皐月(4)
書店を出た後、私は兄に連れられてフードコートへ向かった。兄は沈む私を恋に悩んでいると思ったようで、励ますつもりかアイスクリームをトリプルでごちそうしてくれた。甘いものは好きでも食べるのが速い方ではない私は、アイスが溶けてしまわないよう黙々と口に運ぶことに専念した。
私がアイスを食べている間、兄は見当外れの話を続けていた。人間誰しも片想いに悩むものだとか、そうやって悩むことが人を成長させるのだとか、前向きなのかそうでもないのかよくわからないアドバイスを繰り出してきた。ざわざわと騒がしいフードコートは、そういう話をするのにちょうどよかった。
「強いて言うなら、ああいう真面目そうな男は、下手に策を弄するよりも直球の方がいいな」
訳知り顔で兄は続ける。
「ああいうのは案外、ストレートに来られると弱いんだよ。ヒナもほら、強引に落とすくらいの気持ちで!」
その助言についてはあながち的外れでもないなと思いつつ、兄にこれ以上気を遣わせるのも悪い気がしたので、トリプルの二段目まで食べ終えたところで打ち明けた。
「お兄ちゃん、私、別に片想いしてるわけじゃないよ」
ここまであれこれ気を揉んでくれていた兄は、私の告白に目を丸くした。それからすぐに顔を顰めた。
「せっかく他人が励ましてやろうとしたのに、勘違い? なら先に言えよ」
「……私もね、お兄ちゃんに先輩を紹介した方がいいのかな、とも思ったんだけど」
だけど私が続きを話せば、兄の顔がまた驚きの色へ変わっていく。
「でも何か、恥ずかしいのもあったし。あとお父さんお母さんにはまだ言ってなかったから」
「え、それって……」
「お兄ちゃんも、お母さんたちにはまだ言わないでね」
一応、釘を刺しておく。
「わ、わかった」
兄はおかしいくらい神妙に頷いた。
それにはちょっと笑いつつも、私の胸にはまだ後悔や罪悪感がわだかまっている。残りのアイスを食べながら、やっぱり鳴海先輩のことを考える。
先輩が東高校を卒業する少し前、先輩は私を傍に置くようになった。元々校内では何かにつけて目立っていた人だけに、周囲もそういう変化を敏感に察したようだ。私と先輩の関係は早々に知れ渡ることとなり、文芸部の他の部員やクラスメイトから真偽の程を尋ねられる機会もたくさんあった。見方を変えればそれは、私が自発的に主張しなくても先輩との関係を知ってもらえる機会でもあったと言える。
だけど先輩はもう卒業してしまい、より広い世界へと出て行った。そこでは私たちの関係を知らない人の方が、当たり前だけど圧倒的に多い。そういう人たちに私たちについて話さなくてはならない機会も、この先きっとあるだろう。ちょうど先輩が大槻さんに、私のことを聞き出されていたみたいに――。
私は皆に、鳴海先輩という人を理解してもらいたいと思っている。冷たいばかりでも、頑ななだけでもないことを知って欲しいと思っている。だけど皆が先輩についてより深く知っていく過程で、その先輩の傍にいる私のことも、同じように知られていくのではないだろうか。
「さっきは先輩も口裏を合わせてくれて、ただの先輩後輩ってふうに振る舞ってくれたけど」
アイスを食べ終えると、私は思わず頬杖をつく。冷たいものを一気に食べたから、頭が痛くなってきた。
「でも……鳴海先輩って、とてもしっかりしているし、頭もいいし、いつも落ち着いていて頼れる、すごく尊敬できる人なの。いつもは確かにそう思ってるのに、どうしてそうやって紹介できなかったのかって思う」
鳴海先輩についての誉め言葉には不自由しない。几帳面で、計画的で、少し潔癖症ではあるけど一人暮らしの部屋ではそれが効果的に働いている。料理もするし、学業の成績もいいようだし、何より先輩が紡ぐ物語は感性豊かで美しい。見た目だって、さすがに絶世の美青年とは言えないけど、でも私には十分素敵に見える。姿勢がよくてすらっとしていて、顔立ちも大人っぽくて、指先はとても器用そうできれいだ。
必要とあらばいくらでも思い浮かべられるほど、私はいつも、先輩のことばかり考えているのに。
「そういう人のことを誤魔化して、嘘をついて隠しておこうとするのって、失礼なんじゃないかって……」
私が打ち明けた胸中を、兄は柔らかく笑んで受け止めてくれる。
「そっか。まあ、確かに隠されたりするのはちょっと寂しいかもな」
「お兄ちゃんも、もし彼女に誤魔化されたりしたら、嫌だよね」
そう尋ねてみたら、兄は何とも言えない顔つきをした。私の仮定を肯定するでも、否定するでもなく。
「確かにこそこそしてまで付き合うのは、この歳になったらちょっとな」
「そうだよね……」
「高校生のうちならそういうこともあるだろうけど。初めての彼氏なんて、恥ずかしくてどうしていいのかわかんないだろ」
それもある。私は無言で頷く。
