menu

灯火の熱量(4)

 俺もかつては彼女のように自惚れていた。
 他人に対する感情など、自分でいくらでも操れるものだと思っていた。雛子との関係もあくまで実利を踏まえてのものだけで、もし鬱陶しくなったら断ち切ってしまえばいいのだと気楽な考えさえ持っていた。
 だが現実がそうでなかったのは言うまでもない。むしろ彼女と出会ってから、俺は初めて感情のままならなさを思い知らされた。雛子はいつでも俺の感情を動かし、掻き乱し、振り回していく。都合のいい付き合いをするつもりだった相手が、知らず知らずのうちに、心に火を灯してしまった。彼女に対して抱く温かな気持ちは、彼女を守りたいと思わせるほどに大きな熱量を秘めていた。

 そうやって俺の気持ちをいいように扱う彼女自身に、完璧だの理想だのと持ち上げられるのは全く不本意だった。
 はっきり言って不愉快ですらあった。
「お前は俺を買い被ってやしないか」
 俺が尋ねると雛子は首を横に振る。
「そんなことはありません」
「いや、ある。お前の視力が悪いのは今に始まったことじゃないが、勝手な理想を押しつけられても困る。どう解釈したら、俺が完璧に近い人間だと思えるんだ」
 こちらは至って淡々と異を唱えたつもりだったが、雛子はむしろ目を輝かせて反論してきた。
「だって、先輩は本当に素晴らしい方だと思うんです。高潔で、ストイックで、生真面目で、目標に向かってたゆまず努力を続けるような、とてもひたむきな精神の持ち主だと私は思っています」
 澄江さんみたいなことを言う、と俺は内心思った。過分とも言える誉め言葉は、澄江さんから貰ったものなら笑って受け止められるのに、雛子に言われると落胆や失望の方が強く感じられた。
 雛子には、もっと真実に近い俺を知っておいてもらいたかった。
「誰の話だ」
 俺が確かめたところで、
「先輩のことです」
 彼女の考えは揺るがないようだ。戸惑いながら俺は目を伏せた。
「勝手に人を美化するな」
「していません。私には、そう見えるんです」
 そう言い張る雛子は、それでは最も傍にいるであろう恋人を完璧に近いと思い込み、その相手に幻想を見たまま悩み苦しみ行き詰まっているというわけか。砂漠で蜃気楼を追う旅人のような不毛さだ。
 ならば、彼女の悩みの一端は俺にもあるということになる。それもまた理不尽で、不本意な話だ。
「それでお前が重圧を感じているなら、全く本末転倒じゃないか」
 俺の指摘にはさしもの彼女も言葉に窮したようだ。微かに息を呑むのが聞こえた。
 大体、俺のどこを見て完璧に近いなどと言えるのだろう。彼女の前でも何度となく醜態を晒しているし、感情のコントロールがまだ覚束ないことも、女の扱いに慣れていないことも既に露呈しているはずだった。彼女はさっき、何と言ったか――高潔で、ストイックで、生真面目。単語が頭に馴染まず上滑りしていくのがわかる。意味をわかって口にしているのか怪しいものだとさえ思う。
 あいにくだが俺に高潔さ、ストイックさなどあるわけがなく、ましてや彼女が思うほど生真面目でもない。融通が利かない性格だという自覚はあるが、それも真面目さからではなく、単に了見が狭いだけだ。
 では雛子は知らないのだろう。俺が彼女について考える時、一体どんなふうに思索を巡らせているか。
 あの雨の日に俺が、彼女の髪を拭きながら何を思ったか。
 彼女の夢を見た朝に、寝惚けた頭で何を考えているのか。
 先程彼女がバスルームを使っていた時に俺がどんな気分でいたのかも、まるでわからないのだろう。
 教えてやりたいと、欲求にも似た考えが脳裏に浮かんだ。
