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結実までの日々(2)

 一週間もしないうちに、再び鳴海先輩と二人きりになる機会が巡ってきた。
 そして一週間弱の間に私は、他の先輩たちから助言を貰っていた。曰く、鳴海先輩のいる時は誰もが部室に長居をせず、早く下校するようにしているから、私もそうした方がいい、と。当たり前のように勧めてくる先輩たちに、私はきっぱりと否定も出来ず、曖昧に頷いただけだった。
 もちろん賜った助言を活かすつもりはなく――長居をしたところで会話の糸口は掴めないし、そもそも鳴海先輩は私に興味もないようだから、部室に留まろうと早く帰ろうと同じことではないかと思っている。部室に先輩が現れたからといって、他の部員が次々と口実を述べて部室を去っていくからといって、私まで追従するつもりはなかった。
 つい先日までめったにないと思っていたチャンスは、これからはどうやら珍しくもないものになりそうだ。だけどもう、話しかける勇気は残っていない。

 部室や図書室が並ぶ廊下は校舎の端の方にあるから、放課後ともなれば不気味なほどに静まり返る。
 鳴海先輩の周囲はページを繰る時にかさりと聞こえるくらいで、他には何の物音も立てない。読書に夢中になり過ぎて、呼吸さえしていないみたいだった。古い机や椅子が軋むと申し訳なくなるから、些細な身動ぎでも慎重にしなければならなかった。
 相変わらず、姿勢のいい人だった。本を読んでいる時の表情はちっとも窺えないけど、着崩していない制服や切りそろえられた短い髪、それに器用そうなあの指先をこっそり観察することは出来る。差し込む西日の切っ先がぎりぎり触れない位置にいる先輩の姿に、以前よりもほんの少し、複雑な気分を抱く。
 冷たい人だとは、正直、ぼんやりと思い始めている。皆のように悪く捉えたくないという罪悪感の反面、恐々とながらも精一杯伝えた感想をああまですげなく受け止められると悲しくなった。だけど悪意ではなく、純粋に興味がなかったがゆえのあの反応を、単に冷たいとだけ評するのは間違っているはず。そうも思う。
 私は本を広げたまま、文章を追わずに先輩を注視している。部室へ来てから一時間は経っているのに、私の読書は全く進んでいなかった。そしてこの一時間ほどの間に、先輩と私が交わしたのは挨拶の言葉だけだった。
 ――こんにちは、先輩。
 ――こんにちは。
 私の声がどんなに震えていようと、顔つきがどんなにぎこちなかろうと、鳴海先輩は必ず挨拶を返してくれる。さらりと口にする『こんにちは』という返答は、何だかとても貴いもののようにも、ごく当たり前の事柄のようにも思えて、冷たい人という印象を覆したくなってしまう。
 先輩は私自身に、取るに足りない一年生に興味がないだけで、心根が冷たい訳ではないのかもしれない。文芸部員同士で仲良くするという意識も持っていないようだし、私が感想を伝えようとしたことも、同じ部に所属しているというだけでは到底看過しがたい、度を越した行為に思えたのかもしれない。
 あの凛とした文章を綴る人を冷たいと評したくなかった。つまりはそういうことだ。昨年度の部誌に載っていた短編にとても心惹かれてしまったから、その創り手たる先輩のことを嫌いたくないだけだ。作品と作者を同一視するいささか俗物的な感覚で、私は皆と同じ価値観をもつことを拒んでいる。けれど、あれこれと口実を探しながら先輩を観察しているさまは、早い下校の口実を述べる人たちと何ら変わりない浅薄さだろう。

 と、椅子の引かれる音がした。
 呼ばれた訳でもないのに顔を上げた私は、本を閉じた先輩が立ち上がるのを見た。ちょうど先輩もこちらに目をくれたけど、それは私の動きに反応したからだろう。ともかく、真正面から視線をぶつけ合う格好となった。
 目つきの厳しい人だった。
 とっさに逸らした後で気まずさを覚える。先輩に対しての印象を模索する一方で、怯えたくなる気持ちには変化がなかった。むしろ話しかける勇気が削がれた分、臆病で卑屈な心境になっていた。今も、先輩が機嫌を損ねてしまわないかとそればかりが気がかりで――、
