水無月(1)
ぽつぽつと、外で雨が降り始めた。天気予報の通りだ。夕方頃から雨が降るでしょう、と聞いていた。どうせなら、体育のあった昼過ぎ頃に降ってくれればよかったのに。
私は急いで立ち上がり、窓辺に寄って、窓を閉める。ぱちんと鍵を下ろすと、待ち構えていたかのようにガラスには雫が飛び付いてきた。
この部屋は図書室の隣にある。図書室は当然の如く湿気が大敵であり、雨の多い季節は特に気を付けなくてはならない。初夏の蒸し暑さに負けて窓を開け放っていると、こうして雨が降り始めた時に慌てることとなる。
窓ガラスを閉めた室内は、たちまちむっとするような暑さに満ちた。雨音は次第に速さを増しつつある。私は座っていた椅子に戻り、文庫本にしおりを挟んだまま通学鞄へしまい込む。
時刻は午後五時を回ったところだ。雨脚が強まる前に、帰った方がいいのかもしれない。傘は持ってきているけど、雨の日はいささか、気が滅入る。
ここは、東高校文芸部の部室だった。
図書室の隣にある小さな部屋は古い校舎の端に位置している。冬は凍えるほど寒くて夏は蒸し暑い、よく言えば大変季節感に溢れた場所で、そして常に静けさに満ちていた。読書や書き物をするのに適した環境ではあったものの、今年度に入ってからの静けさは、その前年までとはまるで意味の違うものだった。
現在、文芸部に所属する部員は、私を含めて三名。そのうち三年生は私だけで、必然的に私が部長の役目を担うこととなった。ほとんどお飾りのような部長だけど、そもそも部員の少なさから、部長としての手腕が問われる事態は全くもって起こらない。強いて言うなら、六月に入っても尚、一年生の新入部員が現れる気配がないことが問題だ。
三名だけの部活動はやはり静かで穏やかだった。一昨年の今頃、鳴海先輩がまだ東高校にいた頃とは空気が違いすぎた。二年生の部員たちは揃っておとなしくいい子ばかりで、私も気を遣わずに接することができた。
今日はその二人もいない。二年生は進路指導の時期だと聞いていた。部室に顔を出したのは私だけで、私は一人きり、部活動とは名ばかりの読書を楽しんでいた。
だけど、ふと我に返る。
こんなことでいいのだろうか、と。
鳴海先輩が東高校の文芸部にいた頃は、もっと緊張感があった。
それは単に先輩の不器用さと苛烈なまでの性質とが齎した空気だったのかもしれないけど、確かにあの頃は今とは違っていた。部活動にも緊張感があり、部員たちは皆、熱意に溢れていた。創作することへの情熱を誰も彼もが持ち合わせて、この部室に集っていたように思う。
今の文芸部にはそれがない。緊張感もなければ、情熱にも乏しい。楽しくない訳ではないけど、精力的な活動をしているとは言いがたかった。きっと私自身の部長としての能力に問題があるのだろうと、忸怩たる思いでいる。だからと言って、解決の為に取り得る有効な手立ては何も思い浮かばないのだけど――。
それでも今は、まだいい。三人でも、穏やかな活動でも、文芸部としての体裁を保っていられる今のうちはよかった。
私は三年生だから、十一月の文化祭を最後に部を引退する予定でいる。その後は二年生部員のどちらかに部長を引き継いで貰い、二人に文芸部の未来を託すこととなる。たった三人から更に減り、たった二人きりの部活動になってしまうのだ。このまま、新入部員が現れなければ。
そうなってしまうのは何とも申し訳ない。
新入部員の呼び込みの為、ポスターの製作はもちろん、クラスの友人の伝手を頼って声を掛けてみたりもしたのだけど、全く効果は現れなかった。文芸部はいささか地味で、好みの分かれる部活動かもしれない。この部室のドアを叩いてくれる新入部員はまだ、いなかった。
せめて引退前に、何か出来ないかと思う。
新入部員の勧誘。或いは、かつての賑わいと熱気を、文芸部に取り戻す為の何か。部長に就任したからには、何かを成し遂げてから引退したいと思う。
もう、六月も半ばを過ぎた。
