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冬の日に歌を(2)

 携帯電話の着信音は、部屋に引いた電話よりも電子的で甲高い。
 大槻によればこの着信音はいくらでも変更できるとのことで、現に俺が使っているこの機種にも十数曲に及ぶ着信音の替えが初めから内蔵されていた。クラシックや往年の名曲がそのリストに並んでいたが、俺はあえて変更せず、甲高い着信音のままにしておいてある。電話がかかってきたとすぐにわかるし、何より部屋の電話と区別がつきやすい。
 そして部屋にいる時に携帯電話が鳴っても、部屋の電話が鳴った時ほど嫌な気分にならない。この電話番号を知っている人間はごく限られているからだ。

 今夜は澄江さんから電話があった。そろそろ来る頃だと思っていた。
 机に向かっていた俺はペンを一旦置き、携帯電話を操作してから耳に当てる。
『こんばんは、寛治さん。変わりはないかしら?』
 元気そうな澄江さんの声が聞こえてきて、それだけで俺はほっとした。
『寛治さんは季節の変わり目となるとよく風邪を引いたでしょう。今でも心配になるのよね』
「ありがとうございます。今のところは変わりありません」
『そう、よかった』
 澄江さんも安堵の息をついたようだ。
 しかしすぐに心配そうな声音に変わり、
『だけど、前の冬も風邪を引いていたでしょう? 寒いうちは用心しないと駄目よ』
「わかってます、気をつけますから」
 俺は苦笑したいのを堪えて応じた。
 昨冬、それも年が明けて早々の一月、俺は風邪を引いていた。喉を痛めたせいで熱が上がり、丸一日寝込んだ。幸い熱はすぐに下がったが、なかなか咳が取れずにしばらく辛い思いをした。
 本当は風邪を引いてしまったことを澄江さんには知られたくなかった。いちいち言うつもりもなかったのだが、咳が取れないうちに澄江さんから電話がかかってきてしまい、あえなく露見してしまったのだ。
『寛治さんも一人暮らしなんだから、何かあったら大変でしょう』
 子供を叱るような口調で澄江さんは続ける。
『若いからって風邪を甘く見ないようにね。引かないのが一番いいんだから』
「そうですね。予防に努めます」
 今度は堪えきれずに吹き出してしまった。言われるまでもなく手洗いうがいは欠かさず行っているし、部屋にいる時は保湿にも気を配っている。だが安アパートの一階は底冷えする寒さで、暖房をフル稼働させても部屋全体が暖まらないようにできていた。机に向かっていると指先が悴んでくるのが冬場の悩みの種だった。
『あなたが寝込んだりしたら雛子さんだって心配するわよ。気をつけなさい』
 澄江さんが脅かすように言ったので、俺は思わず黙る。反論のしようもなかったし、する気も起こらなかった。
 雛子もあれで妙に心配性のところがあるから、仮に俺が風邪を引いたと言い出せばわあわあと大騒ぎしながら心配し始めることだろう。看病しますと押しかけてくる姿まで容易に想像できてしまう。
 だから昨冬寝込んだ際も、雛子には決して教えなかった。同じ轍を踏まないようにじっと養生に努め、完全に咳が取れてから連絡をした。当時は携帯電話を持っていなかったので電話以外の連絡手段がなく、結果的に一ヶ月ほど音信不通となってしまったが、そう頻繁に連絡を取り合っていたわけでもなかったのでばれずに済んだ。
 現在は携帯電話を持っているから、咳が取れなくてもメールで連絡をすれば誤魔化しが聞くだろう。だがもちろん風邪を引かずに済むのが一番いいに決まっている。雛子の為とは言え、彼女を欺くようなことはなるべくしたくなかった。
『雛子さんは、元気にしてるの?』
 気がつくと随分長く黙り込んでしまったようだ。澄江さんから問いかけられて我に返る。
「え、ええ。先月顔を合わせた際はとても元気そうでした」
 慌てて答えた俺を、澄江さんがまた笑った。