 彼女が俺に見る理想が幻でしかないことを教えてやりたかった。そして俺が、彼女の愚かさや弱さに愛着を抱いているのと同じように、彼女にも真実の俺を知った上で、受け入れて欲しいと思った。たちまち勢いづいたその願望が、俺に再び口を開かせた。
「思い込みの激しい奴だ」
 呟きながら視線を上げると、同じようにこちらを見た雛子と目が合った。
 ただ確固たる意思を持って彼女を見ている俺とは違い、彼女の方はあくまでおずおずと、様子を見るようなそぶりで顔を上げたに過ぎなかった。真正面切って視線がかち合うと、彼女はこれから何が起こるのかわからないというように、怯んだ表情を取った。
 そういう顔を、俺は可愛いと思う。
「俺が今、何を考えているかを知ったら、お前は間違いなく驚くだろうな」
 告げながら、俺は彼女について考え続ける。
 目の前に座る雛子は、俺の服を着ていた。一枚千円もあれば買える類の、グレーの生地にゴシック体でアメリカの適当な地方都市の名が記されている、実に無難なTシャツだ。彼女は俺の服が身体に合うかどうかを気にしていたが、やはり肩幅は合わなかったようだ。彼女の女性らしく細い肩にはぶかぶかで、袖つき線が二の腕の途中辺りにあった。それでいて胸元にはあまり余裕がなく、柔らかそうな膨らみがTシャツの生地を下から押し上げていた。自分で着ると平坦に並んでくれるゴシック体のロゴも、彼女の身体を横断する時は大きく曲線を描いて蛇行していた。普段はあまり見ないようにしてきたが、自分の服を、自分とは違うふうに着ている彼女を前にすると、言いようのない感情が込み上げてくる。
 胸の奥に火が灯ったようだった。
 その火が、別の何かに燃え移ったようにも感じられた。
「何を……考えているんですか?」
 怯えと疑問と好奇心がないまぜになった表情で、雛子が俺に尋ねる。
 今の問いかけが引き金だった。知りたがっているふうで尋ねられたから教えてやろうと思った。そして俺は彼女が問いを口にするその間中ずっと、微かに動く彼女の淡い色合いをした唇を見つめていた。
 俺は身を乗り出すようにして彼女に近づき、断りもなくその唇に、自分の唇を重ねた。
 そうしながら、彼女の後頭部と左頬にそれぞれ手を回して抱き寄せた。
 突然のことだったからだろう。雛子は緊張に身を硬くしたが、特に拒みはしなかった。

 唇を重ねることは、愛情表現の一つだという。
 好きでもない相手とそういうことをしたいとは誰も思わないだろう。また部位が部位だけに、それを許すのは単に好意があるだけではなく、もう少し気を許せるような、信頼できる相手に限られるはずだ。
 幸いにもこれまで俺は、雛子にキスを拒まれたことがなかった。彼女はいつでも俺を受け入れてくれたし、不意を打って驚かせた場合でも後から責めるようなこともなかった。時々、彼女の方がそれを望んでいると思えることさえあった。もっとも、一般に知れ渡っているわかりやすい愛情表現であるにもかかわらず、雛子がその意味を理解してくれないことも一度ならずあった。彼女も好きでもない相手とこんなことをするような人間ではないだろうが、とかく俺からは行動よりも言葉を引き出そうとする。言葉の価値を重んじ、行動に対しては抜群の勘の鈍さを発揮するのが常だった。
 好きだとか、愛しているといった陳腐な言葉を、俺は信用していない。今まで誰からも言われたことがないからだろう。そういった言葉は物語の中でしかお目にかかったことがなく、現実に口にするとなるとまるで芝居がかって聞こえるだろうと思っていた。薄っぺらで中身のない、何より俺自身がその価値を軽んじているような言葉を並べ立てるよりは、更にわかりやすい行動で示す方がよほど効率的だろう。
