるわけではないが、妙に眩しく見えるのは、彼女の浮かれようが随所に覗いているせいだろう。
全く、お互い様にも程がある。
「まさか、来てからずっと外で待っていたわけではないだろうな」
「外で待ってました。先輩がすぐに見つかるようにと思って」
俺の問いに雛子は素直な口調で答える。
「三月と言えどまだ風は冷たい。こんなところで突っ立っていたら風邪を引くぞ」
それで俺が呆れて釘を刺せば、一旦は微笑んでこう言った。
「今日は大丈夫ですよ。日が差してて、ぽかぽかと暖かいです」
だが少しして、こちらの心情を酌んでくれたのだろう。言い直すように口を開いた。
「なら、次からは着いた時点でメールしますね」
俺も頷く。
「ああ。どうせなら早く会える方がいい」
こんな押し問答に費やす時間だって、考えてみればもったいない。
議論が落ち着いたところで、雛子が俺に向かって手を差し出してきた。手のひらを上にして伸ばされた小さな白い手と、その主が向けてくる上目遣いの眼差しに、俺もそれの意味するところを察する。
日差しが降り注ぐ昼前時、彼女と手を繋ぐのは少々気恥ずかしかった。だが温かい皮膚の感触は決して悪いものではなく、込み上げるような、胸が締めつけられるような幸福感を覚えた。俺なんかよりも雛子の方が遥かに平然としているようだ。
「しかし、今更ながら子供っぽくはないか? こういうのは」
恥じ入る気持ちを誤魔化すように尋ねると、雛子はさらりと答える。
「そんなことないです。大人から子供まで、皆やってることですよ」
「どうせ店に入ったら外すんだろう。その都度繋ぎ直すのがまた気恥ずかしい」
「何ならずっと繋いだままでもいいですよ」
「嫌だ。それこそ子供っぽく浮かれているみたいじゃないか」
待ち合わせをしてこうして会い、手を繋いだだけでもう、どうしようもないほど浮かれている。こんなにも心が飛んでいきそうなほど浮ついているのは、無事に春を迎えた喜びのせいだろうか。
いたたまれずに一旦目を逸らした俺は、しかしそうしたところで話が進まないことに気づき、彼女へ視線を戻した。
雛子も、見ている方がどぎまぎするようなはにかみ笑いでこちらを見ていた。
「とりあえず、どこから行く気だ」
俺は手を繋いだまま、彼女にそう尋ね、
「まずは服を見てもいいですか?」
彼女も俺の手を離さずに聞き返してきた。
「わかった、付き合おう」
「その後で本屋さんに行きましょう。私、ずっと行きたかったんです」
「買いすぎないようにな。本は持ち帰るとなると重いぞ」
「そうします」
目を輝かせる雛子は随分と嬉しそうだった。思えば受験生だった頃から買い物に行きたい、本を読みたいと願望を熱く語っていたほどだ。ようやく叶えられる日がやってきて、とても嬉しいのだろう。
「随分はしゃいでいるな。そんなに買い物が好きか、お前は」
俺は嬉しげな彼女に声をかける。
すると雛子はきょとんとしてから、表情を優しく和らげた。
「買い物も好きですけど、今日はデートですから特別です」
顔つきとは裏腹に、繋いだ手に力が込められる。と言っても彼女の握力では痛みなど感じない。むしろ手よりも胸が痛い。
こんなにもただただ幸せなだけの時間を、彼女は俺に与えてくれる。
喜びのあまり繋いだ手を引き寄せ、彼女を抱き締めたい衝動に駆られた。もちろんそんなことを町中でするつもりはないし、実行に移せば手を繋いで歩くより恥ずかしい事態が待っていることも承知している。どうにか堪えてやった。
「そんなに強く握らなくてもいい。血が頭に上ってしまう」
俺は雛子に言い聞かせると、雛子はわかっているのかどうか、小首を傾げてみせた。
それから、二人で連れ立って三月の町並みを歩き始めた。
俺たちはいくつかの店を見て回った。
雛子の服の好みは相変わらずで、水色やピンク、白といった春らしい明るい色ばかり見て回っていた。もっとも俺も彼女には明るい色の方が似合うと思っていたから、どれがいいかと尋ねられた際はそういう色合いの物を選んで、勧めてやった。