『それはいいことね。あなたたちが仲良しだと、私もとても嬉しいわ』
 心なしか、冷やかされているような気がする。
 八月の旅行で雛子と顔を合わせて以来、澄江さんは電話の度に雛子の名前を出すようになった。どうやら彼女のことをいたく気に入ってくれたようでそれはいいことなのだが、この人から冷やかされるのはどうも慣れない。これが大槻あたりなら無視を決め込むこともできるが、澄江さんが相手では分が悪すぎた。
「仲がいいのは普通のことです。衝突ばかりしているようでは一緒にいる意味がありません」
 俺ははぐらかすつもりで言い返したが、かえって恥ずかしいことを口走ってしまったようにも思う。
『そうでしょうねえ』
 澄江さんは上機嫌でころころ笑い、
『ああ、何だか私も雛子さんに会いたくなっちゃったわ。次はいつ会えるかしら?』
 せがむような言い方で尋ねてきた。
「そうですね。彼女のご両親にご挨拶をしてから、また二人でそちらにも伺います」
 考えながら俺は答える。
 前回はそのことで澄江さんに叱られてしまったので、何を差し置いてもまずは雛子のご両親と話をしなくてはならない。
 雛子自身は大学受験を控えているし、それが済んだら春からは新生活が待っている。環境が変わるとなれば彼女も忙しいだろうから落ち着くまで待つとなると、やはり来年も夏頃向こうへ行くことになりそうだ。
『是非そうしてちょうだい。このご縁を大切にしなくてはね』
 念を押すように澄江さんが言う。
 それから小さく、あ、と声を上げた。
『そうだ、雛子さんと言えばね。先月あなたに貸してもらった文集をようやく読み終えたの』
 文集とは言うまでもなく、東高校文芸部が編集した今年度の作品集だ。澄江さんが雛子の書いたものを読みたがっていたので、俺が貰った分を澄江さんにも貸して読んでもらうことにした。送付したのは先月の話だが、澄江さんは雛子のような速読家ではないからこのくらいかかるのもいつものことだった。
『雛子さんはお話まで清々しくて素敵な方なのね。読んでいてとても爽やかな気分になれたわ』
 そういうふうに、澄江さんは雛子の作品を評した。
『若いお嬢さんらしい瑞々しさが文章に詰まっているというのかしらね。私、雛子さんとはたった二日お会いしてお話ししただけなのに、あ、雛子さんの書いた文だ、ってわかったの』
 事実、雛子が書く文章には彼女らしさが溢れている。そう思うのも俺が彼女という人間をよく知っているからかもしれないが、細やかさと荒削りな部分が混在する文章には、彼女が執筆中に心で思い描いた事柄がそのまま刻み込まれているようだった。飾らない彼女に直に触れられるような感覚がいつもあった。
 そんな彼女がハッピーエンドの物語を望むのも、彼女自身の強い意思から来るものなのだろう。つくりものの物語にご都合主義を持ち込んででも幸せな結末を願う彼女の心は、実は創作をする時こそが最も素直でいられる瞬間なのかもしれない。
『それに、寛治さんが影響を受けたというのもよくわかったわ』
 くすっと笑い声が漏れた。
 俺は決まりの悪い思いで聞き返す。
「確かに多少影響を受けたことは認めますが、そこまで変わりましたか」
『ええ。昔のあなたじゃ、こんなにも柔らかい文章は書けなかったんじゃないかしら』
 もちろん雛子が俺に与えた影響も、それによってもたらされた変化も測り知れないほどだ。それは自分でも自覚している。だがそれを第三者に、客観的な視点から指摘されると非常にくすぐったい気持ちになる。
『だからね、寛治さん。雛子さんを大切にしなくては駄目よ』
 澄江さんがそう言うからには、俺が果たした変化というのはいい変化なのだろう。もしかすれば『成長』と呼んでもいいのかもしれない。
 だが俺には一層の努力が必要だ。現状ではまだ雛子を大切にできているとは言いがたい。彼女の為に、何かできることが他にもあるはずだという気はするのだが、具体的なことはなかなか思いつかないのが実情だった。
