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如月(4)

 二月二十四日、午後一時。
 一般入試の合格者発表が大学のサイト上で行われた。
 当該ページでも事前に説明があったけど、発表時刻の前後はアクセスが集中したのか繋がりにくく、私は自宅のパソコン前でやきもきしながら表示されるのを待った。早く見たい、でも見るのは怖い、相反する気持ちを結局消化しきれないまま待つこと数分。やがて当たりを引き当てたようだ。ディスプレイにじわじわ広がるように、合格者番号が連なるページが表示される。
 私はその番号をゆっくりと確かめた。
 手元に置いた受験票と照らし合わせて、二度、三度と確かめた。
 深呼吸を一つ。
 それから、携帯電話に手を伸ばして先輩に電話をかける。
 鳴海先輩も待っていてくれたのだろうか、コール音が二回鳴るか鳴らないうちに電話は繋がり、先輩の声が耳元から聞こえた。
『雛子か、どうした?』
 心なしか、先輩の声もいつもと違っていた。今日ばかりは淡々としていない、どこか急くような声をしていた。
 とは言え私の方こそまともに話せる状態ではなかった。ずっとパソコンにかじりついていたくせに、マラソンを終えた後みたいな絶え絶えの呼吸で告げた。
「今から飛んでいきます、先輩!」
『……わかった。気をつけて来るように』
 詳しくは話さなかったのに、随分と明るく言ってもらった。

 私は慌しく支度を済ませてすぐに家を出た。
 駅に着き、改札を抜けてホームまで上がると、屋根のひさし越しに一面真っ青な空が見えた。雲一つない晴天に眩しい太陽が輝いていて、日差しの暖かさに冬の終わりを予感する。それでも放射冷却のせいか風はまだ冷たく、私は首を竦めながら電車が来るのを待っていた。待つ間、両親や兄や友人たちに報告メールを送った。
 マフラーを巻いてくるのを忘れたことに気づいたのは、電車に乗り込んでからだった。
 どうやら私はすっかり気もそぞろのようだ。いつもなら鞄にお気に入りの文庫本でも入れておくのに、今日に限って長い車中をやり過ごす道具が何もない。もっとも、本を開いたところでかけらも頭に入ってこないだろうけど。
 それでいて電車は遅い。いつもの十倍は遅い。普段、通学する時だって読書をするには半端な時間しかかからないはずなのに。先輩と会った日の帰り、二人で一緒に電車に乗る時はそれこそあっという間に着いてしまうのに。
 私は車窓の景色をじれったい思いで眺め、ガラスにうっすらと映る自分の顔がそれでも緩みきっているのを発見して、慌てて引き締める。
 早く、先輩に会いたかった。

 電車を降り、駅を出てからの記憶は抜け落ちたように曖昧だった。
 通い慣れた道を無意識のうちに辿り、先輩の暮らすアパートに到着する。相変わらずひっそりと静かな佇まいを見つけた瞬間、足が自然と駆け出していた。
 重たいドアの前に立ち、また深呼吸を一つする。それから前髪の乱れを直し、唇の乾燥に今頃気づいて内心焦り、でももう着いてしまったのだからとインターホンに手を伸ばす。
 ところが、私がチャイムを鳴らすよりも早く、玄関のドアノブが音を立てて回った。
 ドアが軋みながら開く。ノブを握る先輩の手とそこから連なる腕が見える。すぐに先輩の姿も見えた。差し込む眩しい日差しのせいか、目を眇めてこちらを窺っていた。口元は固く引き結ばれていて、私の最初の言葉を待っているようだった。
 私は、開いたドアの向こうに飛び込んだ。
 もう言葉もなかった。いろんな感情が胸の中でぐるぐると渦巻き、整理のつかないうちに込み上げてくる。言いたいことはたくさんあるはずなのにどれ一つとしてまともな形にはならず、私は何も言えないまま、目の前の先輩に勢いよく抱きついた。
 痩せた体躯の先輩は、意外にも私をしっかりと受け止めた。もしかしたら私の行動すらお見通しだったのかもしれない。さすがに私と重いドアの両方を支えることはできなかったようで、突っ張っていた片腕がふっと緩み、背後でドアが軋みながら閉まると、小さな玄関から日の光が逃げていく。辺りは一転して暗闇に閉ざされる。私は先輩の背中に腕を回し、より強く縋りつく。