 だから俺は彼女と唇を重ねる。彼女の唇は思いがけないほど柔らかく、しかし手のひらで触れている頬や髪もまた柔らかい。全てが曲線でできているような彼女は触れて硬い部分などほとんどなく、ただ頬だけは発熱しているように熱かった。
 その熱が俺に移ったのか。それとも、俺も端から熱くなっていたのか。頭の中がぼうっとするほど、俺の内側で莫大な熱量が生じつつあった。

 唇が離れた時、雛子はか細く震える息をついた。
 頬どころか耳まで赤らめた彼女は、瞳を潤ませて俺を見上げていた。泣き出す直前のようにも見えたし、もっと複雑な感情の変化が彼女の中で渦巻いているようにも見えた。
 その頬に両手を添え、改めて軽く持ち上げると、彼女は赤面したまま物問いたげな表情を浮かべる。俺がどうしてこんなことをしたのかわからない、とでも言いたいのだろうか。彼女の頬は触れているだけで溶け出しそうなほど熱を持っており、ひたと添えた俺の手のひらは既に溶接されたように剥がれない。
 俺はそうしたまま彼女をしばらく見つめていた。見とれていたのかもしれない。俺は今の彼女を一層可愛いと思っていたし、そう思うことで内側の熱量は更に増大していく。
 いつもは、雛子のことを考えると温かい気持ちになれた。それは澄江さんについて考える時も、程度の差こそあれど大槻について考える時も同じで、実のある交流を育んだ人々に幸せであって欲しいと願うのも、何らおかしなことではないではない普通の感覚だろう。
 だが時々、雛子に対してだけは、その温かさが針を振り切って異常な温度に達することがあった。胸の奥に灯された火がいつしか胸の内側を炙り、焦がし、じりじりと音もなく焼き尽くそうとする。その熱量のせいで正常に動作しなくなった思考の九割が、俺の衝動を肯定する。
 それもまた愛情表現の一つだ。受け入れられるのであれば、幸いなことだ。
 だがごくわずかに残った冷静な思考が、俺の前に立ちはだかり、訴える。
 それは果たして本当に正しい表現方法だろうか。
 彼女は俺に自らの理想を見ているのだ。彼女が思う完璧に限りなく近いらしい俺は、そんなことをするだろうか。彼女の理想を壊した時、俺たちの間には一体何が訪れるだろう。
 破局か、変化か。

「雛子」
 俺が名を呼ぶと、彼女は唇を動かした。
「……はい」
 かすれた声だった。頬を押さえていたせいか、手のひらに彼女の声が微かな振動となって伝わった。
「もし俺が、お前の考えているような理想的な人間ではなかったら、お前はどうする」
 その目を見据えて問いかける。
 内心、拒絶されたくないと思っている。彼女には真実の俺を見て欲しい。幻想ではない、完璧でも決してない俺を。
「どう……って」
 雛子が考えながら、迷いながら呟く。
 俺は彼女の頬を指の腹で撫でた。乾きかけた髪が張りついているのを指先で払い、顔がよく見えるよう耳にかけておく。彼女の赤くなった耳に触れた時、雛子はくすぐったいのを堪えるように首を竦めた。その仕種に、妙に心臓が高鳴った。
「失望はしないか」
 答えを待つのももどかしく、俺は問いを重ねていく。
 すると雛子は心外そうに眉を顰め、やはりかすれた声で応じた。
「私が先輩を嫌いになることは、絶対にないです」
 思っていたよりもきっぱりと言い切られたことに驚く。
 その言葉を嬉しいと思うには、今はあまりにも心の余裕が足りなかった。むしろ尚も確かめたくなった。
「本当にか?」
 聞き返した俺に雛子は頷く。
「本当です。びっくりは、するかもしれませんけど」
 肯定の後で言い添えられた言葉には納得できた。
「驚くか。まあ、そうだろうな」
 彼女が思い描く理想の俺は、こんなことを考えもしないのだろう。高潔で、ストイックで、生真面目な人間らしいから、自らを知ってほしいと思うことも、受け入れられたいと思うこともないのだろう。