「俺も、彼女を大切にしたいと思っています」
 答えに迷った挙句、そう告げた。
 それで安心したのか澄江さんが息をつく。その後少しだけためらい、恐る恐る語を継いだ。
『寛治さん、あのね。こんなことを言うと、あなたは嫌な気分になるだろうけど……』
「何ですか」
『私、少し前までは、もう長くないんじゃないかと思っていたの』
 澄江さんの言葉は静かだったが、その諦念めいた響きがかえって俺の背筋を震わせた。氷が滑り落ちていくような冷たさを覚え、思わず俺は声を上げる。
「滅多なことを仰らないでください」
 若くない年齢であるのはわかっている。俺が小さな頃から、澄江さんはクリスマスの一般的な過ごし方もできないほど年を取っていた。あの港町の小さな家は冬でも暖かかったが、ツリーやプレゼントが置かれることは一度としてなかった。俺も澄江さんには無理をして欲しくなかったから、やはり一度としてねだらなかった。
 この人には元気で、長く生きていてもらえたら、それだけでいい。俺はずっとそう思っている。
『そうね……ごめんなさい』
 すぐに澄江さんも詫びてきた。
『私もね、雛子さんとお会いしたら気が変わったの。何としてでも長生きして、寛治さんと雛子さんの結婚式に出なくちゃってね。だから大丈夫よ』
 澄江さんにあまり後ろ向きな考えは持って欲しくない。だがあまりにも気が早すぎるというのも困る。
 意表を突かれた俺は返答に詰まった。
「で、では、うんと長生きしていただかないと。きっと大分先の話ですから」
 ようやく口にしたのも無難な答えだったが、澄江さんはさらりと続ける。
『そうね。あなたたちの子供の顔だって見たいもの』
 次の言葉には心臓が跳ねた。自分では想像しがたい未来を呆気なく口にされたからだ。
 俺はもはやろくな反応もできず、言葉一つ捻り出すことも叶わず、それでも何か言ってこの場を切り抜けなければという焦りから口だけ開いた。
「……あの」
 そんな俺をよそに、澄江さんは五十歳も若返ったように声を弾ませる。
『楽しみにしてるわね、寛治さん』
 こういう場合は何と答えるのが正解なのだろう。俺は全く思いつかず、一人で頭を抱えていた。

 考えたことが全くなかった、とは言わない。
 だが学生の俺たちに結婚だの子供だのという話はいくらなんでも尚早だろう。まして結婚式など――俺はこれまでの人生でただ一度だけ、父の結婚式に参列したことがあるだけだ。つまりそういうものにあまりいい印象がなく、自分も同じことをするのかと思うと非常に複雑だった。
 もっとも、こういうことは俺が一人で考えて決めるような話でもない。
 いつか雛子に尋ねてみよう。彼女とて今のうちから結婚式だ子供だと想像を巡らせているとは思えず、俺が話を振れば途端にうろたえ始めるのが目に浮かぶようだ。しかしそんな俺たちであっても、いつかは必ずそういう話をするようになるのだろう。
 電話をしているうちにすっかり冷えた指先をストーブで暖めながら、そんなことをぼんやり考えた。
 そして考えていると、なぜか無性に雛子の声が聞きたくなってきた。
 なぜか、ということもない。答えは至極簡単だ。彼女のことを考えているから、彼女が恋しくなった。それだけだった。

 この頃はすっかり堪え性がなくなり、我慢も利かなくなってきたようだ。
 思い立ったが吉日とばかりに俺は雛子へ電話をかけた。ちょうど澄江さんからの伝言もある。
『――あ、先輩。こんばんは』
 電話が繋がった瞬間、はにかんだような柔らかい声が聞こえてきた。
 雛子の声は、どうしてこんなに心地がいいのだろう。悴む指先に血が通うような、じわじわとした感覚が全身をゆっくり突き抜けていく。
「風邪を引いていないか」
 俺が尋ねると雛子は笑った。