 頭上では微かな溜息が聞こえ、やがて先輩も私を抱き締め返してくれた。
 お互いに一言も発さなければ、ここは本当に静かだった。時折、思い出したように傍の道路を車が走り抜けていく他は物音一つ聞こえない。代わりに私の耳には先輩の心臓の音が聞こえてくる。規則正しく鳴り響き続けるその音が、まるでメトロノームみたいに私の呼吸も整えていく。
 思い切って顔を上げたら、少し曇ったレンズの向こうに先輩の顔を見つけた。目を逸らさずに真っ直ぐ私を見下ろしている。表情はわずかに硬く、まだ確信を得ていないように映った。まだ、私の言葉を待っているのだろう。
「先輩……」
 ようやく発した私の声は、自分でもおかしいくらい涙交じりだった。
 でも、感情が昂っているのだろう。涙腺が呆気ないほど脆くて、簡単に泣けてしまった。もう眼鏡の曇りが引いたところで関係なく、視界が滲んでぼやけていく。
「どうして泣くんだ」
 先輩の声がする。
「どうしてって、そんなの……」
 決まっている。
 一人の時は嬉しさや、幸せな気持ちくらいでは泣けないのに、先輩の前では不思議と涙が零れた。自分がこんなに涙脆い人間だとは思っていなかった。でも好きな人に対して素直でいられるのは幸いなことだとも思うし、それを受け止めてもらえるのも、本当に、素晴らしいことだ。
「雛子」
 先輩は宥めるように私を呼んだ。
 そして、溜息と同時に言った。
「気持ちはわかるが、早く、はっきり言ってくれないか」
 その口調がいかにも痺れを切らした様子で、それでいてとても優しかったから、私は泣きながら笑った。
 もちろんすぐに打ち明けた。
「受かってました」
 涙が止まらない。
 でも、嬉しい。すごく嬉しい。今までの努力が認められたこと、皆に胸を張って報告ができること、長い受験生活に終わりを告げられること、春から大学生になれること。
 鳴海先輩と、また同じ学校に通えること。
「合格してたんです、私。よかった、本当によかった……!」
 先輩を追い駆けていこうにも、その実力がなくて門前払いではどうしようもない。でもそんな心配ももうなかった。
「おめでとう」
 先輩が私の髪や背中を撫でる。泣き止ませようとする仕種にも思えた。
「よかったな。お前の頑張りが報われた結果だ」
 微かに笑いを含んだ声で言われて、私はますます泣けてきた。今日みたいな日は思いきり泣いてもいいと思う。でも、ずっと泣いてばかりというのももったいない気がする。せっかくいい知らせを持ってここへ来たのに。
 せっかく、先輩と会えたのに。
「とりあえず、靴を脱いで上がったらどうだ」
 鳴海先輩にもそう言われた。そして抱きつく私の身体をそっと引き離そうとしたけど、私はまだ離れたくない気分だった。しつこくしがみついていたら、先輩は困惑したようだ。
「ずっとこのままというわけにもいかない。ほら、一旦離れろ」
 促されたので仕方なく、私は先輩から身を引いた。ようやく収まってきた涙を手の甲で拭うと、先輩がわざわざタオルを持ってきてくれた。
「まず顔を拭け。こんな日に泣く必要はないだろう」
 私はありがたくタオルを借りて、眼鏡を外し、散々泣いてしまった後の目元を拭いた。そうして視界がクリアになると、玄関に立ち尽くしたままで泣いているのが今更のように恥ずかしくなってきた。かけ直した眼鏡のレンズを通して、呆れたように笑んでいる先輩の顔も見えた。
「すみません」
 私が恥じ入りながら詫びると、先輩は一度顎を引いた。それからこちらへと手を差し伸べる。
「こっちへ来い、雛子。部屋の中の方が暖かい」
「……はい、先輩」
 差し出された手を借りて、私は玄関でブーツを脱いだ。その後、屈んで靴の向きを揃える間、先輩は腕を伸ばして玄関に鍵をかけていた。
 何となく見上げてみたら、先輩もちょうど私を見ていた。ただ目が合うと、早口気味に確かめてきた。
「今日は早く帰るのか?」
「いえ、夕方くらいまでは大丈夫です」
 両親が帰ってくるのもそのくらいだ。それまでに戻ればいいだろう。きっとお祝いのパーティをしようと言い出すだろうから、それはそれで楽しみだ。