「――その本、今読んでいるのは」
 鳴海先輩の声がした。
 呼応するようにびくりと肩が跳ねる。だけど声は構わずに続く。
「先日借りていた本とは違うな。あの本はもう読んだのか」
 口調があまりにもぶっきらぼうだったので、危うく質問だと気付けないところだった。私は慎重に視線を戻し、先輩の口元辺りをようやく見上げる。レンズ越しに映る薄い唇と尖り気味の顎。それが苛立たしげに動く。
「聞こえないのか?」
 今度ははっきり問われたとわかる。慌てて答えた。
「いえ……先日の本は、読み終わりました」
 回答を聞いた先輩は意外にも驚いたようで、へえ、と唸るように言う。
 だけど驚くというならこちらの方だ。急に話しかけられたこともそう、加えて私が先日借りていた本を、先輩が覚えていたということもそう。一年生部員の名前は忘れていたようなのに、その一年生が図書室で手に取ったのをほんの一瞬見ただけの本は覚えていたなんて、いかにも読書が好きな人らしい。
 薄い唇が更に動いて、
「あの本は俺も読んだ。最近の流行にはさほど明るくないが、あの作家の作品だけは追っている。人間の業を正当化せず、美化もせずに掘り下げて描く作風が好みだ」
 と言った時は、なぜか頬が緩むのを覚えた。
「そう、なんですか。あ、あの、うれしいです」
 込み上げてくる笑みを押し隠そうとする私に、先輩もやはり訝しがる。
「うれしい? 何がだ」
「あ、ええと……好きな本が同じ人に出会えると、うれしく思うんです。そうじゃなくても部活以外で本の話をする機会はあまり、ありませんから」
 それにしては喜び過ぎのような気もするけど、過分については鳴海先輩の趣味を思いがけず聞けたという点だけで説明がつくだろう。部室に現れる度に違う本を持ってくる先輩の、好みの作家を一人、教えてもらえた。今まで何も知らなかった相手のことだ、うれしくないはずがない。
 ただ、先輩は喜んでいなかったし、もちろん笑ってもいなかった。それどころか若干疎ましげな口ぶりで言った。
「確かにあの作家は好みだが、件の本が面白かったとは言っていない」
 今度は私だけが驚いていた。
「らしくもなく、小さくまとまり過ぎた作品だと思う。題材に家族愛を持ってきたのはわからなくもないが、その家族の描き方がかっちりと隙がなく、いささか押し付けがましい。まるでああいう家族のありようしか知らないと言わんばかりで、読者の解釈まで型に填めようとしているようなのが解せなかった」
 呆気に取られて相槌も打てない私をよそに、眉を顰めて語を継いでくる。
「あの作家ならもっと多様な家族像を描けるはずだ。読者に想像の余地を残しておくような、風通しのいい作品を仕上げられるはずなのに、あの本だけはなぜ焼き固めるような書き方をしたのか、そこがわからん」
 別に鳴海先輩が無口な人だと思っていた訳ではないものの、こうも饒舌に語られるとさすがに。いかにも、読書が好きな人らしい。
「お前はどう思う、……柄沢」
 名前を呼ぶまでに僅かな間があったのは、以前と同様に、私のネームプレートを確認していたからだ。その頃には私もすっかり先輩を見上げ、初めて認める先輩の興味深げな面持ちを不思議な感覚で受け止めていた。差し込む西日が陰影を刻む表情は、やはり澱みがなく、すっと通った鼻筋と真剣な双眸が毅然とした空気を完成させている。
 先日、感想を告げた時にはあんなに素っ気なかったのに、今日はどうしたことだろう。先輩に意見を求められているというのは。あの本についての感想なら聞いてくれるということだろうか。
 批判的な論調から始まった辺り、求められているのは『素敵だった』とか『印象深い』といった言葉ではないのだろう。ならば同意か同調か、あるいは真っ向からの反論か。
 迷いながらも口を開く。
「それは作者にとって、あの家族像こそが読者に訴えかけたいテーマだったからではないでしょうか」
 あからさまに、その時、先輩が失望の色を浮かべてみせた。鼻を鳴らして応じる。