これからの年月も、恐らくあっと言う間だろう。
部の引退の次には大学受験、そして卒業が待っている。私はそれまでに、一体いくつのことを成し遂げられるだろう。私は何を、成せるだろうか。
しんと静かな部室の光景は、昔とあまり変わりがない。
部員が揃わない時はいつもこんな風に静かだった。誰もが息を詰めるように過ごしていた。大きなテーブルを囲むように置かれたパイプ椅子の上、一人だけやけに姿勢のいい部員がいるのを、私もいつも静かに呼吸をしながら、視界の隅に捉えていた。
その人はいつ何時も背筋がぴんとしていた。読書をする時も、テーブルに向かって書き物をする時も、常に姿勢がよかった。それどころか廊下を歩く時の格好も、椅子を引いて腰を下ろす時の一連の所作も、読んでいる本のページを捲る器用そうな指の一動までもが美しく、人目を引くものだった。
気が付けば、私はその人のことを見ていた。と言ってもその人は美しいだけの人ではなく、苛烈さと険しさと不器用さとを見事に併せ持った人でもあったから、本当にひっそりと見ているだけだった。視線が合わないように、話し掛けられて不興を買うことのないように、ただただひっそりと。
それでもいつからか、私はその人に惹かれていたのだと思う。自分でも把握できないほどの緩やかさで、その人のことを心に留めるようになっていた。
目を閉じれば、今でもはっきり思い出せた。――狭い部室で幅を利かせている大きなテーブルの、いつも決まって奥の方。椅子を引いて腰掛けて、一心に何かへ心を傾けているその人の姿。姿勢は良く、眼差しはとても真剣で、横顔はまるで理知的に見えた。その人がいる時だけは、静かな部室の中の空気が、より硬質なものへと変わっていた。
あの頃は遠い人だと思っていた。絶対に追い着けない、私を待ってはくれない人だと思っていた。だけどそうではなく、その人の真意を知った今では、私の抱く想いも確実に変化を遂げていた。
鳴海先輩が、ここにいてくれたらいい。
そう思い、そっと目を開けてみても、部室の中には誰もいない。当たり前のことながら、ここにいるのは私だけだ。
そこまで思いが辿り着くと、つい苦笑してしまった。
何だかんだと言い訳を連ねてみたところで、結局私は、単に先輩が恋しいだけなのだろう。先輩への思慕を、部活の現状に悩む思いと混同してしまっているのだろう。
実際に、先輩がこの文芸部に戻ってきてくれることはありえない。あの頃の空気を取り戻すのも、きっと難しいことだろう。私がすべきなのは、現在の三人しかいない文芸部に活気を齎すことであり、昔を惜しみ懐かしむことではないはずだった。
それに、ごくありふれた恋愛感情を募らせているだけなら話は簡単だ。
会いに行けばいい。鳴海先輩の部屋へ向かえば、確実に先輩と会うことが出来る。先輩が不在でも、私は合鍵を持っている。もう遅い時刻だから少ししか話せないかもしれないけど、それでもいい。
先輩と会い、話をすれば、抱えている思いの一つは解消される。全てが解決する訳ではないけど、こういう日は考え過ぎても気が滅入るだけだ。既に感傷に囚われ始めている思考では、何を考えても答えは導き出せないように思う。
口実めいた理由を積み重ねて、私は、今月何度目になるかわからない決定を下す。
雨が窓ガラスを叩く音が、いつしか強さを増していた。細い雨が薄曇りの空から降ってくるさまを見上げながら、私は心のままに行動を取ることを決める。
先輩に、会いに行こう。
別に許されないことではないのに、なぜかうっすら罪悪感を抱く。やるべきことを放り出して逃げ込むだけの行為だから仕方がない。だけど、今は無性に先輩に会いたかった。先輩に会って、一言力強い言葉を貰えたら、滅入った気分も上向くはずだと思った。
感傷に負けた心に、動き出した足は止められない。私は部室に鍵を掛け、静まり返った校舎を出た。