俺が手に取ったのは薄手の生地でできた薄いピンク色のブラウスだった。その明るい色合いも、袖が丸くふくらんでいるのも、胸元から裾にかけてのふんわりとしたドレープも、雛子にはよく似合いそうだ。雛子もそれを気に入ったようで、結局買うことに決めたらしい。手に取ってためつすがめつしているしている姿に俺も満足しつつ、それを着て大学へやってくる彼女を想像してみたら、一抹の不安も過ぎった。
似合う服を着るのはいいが、あまりきれいになられても困る。俺と二人で会う時ならいくらでも可愛くめかしこんでくればいい。だが大学ではあまり人目を引いてくれない方がいい。
惚れた欲目でする余計な心配というだけならいいのだが、大槻にまで言われていただけに、とても気になる。
「普段からあまりめかし込んでくるなよ。俺が心配になる」
つい、俺が口を挟むと、雛子は笑い飛ばすように明るく応じた。
「……考えすぎですよ、先輩」
そう言って笑う顔、特に柔らかそうな頬や淡い色の唇にはまだあどけなさが残っている。
だがそれもいつまでのことか。それでなくとも出会った頃と比べれば大人びて、少女とは呼べない姿になりつつある彼女を前に、俺は沸き立つ不安を抑え切れなかった。
「心配の種は尽きないほどあるからな。新歓だのクラコンだのと……」
自分の入学直後を振り返ってみればわかることだ。右も左もわからぬ新入生に親切顔で声をかけては信用を得て、あわよくばサークルに勧誘しようとする先輩たちが大勢いた。非社交的な俺がそういった誘いに乗ることはまずなかったが、その手の勧誘は普通に横行しているものらしい。それでなくとも膨らむ希望に気が緩みがちな新生活、その上春と言えば、不逞の輩がよからぬことを考え出す時期でもある。雛子にはまず何よりも自衛の術を身につけてもらいたい。
「いいか雛子、大学へ入ったら、特に年上の男には警戒しろ。差し当たって履修登録の相談は俺が引き受けるから、他に相談に乗ると言い出す男がいても簡単についていくなよ」
俺は彼女に強く言い聞かせた。
雛子はと言えばやはりぴんと来ていないらしく、曖昧に頷いている。
「はあ……ありがとうございます。よろしくお願いします」
こちらは真面目に言っているつもりなのだが、いまいち深刻さが伝わっていないようだ。彼女からすればまだ見ぬ大学生活に何が待っているのかなど想像のしようもないから、仕方のないことかもしれない。
いざとなれば俺がありとあらゆる悪い虫から彼女を守り抜けばいいだけの話だろう。
俺は決意を胸に、雛子は購入した服が詰まった紙袋を手に、二人で服屋を後にする。
その足で次に向かったのは大型書店だ。この手の店へは、彼女が受験生になる以前からよく二人で訪れていた。
「先輩は好きな本を見てきてもいいですよ」
雛子がそう声をかけてくるのもいつものことだった。俺と彼女は共に読書家だが読書傾向が異なる為、本を見る時は別行動を取った方が効率がよかった。
だが今日の俺は首を縦に振らなかった。去年の五月に彼女と彼女のお兄さんに遭遇した際、次に雛子と来る時は別行動を取るまいと心に決めていたからだ。その辺りの経緯を含めて思い出すと顔から火が出そうなので、あえて説明はしない。
「久し振りに来たから、お前の好みの本も見ておきたい。迷惑か?」
俺は逆に雛子に提案した。
彼女は驚きに目を瞠っていたが、すぐ嬉しそうな顔になる。
「い、いえ、そんなことは全然ないです」
それから俺の手を引き、
「じゃあ、一緒に見ましょうか。私が選び終えたら、今度は先輩の買い物にお付き合いします」
と言ってくれたので、俺は彼女に連れられて、まずは新刊コーナーへ足を運んだ。
雛子も欲しい本には事前に当たりをつけていたらしく、だらだらと立ち読みはせず、本の選別自体は非常に手早く行った。もっとも受験生活で控えていた反動なのか、彼女はかごに本を次々と放り込み、その結果途中からは重いかごを両手で持つのがやっとで本を選ぶどころではないというところまで至った。
「だから言っておいたのに」
買い物前に、本は重いから気をつけろと言ったはずなのに。俺は黙って彼女の手からかごを取り上げる。
途端に雛子は慌てた。
「すみません。重くないですか、先輩」
「お前が持つよりはましなはずだ。ほら、用が済んだなら次に行くぞ」