でも初めての彼氏、とは言え、もしかしたら最初で最後の彼氏となるかもしれないのだし。少なくとも私はそう望んでいる。先輩がどう思っているかはわからないし、恐らく聞き出すのは相当骨の折れる作業だろうけど、同じように思ってくれるようになればいい、とも望んでいる。
だから恥ずかしさや不慣れなことを理由に、ごまかしを続けるような付き合いをするのはおかしい。私も先輩の傍で常に成長しなければならない。そもそも向上心のない人間に誰かを惹きつけるような物語が綴れるだろうか。文芸部員として、後輩として、そして先輩の彼女として、私は成長を心がけたい。
「けど、そんなに悩まなくても。向こうだってわかってくれんじゃないかな」
兄はまたしても前向きに言った。
「何か結構、優しそうな感じだったし。口裏も合わせてくれたんだろ?」
「そう思う!?」
無意識のうちに椅子から立ち上がった私を、兄は引き気味に見上げる。
「え……い、いや、思うけど……」
「鳴海先輩、本当は優しくて温かくて機転も利く人なの。嬉しいな、わかる人にはわかるのかな……!」
「ああ、そう。まあ、そんな感じには見えた、かな」
「だよね。さすがお兄ちゃん! ちゃんとよく見てるんだね!」
私が褒め称えても兄はいささか複雑そうにしていた。どうかしたのかと思っていたら、どことなく寂しそうに言われた。
「妹の惚気話を聞かされるのも、微妙って言うか、切ないものだなと思って」
だって、あんまり言われることがないから、嬉しかったんだもの。
取り繕うように椅子に座り直せば、そんな私を見て兄が笑う。
「そこまで言うんだったら、次はちゃんと紹介しろよ。自慢の彼氏です、ってさ」
できればそうしたい。いつかは両親にも打ち明けたいと思っているし――。
それに先輩も言っていた、『先の話でいい』って。
紹介しなくてもいいとは言わなかった。
修学旅行後の休みが明けると、私は先輩に許可を貰い、放課後に部屋を訪ねる約束を取りつけた。
一刻も早く会いたかったから、週末まで待っているなんてできなかった。お土産のお菓子を一度学校へ持っていく手間こそあったけど、それも先輩に会いに行けるのなら惜しくない。当日は大荷物をクラスの友人にからかわれつつ、放課後を迎えるとすぐに先輩の部屋へ飛んでいった。
鳴海先輩も、駆けつけた私を部屋で待っていてくれた。先月以来、久しぶりに訪ねた先輩の部屋はいつものようにきれいに整頓されていた。そして五月も終わる頃だからか、白い紫陽花の鉢植えがきれいに咲いていた。
「今年もきれいに咲きましたね」
私が誉めると、先輩は何でもないことのように応じる。
「手をかける余裕があったからな」
そんな先輩に修学旅行のお土産を手渡すと、文句を言いたそうな顔をしながらも私の為にお茶を入れてくれた。二人でお茶を飲み、お菓子は主に私が食べた。先輩は当初の宣言通り、律儀に二つ食べてくれたところで『後は任せた』と箱ごと私に差し出してきた。
「兄にはあの後、正直に打ち明けてしまいました」
美味しいお菓子を食べながら、私は先日、書店で会った後の出来事を話した。
鳴海先輩はどんな反応をするだろうと思っていたら、私を咎めるように眉を顰めてみせた。
「つまり、俺の小芝居も無意味なものになったということか」
「すみません。先輩の心遣いはすごく嬉しかったんですけど」
ああいう時に私の事情と内心を察して、機転を利かせてくれたのは嬉しかった。
でも次からは、鳴海先輩のことをきちんと紹介して、嘘をつかないでいられることを嬉しいと思えるようになりたい。
「兄から、次に会った時はぜひ紹介して欲しいと言われたので、してもいいでしょうか」
「俺は構わんが」
私の問いに先輩は短く答えてから、にこりともせず続ける。
「しかし俺はこの通り、他人に好かれない性質だ。お前のお兄さんがどう思うか、保証はできんぞ」
「それなら大丈夫です。兄は先輩のことを、優しそうな人だと言っていました」
「まさか」
自分のことだというのに、鳴海先輩は即座に疑念を見せた。
「本当ですよ」
私が重ねて肯定すると、小さく笑って首を竦める。
「失礼だが、目が悪いところはよく似たご兄妹と言わざるを得ないな」
そう言ってから先輩は私をじっと見た。私の顔を見つめながら何か思い出すような表情を取り、どういうわけか更に笑う。
「いや、よく見れば顔も似ていたな」
「それはないです。似ているのは眼鏡をかけてるところだけです」
今度は否定した私を、先輩は珍しく声を立てて笑った。
鳴海先輩にさえ似ていると言われた、実際はそんなに私と似ていないと思ううちの兄は、もう既に帰省を終えて一人暮らしに戻っている。今頃は仕事に追われているだろうか。次はいつ頃帰ってくるのか、そのうちに聞いておきたい。
その時こそ兄に、先輩をきちんと紹介しよう。
それと――うちの両親にはどうしようか。こちらはまだ覚悟が決まらないし、早いような気もする。何と言うか、もう少し将来のビジョンが定まってからでもいいように思う。鳴海先輩も、私の兄に引き合わされるのと私の両親に挨拶をするのとでは心境が全く違ってくるものだろうし。