 だが真実の俺はそうではない。彼女に受け入れられることを、焼けつくような思いで望んでいる。
 俺がそれを、どのように行動で示そうかと間合いを計っていた時だ。
「あの、驚くと言っても、すぐに慣れられるように努めますから大丈夫です」
 雛子が真面目な顔をして、弁解でもするみたいにまくし立てた。
「むしろ私の方こそ、いろいろと至らないところだらけで、先輩にはさぞご迷惑をおかけしているかと思いますが、今後は重々気をつけます。ですからできれば、愛想を尽かさないでいてくださるとありがたいです」
 それは弁解としては、愛の言葉以上に陳腐でありがちな言葉ばかりだった。
 子供が自分を叱る大人に縋りつく時のような、とりあえず謝罪してみた、という言い回しにも感じられた。
 彼女は自分に欠点があることをわかっているようだった。だがそれらを俺が愛着を持って受け入れていることにはあまり気づいていないようだ。まして今の彼女に、他人の欠点、完璧ではない部分を受け入れる余裕などないだろう。
 忘れていたわけではないが、あえて目を逸らしていたことがある。
 彼女はまだ子供だ。雨の日に車に水を撥ねられて、泣いてしまうような子供だ。
 そんな相手に一方的な欲求を受け入れてもらおうとするのは、恥ずべき行為ではないだろうか。
 短い間に、いくつもの思考が胸の中を吹き抜けていった。
 それらが過ぎ去った後、燃え尽くさんとする勢いだった灯火はすっかり鳴りを潜めてしまった。無性に寂しい気分になっていたが、心のどこかで冷静な声が諭すような言葉を吐いた。――これは正しい選択だ。少なくとも彼女に、嫌われずに済む。
「よくわかった」
 俺は正しい選択に従うことにした。
 少なくとも、わかっていた。彼女はまだあどけなく、恋人に完璧な理想を見出すような『文学少女』だ。俺はそんな彼女の幼さ、愚かさも含めて彼女を好いていたが、だからといって同じことを幼い彼女に求めてはならない。
「は……はい? 何がでしょうか」
 雛子は呆けたような声を上げ、盛んに瞬きをする。
 経緯が掴めないせいか不安げにしている彼女が、それでもとても、憎らしくなるほど可愛く感じられた。
 だが守るべき存在だというのも、つまりはそういうことなのかもしれない。俺は彼女をしばらくの間は子供として扱い、守り、慈しんでいかなければいけないのだろう。
「お前に打ち明けるのはまたの機会にする」
 諦めの気分になって、俺は彼女から手を引いた。
 まだ呆けたような顔に、どうせ言ってもわからないだろうことを告げてみる。
「しかしお前は、本当に勘が鈍いな」
 途端、雛子は目に見えて狼狽した。
「そ、そうでしょうか。先輩の仰るほどではないと思いますけど」
「いや、ある」
 彼女を黙って見ていたら、またおかしな気分になりそうだ。俺は溜息をついて目を逸らす。
「お蔭でこっちはいろいろとやりづらい」
 十七の時、俺はここまで、今の雛子ほど幼かっただろうか。
 それとも俺が、自らの衝動を愛情表現に置き換えてぶつけようとするような、ろくでもない大人になってしまっただけだろうか。
 まだ完全に冷め切らない頭ではその辺りの判別がつかなかった。
 いつしか外の雨音は耳を澄ましてようやく聞こえるほどになり、その静けさのせいでじわじわと気まずい羞恥が俺を苛み始める。
 全く、浮かれすぎだ。馬鹿みたいだ。

 完全に頭が冷えてから、俺は時計を見た。彼女の帰る時刻が近づいていた。
 雛子は一人で帰れると言い張ったが、外も暗いし、また車に水をかけられて泣かれても困る。外の空気を吸いたい気分でもあったから、俺は駅まで送っていくことにした。