買ったばかりの雨傘は淡い水色をしていた。晴れた日の空を思わせるその色が気に入って、私はその傘を買ったのだけど、雨の日にしか差さないのではあまり意味のない選択だった。
雨の日が嫌いな訳ではない。湿気が酷くて過ごし難いし、傘を差して歩くのは大変だけど、雨の日の独特の静けさと落ち着いた空気は、それはそれで趣きのあるものだ。
ただ、妙に感傷的になる。雨の日を迎えると、どうしてもあれこれと考えを巡らせてしまう。
考えるのは大抵とりとめもない、それでいて容易には解決しがたい悩み事だった。そして私は最後には、先輩に縋ることを選んでしまう。雨の日には先輩に会いたくなって、いざ会うと、考えていたことの全てが吹き飛んでしまうのだった。
多分、よくないことだろう。恋愛感情ばかりに心を囚われ、比重を傾けているような人間を、先輩は軽蔑するだろう。正直に打ち明ければ、もっと他に考えるべき事柄があるはずだと叱咤されるかもしれない。だから私は黙っていた。雨の多い季節、放課後ふらりと先輩の部屋に立ち寄る回数が増えた理由を、話さずにいた。
ぽつぽつと雨の落ちる音が忙しなく響く。傘の上に落ちなかった雨粒はアスファルトの路面を打ち、たちまち水溜りの幅を広げていく。
水色の傘の下、私は早足で先輩の部屋へと向かう。体育の授業があったせいで、提げている鞄はずっしりと重い。いつもの通学鞄に加えて、体育で使用したジャージを詰めた補助バッグを提げているからだ。片手で傘を差しているから、もう片方の手には自然と負荷が掛かる。気の滅入る思いは歩くほどに強まり、それが私の背を押し続けていた。
本当は、わかっている。
感傷に身を任せて、心の赴くままに行動することはよくない。鳴海先輩が絡むと、私の行動はたちまち衝動的となる。感情を剥き出しにして落ち着きのない行動ばかり取り続ける私を、先輩は時々呆れたように見る。そういう目を向けられて初めて、私は自分の幼さや至らなさ、みっともなさに気付くのだった。それまでは気付けず、こうして今のように、ひたすら先輩を求め続ける。
私は、先輩に相応しい人間になりたかった。潔癖なまでにストイックで、だけど望む目標に対してだけはひたすら追求することを止めようとしない。姿勢良く直立し、いつ何時も自分らしくある。険しさを他人に向けることも厭わないけれど、同時に自分にも厳しく、律することのできる人――鳴海先輩は私にとってまさに理想的な人だった。先輩のようにはなれなくても、せめて先輩に相応しい人間になりたかった。
理想に対して、今の私は不足が多過ぎる。幼さや至らなさに気付かされた後、深く恥じ入ることも多い。
先輩の恋人として、らしくありたい。と同時に、文芸部の部長としてもらしく、しっかりとした人間でありたい。また、受験生として常に勤勉でありたいとも思うし、高校三年生としては、残り僅かな学校生活を楽しむべく、自然な心でいたいと言う思いもある。どれか一つに絞り込むことが出来ず、だからこそ私は苦悩する。そしてどれにもらしくなり切れず、また悩み苦しむ。
先輩に会いたいと思うのは、その苦悩から逃れたい思いから、かもしれない。先輩の傍にいれば、たとえ不足が多くとも、先輩の恋人として存在していられる。未熟で幼いばかりの私でも、今の先輩は決して撥ね付けようとはしない。だから認められているような気がして、感情のままに衝動的に、先輩の傍へと行きたくなる。
でもその後で、先輩と別れて一人きりになってから思う。――今日の私は先輩の恋人として相応しくなかった。もう少し、せめてもう少し大人に、理知的な人間にならなくてはいけない。
いつもその繰り返しだ。衝動と行動、そして反省の堂々巡りが続いていく。
雨脚は次第に強まりつつある。雨音もだんだんと膨れ上がり、耳の中で唸るように響いていた。狭い住宅街の路地、アスファルトの路面は水で覆われ、水溜りがどこなのか判別すらできなくなっていた。靴を濡らさないように、足元に注意して歩く。