私自身でさえ、先輩が挨拶に来る日のことが、まだちっとも想像できないくらいだ。
「まだずっと後の話ですけど、いつか、私の両親にも会ってくれますか」
途方もない話を、恐る恐る尋ねてみる。
先輩は笑うのを止め、驚いたように身を引いた。思案するような短い間を置いてから、何を聞くのかと言いたげに私を睨む。
「それは当然、いつかは……ご挨拶に伺うのが礼儀だと思っている」
睨みながらもそんなことを言う。
「だがな、雛子。俺はまだ学生だ、自立もしていない身分でご挨拶に上がるのはさすがに尚早だろう。お前のご両親も、こんな男が相手では娘を任せられないと言うだろうし――」
そこまで言ったなら最後まで言ってくれても構わないのに、先輩は実に中途半端なところで照れ始め、慌てたように文句をつけた。
「笑うな」
「笑ってないですよ」
「嘘だ、お前の目が笑っていた。俺がせっかく真面目な話をしているのに」
「それは笑っていたんじゃなくて、幸せだと思っていたんです」
本当だった。先輩がそこまで真剣に考えていてくれたことを、しみじみ幸せだと感じていた。
「うちの両親も兄と同じく、きっと先輩が優しい人だって思ってくれるはずです。心配要らないですよ、きっと」
私がそう告げても、先輩はしばらく拗ねたような態度でそっぽを向いていた。間違いなく照れているようだった。
だけどそのうち、ふと真面目な面持ちになってこちらに向き直り、
「……しかし、俺はお前のことを随分な物好きの変わり者だと思っていたが」
深く得心したような口ぶりで言ってきた。
「今のような話を聞くと、お前が普通の、まともな家庭で育ってきたのだと実感させられるな」
いつものような体温を感じさせない声が、今は私の胸に刺さった。
その言い方がもう少し寂しげだったら、かける言葉もあったかもしれない。だけど先輩は特に感情も込めず淡々と口にしていたから、私は何を言っていいのかわからなくなる。先輩に対して家族の話をするのは無神経だっただろうか。私はまだ、先輩がどんな家庭で育ってきたかを教えてもらっていなかった。
私の動揺を察知したのだろう。やがて先輩は話題を打ち切るように立ち上がり、机の上にある本立てから、半透明のクリアファイルを抜き出した。その中に入っていたはがきを、写真の面を表にして私に見せる。
「そういえば、届いていたぞ」
岸から繋がれた船がたくさん並んでいる、港町のポストカードだ。私が修学旅行中に投函したものに違いなかった。
想定していたことではあったけど、あの時綴った気持ちが、現在では少しばかり恥ずかしかった。先輩が思ったよりも平然とそのはがきを出してきたのもあり、今更ながら臆したくなる。
「あの……迷惑じゃなかったですか」
思い切って聞いてみる。先輩は呆れた顔をする。
「それは出す前に聞け。今聞かれたところで送りつけられた後ではどうにもなるまい」
「あ、それもそうですね……」
「だが、この写真は嫌いではない」
先輩が言った。
はっとする私を、先輩はしばらく黙って見下ろしていた。眼光の鋭さも仏頂面も相変わらずだけど、嫌いではないと言った先程の声には、確実に穏やかさが存在していた。
先輩の好きな海はこういう海なんだろうか。南国の美しい海ではなく、光に溢れた砂浜でもなく、ざらざらした岸壁があり、海鳥が空を舞い、波間には船がゆらゆらと浮かぶ港町の海が好きなのだろうか――もっともそれがわかったところで、その情報と先輩を結びつける糸はどこにも見つからない。
私はまだ、鳴海先輩の全部を知らない。先輩の人生のうちほんのわずかなページだけに触れ、読ませてもらえただけにすぎない。
いつか――私が先輩を、私の両親に会わせようと考える頃には、私も先輩のことをもう少し教えてもらえるようになっているだろうか。
「俺にも……」
ポストカードの写真と私の顔を交互に見比べ、先輩は呟く。
「俺にも、いるのを思い出した。お前を紹介しなければならない相手が」
それは一体誰なのだろう。
実家にいるという家族、ではないのかもしれない。家族ならここまでよそよそしい言い方はしないはずだと思うけど、それは先輩言うところの『普通の家庭』に育った私だから、そう思ってしまうのかもしれない。先輩は、こと自らの家庭事情に関しては非常に口が重かった。
だから問い質すことなんてできるはずもなく、かと言って押し黙っていたら、何を神妙にしているのかという顔をされてしまったので、私は最も気になっていることを切り出してみる。
「その方に……私、気に入ってもらえるといいんですけど」
すると先輩は眉を顰め、
「仮に気に入られなかったら、どうするつもりだ。俺は誰が何と言おうと――」
と言いかけて、やはり最後まで言わずに私を睨んだ。
そういうところまで口が重くなくてもいいのに、と私は思う。
当然、私だって同じように考えている。誰が何と言おうと私には、鳴海先輩しかいない。