 外は随分前から小降りになっていたようだ。俺たちは互いに傘を差し、街灯が照らす濡れた夜道をしばらく無言で歩いた。
 とっくに冷静さを取り戻していた俺は、先程の一連のやり取りをすっかり後悔していた。熱に浮かされたような行動の数々は振り返るのも嫌になるほど欲望に塗れていたし、今となってはその起因となるものを、単に彼女に欲情しただけだと結論づけることもできた。彼女に欲情したのも今日が初めてではなく、その為の備えをしたこともあった。だがそれを愛情表現だと考えるのは身勝手だろう。それが愛たりうるのは、唇を重ねるのと同じように、双方が同じことを望んだ場合だけだ。そうでないなら俺のしたことは、大槻のことを悪く言えないくらいに低俗なものとなる。
 そして幼い雛子は、そんなことを望みはしないだろう。考えもしないはずだ。あの時の答えを聞けばわかる。
 今の彼女が求める愛は、もっと違う形のものだ。
 恐らく十七、八の頃の俺が、求めていたのと同じものだ。
 その雛子は、水色の傘の下からちらちらと俺に視線を送ってきた。雨が弱まったせいで彼女のそういうそぶりがよくわかった。急に態度を翻した俺を訝しく思っているが、その理由に全く思い当たるところがなく戸惑っている――彼女の心境はこんなところだろうか。
 ただ傘の色のせいだろう。彼女の顔色は明るく、不思議と幸せに満ちているようにも見えた。
 一人だけ晴天の下にいるような彼女を俺は、それでも温かい気持ちで窺い見ている。
 元気になってくれてよかった、と思う。
 俺はいつでも彼女の幸せを望んでいる。それは、それだけはいつ何時も不変の思いであり、俺がどんな気分であろうと、どんな状況下にあろうと考えないことはなかった。彼女が隣で明るい顔つきをしているだけで、俺を苛む羞恥や自己嫌悪までもがゆっくりと押し流されていく。そんな感覚がふと、結んでいた唇を解かせた。
「雛子」
 歩きながら、俺は彼女の名を呼んだ。
「なんでしょう」
 雛子の返事は素早かった。同時に勢いよくこちらも向いた。どうやら俺が話しかけるのを随分と待ち構えていたみたいだ。こんな声でも聞きたかったのかと、笑いのような、溜息のような吐息が零れる。
「今から、くだらないことをお前に話す。黙って聞き流してくれ」
「え?」
 彼女は不思議そうに声を上げたが、俺は構わず続けた。
「俺が高校生だった頃の話だ」
 しとしとと弱い雨が降っている。水浸しのアスファルトには街灯の光がたゆたい、俺たちの靴が踏み込む度、波紋を広げて不安定に揺れた。
「あの頃、俺が何よりも一番考えていたのは、一刻も早く卒業してしまいたいということだった」
 俺が今の雛子と同じくらいの頃は、そればかりを考えていた。
 文芸部のことも、受験勉強のことも、およそ頭になかった。
「家を、出たいと思っていた」
 俺の告白を、雛子は相槌も打たず俯き加減で聞いている。驚いているのか、同情でもしているのか、理解できないと思っているのか。失望はしないと言っていたから、その言葉は信じておきたいところだ。
「考えていたのはそんな、くだらないことだ。お前が勘違いしているような、高潔なものでもストイックなものでもない、本当にくだらないことだった」
 むしろ高校時代の俺が、高潔な思想の下に行動に出たことなど一度としてなかっただろう。
 家族に爪弾きにされて疎外感を覚えていた。話し相手が欲しかった。それもなるべく都合のいい相手にしようと思っていた。
 そんな考えのどこが高潔だと言えるだろう。
「つい先程も、実にくだらないことを考えていた」
 俺が話の矛先を転じると、雛子はまたこちらを向いた。
 水色の傘の下にある彼女の顔を、視界の隅で確かめる。
「お前は、髪を結んでいないのも似合うな」