鞄の重さが増したのは、水を吸ったからではないと思いたい。鞄の中には教科書や、本が入っている。濡らさないように庇いながら歩くのは至難の業だった。
その上、考え事をしていた。これ以上注意を向けるべき場所を、把握し切れなかった。
雨の音の向こうに何かが聞こえた。
唸るような音。初めは、雨音を聞き違えたのだと思った。
すぐにそれは大きくなり、水を掻くような音と混ざり合う。あれ、と思った瞬間、背後で大きくクラクションが響く。
はっとした私は振り向いた拍子、
「ひゃっ……」
悲鳴にもならない声を上げてしまった。
白いワゴン車だ。道の真ん中を歩いていた私の、すぐ後ろにいた。無灯火の車が水飛沫を上げながらこちらへ、向かってくる。
慌てて道の端へ飛び退いた。途端、靴底がつるりと滑った。視界が傾き、私はバランスを崩して、背中を何か硬いものに打ち付ける。
ざば、と大きな水音が聞こえた。
冷たい水が降りかかってきた。頭の上から、容赦なく。咄嗟に目を閉じることしかできず、すぐに頭から、髪を伝い、頬や首筋を流れ落ちて背中にまで忍び込んできた。口の中にまで水の味がした。きれいではない泥水の味。
ようやく目を開けた私は、冷たい水が流れ込んでくるのにも構わず、じっと目を凝らした。
眼鏡のレンズの表面を流れ落ちる濁った雫と、降り頻る雨の向こう、さっきの白いワゴン車の後ろ姿が見えた。ブレーキランプを一瞬だけ光らせたその車は、だけどそのまま狭い路地を走り去った。エンジン音が遠ざかり、すぐに見えなくなってしまう。
水を跳ねられたのだと気付いたのは、その後のことだ。
酷い仕打ちだと思った。
頭から泥水を被ってしまった。夏服のセーラーが嫌な色をして、私の皮膚に張り付いている。その上から降り注ぐ雨がたちまち冷たく染みてくる。
スカートも、靴下も色が変わっていた。私はいつしか道端に座り込んでいて、アスファルトの路面に触れたあちこちから冷たい水が染みてきた。背を預けているのはどこかの家の塀らしく、ざらざらした石の感触が素肌に直接感じられるようだった。最早濡れていないところは皆無で、頭のてっぺんから爪先まで、凍えるほどに冷たく、気持ちが悪い。
ざあざあと雨が私を叩く。前髪が額に引っ付き、そこから雨がとめどなく滑り落ちてくる。目を開けていられないくらいだ。
あ、傘がない。どこへ行ったんだろう。
ぼんやりと視線を巡らせると、雨の中の霞んだ景色が映る。水で覆われた路上、すぐ傍に落ちていた通学鞄と補助バッグを見つけて、慌てて引き寄せ、抱き締めた。それらも既に濡れて冷たかったけど、そうせずにはいられなかった。そうしてから、思い出したように身体が震えてきた。
あんまりだ。酷い、酷すぎる。私だって不注意だったのかもしれないけど、頭から水を掛けていかなくたっていいのに。あの車の人も、水を跳ねたと気付いたのなら、せめて一言詫びてくれたっていいのに。気付かなかったのか、気付いていたのかは知らないけど、そのまま去ってしまうなんて。
怖かった。冷たかった。寒い。これから、どうしよう。
こんな酷い格好で、先輩に会いに行くなんてことはできそうにない。かと言って真っ直ぐ帰るにしても、こんな格好で、水をぽたぽた滴らせながら電車に乗り込むのもみっともなくて嫌だった。なら、どうする。どうすればいい?
私は途方に暮れていた。これからどうしていいのか、どうするべきなのかわからない。わかったとしても立ち上がる気力すら今はなかった。
視界の隅にぽつりと、淡い色合いが見えた。
あの傘だとわかった。晴れた日の空の色をした、買ったばかりで、お気に入りだったあの傘。
少し離れた、道の真ん中に落ちている。放り出されて、雨に打たれながらじっとしている。私が拾いに行かなければずっとあのままだろう。
だけど立ち上がる気は起こらない。
私はしばらく鞄を抱え込んだまま、道の端でじっとしていた。身を打つ雨の音よりも強く、忙しない心臓の音を聞いている。全身震えているのは、雨が冷たいからだけではなかった。