 だけど今は、先輩といたかった。
「それなら少し、ゆっくりしていくといい」
 安堵の表情を浮かべた先輩も、そう言ってくれた。

 泣き止んだ私は、それでも冷静とは言いがたい心境にあった。
 むしろ涙の嵐が過ぎ去った後は春のような浮かれ気分が訪れて、もうじき始まる大学生活への期待も膨らんでいくばかりだった。
「私、大学に入ったらやりたいことがたくさんあるんです」
 二人でストーブの前に並んで座り、入れてもらった紅茶を飲みながら、私は先輩にあれこれと話した。先輩の部屋は今日も暖かくて静かで穏やかで、窓の外から柔らかく日が差し込んでいるのもあって、とても居心地がよかった。
「まず、先輩と一緒に登校したいです」
 そう切り出すと先輩は眉を顰め、
「やりたいことと言うから何かと思えば……。勉強に関する内容じゃないのか」
「も、もちろん勉強だってしますけど!」
 私は慌てて弁解しつつ、これは譲れないとばかりに語る。
「でも高校時代は一度もできなかったことですから。時間の合う時だけでいいので、先輩と待ち合わせて一緒に登校したいんです。駄目ですか?」
 大学の登校時間は高校と違い、取っている授業によって違うと言うし、実際にそんなことができる機会はそう多くないのかもしれない。大学でもやはり、鳴海先輩は私より早く卒業してしまうだろうし、どれほど一緒にいられるかはわからない。
 それでも密かに憧れだった。
「時間が合えばな」
 先輩が前向きな返答をくれたので、私は更に踏み込んでみる。
「是非検討してください。それと帰りも、時間が合ったら一緒に帰りましょう」
「それは俺の高校時代にだってやっていたはずだ」
「あんなのカウントに入りません」
 私は口を尖らせて、先輩の反論を封じた。鳴海先輩は不可解だという顔をする。
「あんなの、という言い方はないだろう」
「だって当時の先輩は随分と早足で、私と並んで歩いてくれませんでした」
 まだ先輩が東高校の文芸部にいた頃、何度か一緒に帰ったことはあった。当時の私たちのディスコミュニケーションぶりといったら私自身が関係のありようを見失うほどで、それからしばらくの間、男女交際とは何か、恋愛とは何かと悩まされる羽目になった。もっとも、悩んでいたのは鳴海先輩も同様のようなので、過去を責めたり悔いたりするつもりはない。
 大切なのは今、そしてこれから先の未来についてだ。
「だから大学に入ったら、先輩と、昔はできなかったいろんなことをしたいんです。一緒に登下校したり、一緒にお昼ご飯を食べたり、一緒のサークルに入って楽しく過ごしたり――そういう楽しいこと、全部です!」
 叶わなかった夢はこれから叶えればいい。
 私たちは再びその機会を得た。少し遅くなってしまったけど、ささやかでありふれた青春風景を過ごすのに、遅すぎるということはないだろう。
「お前は何をしに大学へ来るんだ」
 鳴海先輩は心底呆れたという様子で私に言った。私の頬に軽く触れ、さっきまであったはずの涙の後を辿るように撫でながら。
「大体、はしゃぎすぎだ。さっきまで泣いていたくせに」
「泣くくらい嬉しかったんですから、はしゃぐのも当然でしょう?」
 恥ずかしい指摘に私が反論すると、先輩は微かに笑い声を立てる。
「浮かれるのはいいが、入試だけで燃え尽きたなどと言うなよ」
「もちろんです。私の本分はやはり勉強ですから!」
 あくまでも私は言い張る。
 そう、これは偶然と言うか運命と言うか、とにかく幸運なことに私の志望校に鳴海先輩がいたというだけの話だ。私だってなんの考えもなく先輩のいる大学を受験したわけではなく、志望学科や学費、学内の環境、及び実家からの通学というあらゆる観点を考慮した上で決めた。
 ――という詭弁も、そろそろ不要かもしれない。誰がどう見たって私が鳴海先輩を追い駆けていくように見えるだろうし、それは紛れもない事実だった。ただ私はその事実をちゃんと叶えるだけの努力ができたというだけの話だ。そして鳴海先輩がいる以上、また同じ学校へと通う以上は、入学した途端に気が緩んで堕落するような怠惰な大学生活を送ることなどできはしない。