 そう告げた瞬間は、彼女もわかっていないようだった。しばらくぽかんとしていた。
 だが少ししてから頬に赤みが戻ってきた。彼女は慌てたように口を開く。
「え、あの、そうでしょうか」
 照れ隠しのように聞き返しながら、既に結んでしまった髪を自ら撫でてみせる。悪い気はしない、という反応だろう。
「先輩は、髪を下ろしている方がお好みですか」
 不必要なほど元気を取り戻した雛子が、たちまち食いついてきた。逆に問われて俺は、今くらいは正直に答えておく。
「たまに見るなら新鮮でいいと思った」
「次にお邪魔する時は、結んでこない方がいいでしょうか」
「いや、いい。いつもの髪型も嫌いじゃない」
 更に正直に言うなら、俺はどちらもいいと思っている。
 髪をきっちりと二つに結わえたいつもの彼女はいかにも文学少女然としていて、眺めていても飽きない。髪を下ろした彼女は普段見せないような隙があり、また心許なげにしているそぶりが可愛いと思う。俺はどちらの雛子も気に入っているし、また別の姿を彼女がしてみせた場合でも、必ず気に入ることだろう。
 ただしばらくは、彼女を目の前にしても自制していられる人間でありたい。
 今の彼女が求めているのも、どんな悩みや不安も打ち明けられるような、『話し相手』であるに違いないのだから。
「ほら、くだらないことを考えているものだろう。お前の考えているような理想的な人間はどこにもいない。俺はこういう人間だ」
 俺は彼女に対して肩を竦めてみせた。
「だからお前も、あまり難しく考えすぎるな。この世に完璧な人間はいないし、失敗をしない人間も、できないことのない人間もいない。お前はお前ができることを、求められる通りにやってのければそれでいいはずだ」
 そして話し相手として相応の助言を彼女に告げる。
 雛子はそれを真剣に受け止めてくれたようだ。しばし黙考したまま歩き続けた。
 気がつけば雨の夜道も終点が近づいていた。通りの向こうにぼんやりと駅の明かりが見えてきた。二人で過ごす時間ももうじき終わる。明日も雨だろうか。雨だとしたら、俺はまたあの日の出来事を思い出すだろうか。
 感傷に囚われかけた時、隣で雛子が声を上げた。
「先輩。先輩は、去年の今頃のことを覚えていますか」
「去年?」
 慎重に聞き返すと、彼女は頷く。
「そうです。去年の今頃、私は今日と同じように、先輩の部屋にお邪魔して、タオルをお借りしたことがあったんです」
 覚えていないはずがない。それどころか今でも頻繁に思い出している。
 だが、あの日のことを雛子が口にしたがるのはなぜだろう。俺があの出来事を忘れられずにいるのと同じように、彼女にもまた忘れがたい記憶となっているのだろうか。彼女にとって何かいいことが、あの日に起きたとは到底思えないが――。
 当時は言えなかったことを、言ってやるのもいいかもしれない。
「俺はあの頃から思っていた」
「何を、でしょう」
「お前は、髪を解いているのもよく似合うということをだ」
 好きだとか、愛しているといった陳腐な言葉を、俺は信用していない。
 それに当時のあの気持ちは、一言だけで説明できるような単純明快なものでもなかった。
「くだらなすぎて、とても言えるようなことじゃなかった」
 言い訳のように付け加えた俺を、雛子は水色の傘の下からじっと見守っている。
 勘が鈍い彼女に、全ては伝わりきらなかったかもしれない。だがしばらくしてから彼女は唇に笑みを浮かべ、大変幸せそうに水色の傘の内部を見上げた。
 そして俺もまた傘の下の彼女を盗み見ながら、ひとまずこの愛情表現が成功を収めたらしいことを知って、安堵した。
 彼女はやはり言葉の方が嬉しいらしい。当面は俺も、そのことを念頭に置いておくべきだろう。
top