 同じことを毎日メールでも確認しているからだろう。しかしこれを聞いておかなければ俺の気が済まない。
『おかげさまで元気です。先輩は大丈夫ですか?』
「ああ。しかし流行っているようだから油断はするな。気をつけた方がいい」
 風邪を引かない方がいいのは誰であっても同じだが、こと雛子は用心しなければならないだろう。この時期に風邪を引くのは受験勉強への大きなブレーキともなりかねない。
 しかし、こうして元気な声が聞けたことには胸を撫で下ろしたくなる。
「お前が元気そうならよかった」
 俺は安堵の息をつき、それから表向きの、しかし大事な用件を告げる。
「今日は話したいことがあって電話をかけた。少しでいい、時間はあるか?」
『もちろんです』
 雛子は即答してくれた。どこかはしゃいでいるような声音にも聞こえた。
「先月貰った文芸部の文集を、澄江さんに送っていたんだ。一度お前の作品も読みたいと言っていたから、少しの間貸していた」
 だが俺が用件を述べると、そこでは急に慌てて、
『だ、大丈夫でしたか? 澄江さん、つまらなくなかったでしょうか』
 仮にも文芸部員とあろう者が、作品を読まれて慌てふためくというのもつくづく妙な話だ。先月の文化祭では不特定多数の相手に広く公開していたというのに。
 俺は鼻を鳴らして応じる。
「何を怯える必要がある。あの人が辛口の批評家に見えるか?」
『いえ、見えませんけど……』
「心配は要らない。とても清々しく、爽やかな文章だと誉めていた」
 そう伝えれば今度は恥ずかしそうな笑い声を漏らす。
『嬉しいです。澄江さんにも私がお礼を言っていたと、ありがとうございましたとお伝えください』
 雛子の折り目正しい態度からは育ちのよさが感じられる。心から礼を言っているのがわかり、そういうふうに教え育てたであろうご両親がどのような人たちなのか、会ってみたくなる。
 その時には俺も、澄江さんの名を汚さぬよう振る舞わなくてはなるまい。
「ああ、伝えておく」
 俺は言ってから、ふと先刻の澄江さんとのやり取りを思い出して付け加えた。
「澄江さんもまたお前の顔が見たいと言っていた」
『私もです。また是非お会いしたいです』
 すぐさま雛子が同意を示す。
 彼女にそう言ってもらえるのは、やはりとても嬉しかった。
「だったらまた、来年の夏にでも行くか」
 澄江さんともそういう話をしていたので、俺は何の気なしに具体的な時期を挙げてみた。
 だがその前にするべきことがある。越えなければならない山もある。
「もちろん、お前のご両親への挨拶が先だ。澄江さんにまた叱られてしまう」
 急いで言い添えると、雛子はおかしそうに応じた。
『そうでしたね』
 何をそんなに面白がっているのだろう。俺はむっとしたが、元はと言えば自業自得なので彼女を責めることもできない。
 前回の旅行こそ課題山積で終わってしまったが、次の機会にはそういったものを全てクリアした上で行いたいと思っている。
「正当な手順を踏んで、後ろ暗いところがなくなってからだ。次にお前を連れて行く際は、胸を張っていられるようにしなければならない」
 こそこそと人目を忍ぶような関係も、誰かを欺かなければ成り立たない関係も、俺たちにふさわしくはないだろう。彼女の隣にいる以上は姿勢よく、堂々としていたい。
「そういう手順が全て済んだら……次も、一緒に来てくれるか」
 俺の問いに、
『はい。是非連れて行ってください』
 雛子ははっきりと、明るく答えてくれた。
「そうか」
 なぜだろう、ほっとした。安心したら笑いが込み上げてきた。
「実は、澄江さんも電話の度にお前の話をするんだ。また会いたいとか、次の機会にはもっとたくさん話したいとか、このご縁を大切にしなくては駄目だとか」
 それ以上のことも言われていたが、さすがに今は口にできなかった。年のせいもあるのだろうが、あの人はさすがに気が早すぎる。
 思い出すとそわそわと、非常に落ち着かない気分になった。