 私の主張を先輩はどう聞いたのだろう。しばらくの間、眼光鋭く睨まれていた。だけどやがて緊張を解くように、軽く息をついてみせる。
「まあ、こんな日に説教というのも無粋だな」
 そう言ってから先輩は目元だけ微笑ませるように細めた。
「正直に言えば、俺も嬉しい。単純にお前と会う機会が増えるからな」
「先輩だって、私と同じようなこと言うんですね」
「お互い好きで一緒にいるんだ、考える内容も似通って当然じゃないか」
 私の言葉は咎める割に、先輩はためらいもなくそんなことを口走る。
 思わず私が息を止めると、目を細めたままの先輩はしばらく私の顔を見た。自分で言うのも何だけど、とても大切な、いとおしいものを見るような眼差しだった。いや、私がそう思いたいだけかもしれなくて、先輩にはもっと別の意図があるのかもしれないけど、とにかくそう見えたような気がした途端、心拍数が一気に上がってしまった。
 どちらにしても鳴海先輩は、本当に嬉しそうだった。
「……な、何ですか」
 どもり気味に尋ねたら、先輩は一度目を瞠ってから、何気ない口調で答える。
「いや。考えていただけだ、お前のいる大学生活がどんなものかを」
 そう言われると気になる。先輩の想像の中で、私はどんな大学生になっているのだろう。
「私、ちゃんと勉強してましたか?」
「どうだろうな。そういう想像はしなかった」
「じゃあ一体どんな想像をしたんですか」
「いちいち言うまでの話でもない。そのうち全部、現実になるだろうからな」
 何て思わせぶりな言葉だろう。
 だけどそれが先輩の望む大学生活だというなら、私は是非叶えたいと思う。
 お互いに理想的で、幸せで、ささやかだけど満ち足りた日々を送れたらいい。高校時代には得られなかったありふれた青春風景を、遅まきながらも二人で手に入れられたらいい。
「先輩にも喜んでもらえて嬉しいです」
 私もしみじみと呟く。
「受験中も大変お世話にもなりましたし……今度じっくり、お礼をさせてください」
「大したことはしていない」
 先輩はきっぱり言ってから、軽く肩を竦めた。
「だが更に正直に言うなら、俺はお前が受験生ではなくなったのも嬉しい」
「あ、それは私もです」
 ちょうど飲んでいたティーカップが空になり、私はそれを傍の座卓に置いた。それから両腕を高く上げて伸びをしてみる。今日の開放感はひとしおだった。
「もう、受験生活が長くて長くて。飽きが来ていたところだったんです」
 受験生として過ごした期間は窮屈で息苦しかった。両親を始め、周囲の人たちにはいろんな点で気を遣わせてしまったし、私自身も気を引き締めてばかりの日々を送り続けてくたびれていた。そろそろ少しくらい羽を伸ばしても罰は当たらないだろう。
「そうだな。長かった」
 先輩も万感込めて頷いていた。きっと鳴海先輩にも思うところがあるのだろうと、私は申し訳ない気持ちになる。
「先輩にもご迷惑をおかけしました」
「迷惑でもない。あまり気にするな」
「でも、私に会えなくて寂しかったですよね」
「ああ」
 半ば冗談のつもりで言ったことにも素直に頷かれ、私が墓穴を掘った気分でいると、先輩はその虚を突くように私の唇に自らの唇で触れた。
 柔らかい。少し温い。でも今日も味はわからなくて、顔が離れた時、唇の端に吐息がかかったのがくすぐったかった。
 唐突な行動に出た先輩を、私は多分、目を丸くして見つめていることだろう。
 先輩は私の顔を見て、さもありなんという表情を取った。
「雛子」
 そして先輩は固まる私の名前を呼び、一度溜息をつく。ためらったのか、呆れているのか、緊張しているのかはわからない。居住まいを正してから、にこりともせずに続けた。
「こんな日にこういうことを言うのも、それこそ無粋かもしれない」
 改まったような物言いに、私も背筋を伸ばしたくなった。
 一体、何の話だろう。
「だがお前に、どうしても頼みたいことがある」
「頼み、ですか? 私にできることなら……」
 何だか重そうな話だ。私は思わず身構えたけど、先輩はそれを制するように口を開いた。
「そう構えないでくれ。お前にはきちんと断る権利がある」
 その後、熱っぽい口調で告げられた。