軽いとは言わないが、俺なら片手で十分だった。雛子に持たせておくのも忍びないので、あとは買い物が終わるまでずっと、俺が運んでやることにする。雛子は恐縮しきっていたが、彼女に頼りにされるのは悪いものじゃない。
こうして二人で書店へ来るのも久し振りだったからか、俺は新鮮な気分で過ごせていた。雛子の読書傾向が全く変わっていないことを確かめたり、新しい紙の匂いに満ちた静かな店内を並んで歩いたり、隣に立つ雛子にじっと眺められながら雑誌を立ち読みしたりした。
せっかく書店に来たのに俺の顔ばかり見ている彼女が滑稽だったが、俺もあまり彼女のことは言えない。時々立ち読みをやめて彼女の顔を眺めては、やはりどこであろうと二人で過ごすのがいいとしみじみ思った。
書店を後にしたのは午後二時少し前という頃合いだった。
お互い時間を忘れて過ごしていたが、時間を意識すれば不思議と腹も減ってくるものだ。俺よりも早く、雛子の方から切り出してきた。
「先輩、そろそろお昼にしましょうか」
「そうだな」
俺も応じてから、ふと、ホワイトデーの為に買い込んでおいた菓子類のことを思い出す。
嵩張るからと部屋に置いてきたが、今日のうちに渡さなければ意味がない。せっかくだから昼食は俺の部屋で取り、その後で渡すことにしようと思いつく。
そこで、俺は言った。
「いつ言おうかと思っていたんだが、ホワイトデーのお返しを用意していた」
「あ。えっと……嬉しいです。ありがとうございます」
お返しをすることはわかっていたはずだが、その時雛子は少し照れたように目を伏せた。
「何がいいのかわからなかったから、俺も菓子類にしておいた。いくつか買い揃えておいたが、お前は甘い物なら際限なく食べるだろうし、ちょうどいいはずだ」
雛子は甘い物が好きだ。こればかりは今のところ、微塵も変わる気配がない。
そして俺は、甘い物を食べる雛子を見ているのが好きだ。昔は甘い物など見るのも嫌だったのに、変われば変わるものだ。今では好んで食べたくなるものすらあるのだから。
「どんなお菓子なんですか?」
彼女が期待に満ちた目を向けてくる。
俺は購入した際のことを思い起こしながら語った。
「いろいろだ。菓子店でマドレーヌやクッキー、パウンドケーキなんかを詰めてもらった。お前の好きそうなものを選んでいたら、妙に数が増えてしまってな」
菓子店で眺めているとどれも雛子が嬉々として食べそうな品に見えて、ついつい買いすぎてしまった。あまりにまとまった買い物だったからか、店員には危うく彼岸用の菓子と間違えられるところだった。ホワイトデーです、と言った時の気恥ずかしさは言うに及ばず、店員から妙に気遣わしげな眼差しを向けられたのも居心地が悪かった。
ともかくも、俺の話に雛子はすっかり喜んでいる。
「美味しそうですね。楽しみです」
話だけで美味しそうな顔をするのがおかしい。俺も笑いを堪えきれなくなり、急いで彼女を促した。
「今から食べに来るといい。昼食代わりになるものも買って、俺の部屋へ行こう」
ところがその途端、雛子が固まった。
時間を止められたように瞬きもしなくなった顔を注視していれば、次第に頬が紅潮してくる。そしてこちらの視線から逃れるように目を泳がせ始めた挙句、実に言いにくそうに口を開いた。
「えっ、あの……」
何が言いたいのか、とっさには理解できなかった。
だが考えてみれば、彼女の挙動の異変は俺の言葉の直後だった。つまり俺の言動が引き起こしたものだとわかる。そして俺はつい今しがた、彼女を俺の部屋へと誘っていた。
何度も訪ねてきたことがある俺の部屋へ、彼女が赤面しながら抵抗を示すその理由は――。
「な……馬鹿、何を考えている!」
思い当たった瞬間、叱責めいた声が口をついて出た。
雛子が何を考えているかがわかり、それは確かに過去に前例があるからこその懸念なのだろうが、俺の側にはそういう意識は全くなかった。せいぜい、新しく購入したあのベッドを見たら彼女がどういう反応をするかと気にしていた程度だ。
むしろ彼女が意識しているとわかると、こちらまで意識してしまいそうになる。期待していたわけではないのに、いや、期待などという単語がすぐさま浮かぶ時点で既に駄目だ。手に負えない。
俺は胸に過ぎった様々な感情を振り払い、凍りついた姿勢のまま赤面する雛子に向かって告げた。