 俺は息をつき、その気分をやり過ごす。
「他のことに関しては、あまり口を出してこない人なんだが。なぜかお前についてはしきりに口を挟んでくるから困っている」
 澄江さんからすれば俺にそういう相手が現われるとは長らく思いもしなかったようだし、俺が、自分で言うのも何だがいい意味での変化を遂げた、その影響を与えてくれた相手ともなれば、仲良くしろ大切にしろと重ねて忠告してくるのもわからなくはない。
 だが俺はあの人と恋愛沙汰について話すことに慣れておらず、雛子のことで冷やかされる度に困惑してしまう。
 こういう困惑も、誰にでもあるものなのだろうか。例えば雛子も、ご両親に俺のことを話してそれについて冷やかされたらこんなふうに、反応に困ったりするのだろうか。
 そんな雛子は、ちょっと見てみたい。
「とにかくお前を大切にしろと言われ続けているが、そう言われてどう返事をしていいのかわからん。大切にしていますと断言できるような状態ではないからな」
 俺が零せば、すかさず雛子が庇ってくれた。
『大丈夫ですよ先輩。十分、大切にしてもらってます』
「だといいんだが」
 彼女の真心、そして優しさは嬉しい。
 だが俺はそんな彼女の為に何ができるだろうと、時々考える。
 今は入試まで二ヶ月に迫った彼女が、勉強に集中していられるように配慮することが一番なのだろう。だがそうなると俺にできることはごく少ない。せいぜい毎日メールで励ましの言葉をかけ、体調を気遣う程度だ。
「時々わからなくなる。お前の為を思ってしたつもりの行動が、実は裏目に出ていたということもあったからな……」
 半ば独り言のようにぼやいた。
 いつぞやの俺の煩悶は全くの空回りだった。彼女に関わることを自分一人で考えても答えが出るはずがないのに、当時の俺は自惚れていたとしか言いようがない。
「何をすればお前を大切にしたことになるのか、よく考えてはいるんだが、俺が一人で考えて正しい答えが導き出せるかと言えば、そうでもなかった」
 一連の苦悩の日々は、現在でも思い出す度に気恥ずかしさから逃げ出したくなる。しかしそれらがあったからこそ、現在の俺たちがあるというのもまた事実だった。
 そしてまた一人で思い出しては気まずくなる俺に、雛子は電話越しに囁いてきた。
『わからなくなったら、また私に聞いてください』
 聞き取りやすい彼女の声も、少しだけ上擦っているようだった。
 彼女がすぐ傍にいるような気がして俺は息を呑み、しばらく呼吸を落ち着けてからその言葉に応じた。
「わかった、そうしよう。だが……」
『何ですか、先輩』
「……最近は、寝ても覚めてもお前のことばかり考えている」
 大学にいる時も、こうして部屋にいる時も、気がつくと心の中には雛子がいる。何を見ても、何を聞いても彼女のことを考える。しかし想像の中の雛子よりも本物の方がいいのは当たり前で、考えた後で会いたくなるのもいつものことだった。
 今も既に、電話だけでは足りなくなっていた。顔が見たい。直接触れたい。
 そういう気持ちも、あと二ヶ月と少しの辛抱だ。
「直接尋ねた方が早いとはわかっているが、しばらくは会えないからな」
 俺は自分に言い聞かせた後、少しの希望を抱いて彼女に聞いた。
「初詣くらいは、一緒に行けるだろうか。来年の話だが」
 来年の話をすると鬼が笑うというものだが、雛子は笑わなかった。ただ朗らかに答えてくれた。
『いいですよ。行きましょう、初詣。先輩はいつなら都合いいですか?』
「そうだな……三が日のうちなら、三日がいい。元日は用事がある」
 それも憂鬱極まりない用事だった。大晦日は実家へ戻り、父たちと年越しを迎えることになっている。どうせ戻ったところで新しい母にも妹にも疎まれるだけなのに――昨年は二人の目を避ける為に寒い部屋に閉じこもったせいで風邪を引いた。この話だけは澄江さんにもしていない。