「だとしたら、つまらんことこの上ないテーマだ。大体、作者が読者にそんなものを押し付けてどうする。読者は多種多様な人生を歩んであの本に辿り着くというのに、作者が凝り固まった家族像を提示してみせたところで、全て共感出来る者はそう多くないだろう。人生は千差万別だが、家族のありようもまた然りだ」
 それで私は縮み上がりそうになったものの、好きな作家の話でもあったし、ここまで来て先輩の言うことを全肯定したところで機嫌を直してもらえるとも思わなかったから――きっと、何を言っても以前のように関心を失われるだけだと覚悟していたから、思ったことを言ってみた。
「でも、人が一生のうちで経験出来る家族のありようは、本当にごく少ないですから」
「――何?」
 片眉を上げた先輩に畳みかける。
「多分、家族愛だからです。読者の印象を固定するような書き方をしたのは、家族が題材だったからだと思うんです」
 一度堰を切れば、あとは流れるように言葉が出た。私だって、読書が好きだから、本の話ともなればいくらでも話せそうだった。
「例えば友情だとか、あるいは恋愛だとか、そういう人間関係は人生のうちで、しようと思えば何度でも経験出来るもののはずです。でも家族との関係だけはそうではなくて、大抵生まれた時から決まりきっていて、大人になって家庭を持つまでは一つきりしか知らないという人がほとんどのはずです」
 思う。
「小説には、作家の人生が現れるものだと思います。作家の人となりがどうしても、少なからず滲んでしまうものです」
 そう思う。
「だからあの本において、作家の『一つきり』の家族像が強く現れているんじゃないかと思うんです。他の作品よりも小さくまとまっているように見えるのは、一つきりの家族をあえて書き表したかったから。そこに作家なりの家族への愛を込めたのではと、私はそう捉えました」
 私自身、文芸部の末席を汚す者としてごくささやかな創作活動をしているし、だからこそ実感している。私小説とはまた違う意味合いで、小説には作家の人生や人となり、あるいは思想、価値観、書いている時の感情が滲んでしまうものだ。良くも悪くも。
 美しい文章を書く人が、冷たい人だとは思えない。
 言い切ってから数秒後、
「……なるほど」
 先輩は顎に手を当てて呟いたけれど、火を見るより明らかに『承服しかねる』という顔をしていた。私は戦々恐々とその面差しを見上げている。次に何を言われるか、覚悟は出来ているようで出来ていない。
「全て納得したとは言わないが」
 そう前置きされた。
「面白い意見だ、と思う」
 誉められた。
 ような、気がする。
「あ……ありがとうございます」
 反射的にお礼を言った私を、先輩は不審そうに見た。だけど気に留めるほどでもなかったのか、すぐに別のことを言われた。
「他の本についても意見を聞いてみたい。何か読んだら教えろ」
「え? 私の、ですか?」
「そうだ」
 事もなげに頷かれ、眩暈すら覚える。先の拙い反論を聞いた上で、私の読書感想を更に聞きたいと、先輩に言われるとは思ってもみなかった。以前はそれですげなくされていたのに。
「考え方の違う人間の意見を聞くのも面白い」
 言いながら、鳴海先輩は笑った。
 笑う人だとは知らなかった。もっともその笑い方は決して温かくも優しくもなく、形容するなら挑戦的というのが相応しい。それでも初めて見る、私に対して向けられた笑みには違いなかった。
「お前は読むのも速いようだしな。一冊をどのくらいで読み終える?」
「……暇さえあれば、三日以内には」
 実際、量を読む方だという自負はあった。家でならかなり読み進められる。部室では、先輩と二人でいる時は、上手く集中出来ずにいたけど。
「そうか。期待している」
 恐らく機嫌のいいらしい笑みを残し、先輩は部室を出て行った。
 そしてほんの数分後、図書室から借りてきたと思しき別の本を手に戻ってくるまで、私はそのまま呆然としていた。ドアを開けてすぐの先輩にはうろんげにされたけど、仕方がないことだと思う。

 鳴海先輩という人が、ちっともわからない。
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