「違うからな、俺は純粋に、お前に好物を食べさせようと用意したまでだ!」
「そ、そうだとは、もちろん思うんですけど……」
彼女はもごもごと答える。どうにも歯切れの悪い物言いに、俺はますます勢いづいた。
「何だ。前例があるからと言って、いつもいつも別の企てがあるなどと思うな!」
そもそも他意があったならこんなふうに誘ったりはしない。
それでも雛子がうろたえているので、俺はついに言い放った。
「俺が疑わしいと言うなら、玄関先で済ませてやる。菓子だけ受け取って帰ればいい」
「疑ってるわけでは! 私は先輩を信頼してます」
雛子は即座に強く言い返してきた。おずおずとこちらに視線を向けながら、恥ずかしさのせいか今にも倒れそうな顔で続ける。
「ただ、すみません。どうしても、れ、連想するって言うか」
「考えるな。これからずっと誘いにくくなる」
俺は咎めたが、無茶な注文であることは俺自身がわかっていた。ちょうど前回、三週間ほど前に彼女が俺の部屋を訪れた時の記憶が蘇り、駄目になりそうだった。
しかしこんな調子では本当に、今後彼女を部屋へ誘いにくくなる。彼女が大学へ通い出せば俺の部屋へ立ち寄る機会も増えるだろうし、その時にいちいちこんな反応をされては困る。何だかまるで、俺自身が悪い虫の扱いを受けているようだ。
俺が困惑している間にも、雛子は彼女らしく真剣に考えていたようだった。ふと視線を上げたかと思うと、場違いなくらい真面目な顔をして告げられた。
「……じゃあ、お邪魔します」
先程まで狼狽しきっていたとは思えぬほど、決然とした答えだった。
驚きのあまり、俺は聞き返す。
「嫌じゃないのか」
「ちっともです。あの……余計なことを考えてしまって、すみません」
次いで謝られてしまったので、俺は俺でばつが悪くなる。
雛子の戸惑いも当然のものだ。彼女を責めたところでどうしようもないというのに、言いすぎた。
「お前が詫びるようなことでもない。気にするな」
俺の言葉に彼女は微笑む。柔らかく控えめな、俺の話を聞いてくれる時の笑い方をする。
「ありがとうございます、先輩」
「いや。……確かに難しいな。記憶を、切り離して考えるのは」
その笑顔に心を掴まれている俺は、得心する思いで呟いた。
俺たちは数多の記憶を積み重ねてきて今日まで辿り着いた。それらをなかったもののように扱うことはできないし、ふとした時に蘇ってしまうことも止められはしないだろう。いい記憶も悪い記憶も、全て俺たちが刻んできた足跡だ。いつかはそういうものをもっと穏やかな心境で振り返ることができるのかもしれないが、今はまだ激しい動悸と発熱と、うろたえる心ばかりで受け止めているしかない。
そういう時期なのだと言ってしまえばそれまでだが、せめてもう少し落ち着いていられたらいいのに。まるで春のように、俺の心は浮ついている。
「俺は、お前を大切にしたいと思っている」
いつも俺の話を聞いてくれる雛子に、俺は今の胸中を語り聞かせた。
「こんなことを言うのも今更だな。だが、お前には信頼される人間でありたい」
これから新生活を迎える彼女には、様々な出会いがあるだろう。
俺がこれまで果たしてきた出会いと同じように、彼女の前にはいい奴も、そうではない奴も現れるに違いない。俺が懸念しているような悪い虫の出現もなくはないだろうし、逆に彼女が大学において、無二の親友を得るようなこともあるかもしれない。そこまで深く関わる付き合いではなくとも、友人、知人、恩人と大勢の人間と出会い、関わり合っていく彼女に、俺は信頼されたいと思っている。
彼女が真っ先に、誰よりも一番に頼り、信じる相手が俺だったらいい。
もし道に迷うことがあっても、悩むことがあっても、俺が手を差し伸べてやる。俺の言葉だけは疑う必要もないと、彼女には思っていてもらいたい。俺もまた、雛子には嘘はつかない。
雛子は控えめに笑んだまま、答えの代わりにするように、黙って俺の手をぎゅっと握り締めてきた。
「あまり力を込めるなと言ったのに」
頭に血が上りそうだ。俺はぼやいたが、だからといって手を解かせるつもりはなかった。
三月の好天の日、差し込む陽光は暑いくらいだった。