 だが雛子と会う約束をしておけば、憂鬱極まりない帰省もどうにかやり過ごせることだろう。
『わかりました。じゃあ三日に行きましょうか』
 雛子がそう言ってくれたので、俺たちは初詣の約束を交わした。来年の話ではあるが、あと一ヶ月もないと思えばそう辛くはない。
 しかし年内に顔を合わせることはもうないだろう。
『先輩、今年も大槻さんのコンサートに行くんですか?』
「ああ、今年は二十四日だ。またチケットを買わされた」
 去年は雛子を連れて行ったが、今年はそうはいかない。だが、そう尋ねたということは雛子も行きたがっていたのかもしれない。少なくとも彼女は普段から、俺よりはよほど音楽に親しんでいるようだ。
「お前が受験生でなければ、今年も付き合わせたところなんだが」
『……いいんです。そうだろうなって思ってました』
 雛子は割り切ったような口ぶりで言った。
『私の分まで楽しんできてください、先輩』
「そうしよう。俺はクリスマスのありがたみというやつが今一つわからないから、楽しめるかどうか怪しいものだが」
 答えながらふと思う。
 もし彼女と家庭を築くようなことがあれば――仮定の話にはしたくないが、しかしいささか気の早い想像だが、彼女はクリスマスをどんなふうに過ごしたがるだろう。家にツリーを置きたいと言うだろうか。ケーキやローストチキンを用意したがるだろうか。もし俺たちに子供がいたら、サンタクロースを呼び込む為の支度をしようとするだろうか。
 俺の子供時代には何一つとしてなかったものが、いつか当たり前のように揃う日がやってくるのかもしれない。
 それは恐らく幸いなことではないかと思う。
『先輩、今年も年賀状を出しますね』
 雛子の気持ちは既に正月に向いているようだ。不意に思いついたように言われた。
「そうだな。俺も、そろそろ書こうと思っていた」
『お待ちしてます』
 彼女は楽しみだというように答え、それからまたひらめいた口調で、
『……あ、澄江さんにもお出ししていいでしょうか』
 それはいい考えだと俺も思う。澄江さんも雛子を気にしてくれていたし、また会いたがってもいた。彼女から年賀状が届けば、あの人がたった一人で過ごす正月をいくらか賑わわせてくれることだろう。
「負担でなければ頼む。あの人もきっと喜ぶだろう」
『わかりました。では、澄江さんのご住所を教えてください』
 俺は電話で澄江さんの住所を雛子に教え、雛子はそれを慎重に、丁寧に記録したようだった。
 彼女の方からそう望んでくれたのは嬉しかった。俺から年賀状を書いてくれと頼むのも図々しいだろうし、何より押しつけがましい。澄江さんもそういうことは望まないだろう。
 だが雛子は、そういうささやかな心配りを大切にしてくれる。彼女の温かさがいつも、俺を幸せにしてくれる。
「お前がそう言ってくれて嬉しい。俺から頼むのも、押しつけがましい気がしていたからな」
 俺が感謝を込めて告げると、雛子は彼女らしい笑い方をした。
『そんなことないですよ。私には何でも言ってください、先輩』
 その声がまた、すぐ傍にいるように聞こえて、電話を切りたくないなと強く思う。

 通話を終えると部屋の中は急に静まり返ってしまう。
 俺は寂しさを紛らわす為、そして寒さから逃れる為に布団を敷き、早々に床に就いた。だがこの時期は布団もシーツもすっかり冷え切っていて、手足を伸ばすのもためらわれるほどだった。
 雛子がここにいてくれたら、間違いなく暖かいはずなのに。
 何をするにしても、黙って横になっているだけでも、彼女のことが恋しかった。
 だから本当は、俺個人の純粋な希望を述べるなら、なるべく早い方がいいと思っている。
 いっそ澄江さんのことを言えないほど、気の早い願望を抱きつつあった。
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