「お前が、欲しい」
 慎重に、問いかけるように、重々しく告げられた。
 はっきり言って、予想もしていなかった頼みだった。たちまち私の体温が急上昇して、心臓がばくばくとうるさい音を立て始める。それ自体は先日、バレンタインデーにも聞いていた。額面以上の意味がありそうな、そもそも額面からしてどうとでも解釈できるような言葉だった。
 それなら今日のは、一体どういう意味だろう。
「先輩……えっと、それって」
「その、お前が嫌じゃなければだ」
 蒸発しそうな勢いで発熱する私に気づいてか、先輩も真っ赤になって慌てふためく。
「こんなことを無理強いするつもりはないし、それでお前に愛想を尽かされるくらいならもう言わない。こんなことをしなくてもお前の気持ちは確かめるまでもなくわかっている。拒まれたからと言ってそれを疑う気だってない」
 まくし立てるような弁解を、私はどんな態度で聞いていればいいのだろう。
 鳴海先輩はこれでも、至って、驚くほど真剣なのだから。
「俺も、お前が好きだ」
 真面目な顔つきで言った後、先輩は私を真っ直ぐに見る。
「だが好きだという気持ちから、そういうものを切り離すことができなかった」
 少し、苦しげな告白に聞こえた。
「これは、以前も話したな。俺はいっそお前を精神的にだけ愛せたらと思っていたが、俺のような未熟な人間には到底不可能だった」
 前に、聞いていた。
 先輩が、その身体すら不要だと思い詰めていた時のことだ。
 私は先輩にそこまで思い詰めて欲しくなかった。寂しい思いもして欲しくなかった。だからあの日、あの時は――。
「むしろ不可能だとわかったあの日から、そういった衝動はより一層エスカレートしたように思う。あれからお前と会う度に、いつも淡い期待を抱いていた。お前をいとおしいとと思うのと同時に、お前に触れたいという気持ちも燻り続けていた」
 そして薄い唇を噛み締めるようにして一瞬黙った後、更に言った。
「お前が受験生のうちはもう黙っていようと思っていた。だからと言って今日、こうして切り出すのも現金と言うか、厚かましいことこの上ないだろうが……やはりお前といると考えてしまう。今日のお前は特別可愛いから、余計にな」
 先輩はとんでもないことをさらりと言った。ただし口調の割に表情は追い詰められた人のように硬く、余裕もなく、やはり真面目だった。正座の姿勢から少しだけ身を乗り出し、隣に座る私の両手をぎゅっと握った。痛くもない程度の力ではあったけど、私は、答えるまでは逃げられないような予感を抱いた。
「限界が来る前に、お前の気持ちを尋ねておこうと思う。聞かせてくれ」
「な……」
 当然のことながら、私は答えに詰まった。
 嫌だとか嫌ではないとかいうそれ以前の問題で、こんなに答えにくい問いなんてあるだろうか。何だかとてつもない事柄の決断を委ねられたような気がしてならない。
「そういうこと、そもそも、どうして聞くんですか」
 急な体温上昇のせいか、私の声はからからに干からびていた。それでも問い返さずにはいられない。そうでなければ先輩の言葉にも答えられない。
 なのに先輩はその疑問が不思議だという様子で目を見開く。
「お前が言ったんだろう。『次そう思った時は、私に聞いてみてください』と」

 ――そうだった。言っていた。
 なぜそんなことを言ったのか。もちろん、私も先輩のことが好きだからだ。
 そういうことで先輩には思い詰めたり悩んだり、自分自身が私にとって有害だなどと思って欲しくなかったからだ。
 私にとって鳴海先輩は、三年の高校生活の間ずっと追い駆け続けた相手であり、憧れであり、理想であり、可愛い人でも大好きな人でもある。
 そしてこれからまた、大学まで追い駆けていこうとしている人に対して、心にもない答えは告げたくなかった。

 ただ、何と答えるか、その具体的な文脈には少し悩んだ。
 次からはもういっそ聞かないでください、とも言いたいところだけど、そうすると鳴海先輩は、それはそれで素直に実行しそうな予感がするので困る。
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