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結実までの日々(1)

 気付いた途端、足はぴたりと止まってしまった。
 目星をつけていた新刊図書の棚の前には先輩がいた。男子生徒にしては痩せぎすで、姿勢がよく、立ち姿のとてもきれいな人。ただその整い方は見とれることを許さない毅然とした空気を伴っていたから、私は先輩をじっくり見つめる機会に恵まれなかった。それどころか、今は思わず本棚の陰に隠れた。
 放課後の図書室は静かだ。秋の初めの西日はきつく、窓ガラスをものともしない強さで差し込んでおり、室温も夏のように暑く感じられる。だけど密かについた息は震えていて、そんな自分に嫌気が差した。
 これでは他の人たちと一緒だ。そういう態度をあの先輩に取りたいとは思わない、なのに情けなくも怯えてしまう。同じ文芸部に所属していながら、私の方から声を掛けたことはなかった。逆に先輩からごく短く、素っ気なく連絡事項を伝えられたことはあったものの、そんな時でさえ私はびくびくして、目も合わせられなくて、ただお礼は忘れずに言おうと必死だった。先輩からすれば同じ部の一年生など取るに足りない存在だろうし、どうとも思われなかっただろうけど。むしろ今も、どうとも思われていないだろうけど。

 私は、鳴海先輩のことが嫌いではない。
 嫌いではない、というのはおかしな表現かもしれない。あの人は私にとって、好悪の範疇を超えたところにいる。先輩がそこにいるだけで醸し出される厳しさ、澱みのなさに怯える一方で、部の他の人たちが先輩に対して抱く悪評を鵜呑みにする気はなかった。苦手だとは思っている。少なくとも世間話が出来るような相手でもないし、目下挨拶さえ声が震えないよう苦労している。でも私は、先輩の書く文章がとても好きだ。
 文芸部の空気はどちらかと言えば緩やかで、目立った活動内容といえば十一月の学園祭での展示と、部誌の発行くらいのものだった。幽霊部員も何人かいるらしく、正式な部員数は未だに知らされていない。そんな気楽な部活動の中で鳴海先輩は異彩を放っており、部室に現れる時はいつも本を読んでいるか、何か書き物をしていた。他の部員と必要以上に口を利くこともなく、日々生真面目に文芸部員としての活動に勤しんでいる。だからこうして、学校の図書室にも通ってくるのだろう。

 ただ、あの棚の前に先輩がいるとは思わなかった。本を取るには声を掛け、少し場所を開けてもらわなければならない。だけど――本棚の陰から顔だけ出して覗いてみれば、先輩は新刊の棚の前に立ち、一冊ずつ手に取ってはためつすがめつしている。まるで乱丁がないか確かめるように、丁寧に。他に人の姿もなく、先輩と先輩の影だけが新刊図書の上に懸かっている。その影は本棚に負けないくらい姿勢がよかった。
 私はしばらくの間ためらっていたものの、このまま怯えているだけではどうにもならないと意を決し、進み出た。どんな風に声を掛けようか頭の中で捏ね繰り回しながら新刊コーナーへ、先輩の傍へ近づいていく。――お邪魔してすみません、すぐ済みますから、本を取らせてもらってもいいでしょうか? とか。とにもかくにも謝罪から切り出すことだけは決めていた。そうこうしている間にも近づいてくる、先輩の立つ位置まであと五歩、四歩、そっと深呼吸してから三歩、
「……あっ」
 謝罪よりも先に声が出た。
 鳴海先輩と、目が合ったからだ。
 私の足音に気付いたのだろう、先輩は手に取っていた本からやおら目を上げるとすぐ近くまで来ていた私を見下ろし、そして声を上げたことに対してか、うろんげな顔をしてみせた。目つきの厳しい人、だった。
「あの……」
 すかさず私は続けようとしたけど、直前まで捏ね繰り回していたはずの言葉はどこかに吹き飛んでしまっていた。慌てて探そうとしてもすぐには出てこず、そのうちに先輩が私の制服の胸元、ネームプレートに視線を留めてから口を開いた。
「柄沢。何か用なのか」
 語調は表情と同じく、不審そうだった。ろくな答えでは許さないと言わんばかりの険しさもあった。私自身、今の態度が不審がられてもしょうがないことはわかっていたから、どうにか急いで、答えた。
「ええと、本を取らせていただきたくて……」
 妙な物言いになった。謝罪もとっさに忘れてしまった。付け加える前に先輩は得心した顔つきになり、新刊図書の棚の前から一歩、身を引いてくれた。私は素早く目当ての本を手に取ると、改めて先輩に頭を下げる。
「ありがとうございました。……お邪魔して、すみません」
 今度はお礼も謝罪も言えた。
「ああ」
 先輩は軽く頷くと、手にしていた本を携えて棚の前から離れる。向かったのは恐らく貸し出しカウンターだろう。このまま行けばカウンターでもかち合うことになりそうだ。
 さっきよりは早く、意を決したつもりだった。
 私は再び歩き出す。自分でも良くわからない使命感に押されて、先輩の背中を追おうとした。だけど鳴海先輩は思った以上に歩くのが速く、私がカウンターに辿り着いた時はもう貸し出しの手続きを終え、立ち去ろうとするところだった。呼びかけるのに一瞬ためらったせいで、先輩はあっさりと私の横をすり抜けていく。長い影が廊下に消えてしまうまで、こちらには目もくれなかった。
 結局、何も言えなかった。チャンスだと思ったのに。せっかく、鳴海先輩の作品を読ませてもらったこと、今日こそは告げられると思っていたのに。

 私は鳴海先輩の文章が好きだ。先輩のことを怖いとか、苦手だと思うのとは別の次元で、先輩の書くものに強く引き込まれている。硬質な文体が綴る言葉は刃物のように切れ味鋭く、それでいて凛としてとても美しい。こんなに美しく感性豊かな文章を、あの無愛想な人が書いているという事実が、最初のうちはなかなか結びつかなかった。
 文芸部の他の先輩たちは、鳴海先輩を冷たい人だと評する。自分の才能を信じていて、それゆえに才能のない他人を見下すそぶりのある先輩は、およそ社交的とは言えない性格をしている。皆、鳴海先輩のいないところでは容赦なく陰口を叩くし、先輩がいればいたで卑屈な態度を取ったり、私のようにびくびくしてみせたりする。私は陰口に加担しようとは思わなかったけど、部にたった一人の一年生部員では、他の先輩たちに面と向かって異を唱えることも、咎めることだって出来はしなかった。
 多分、罪悪感もあるのだろう。私が先輩に、先輩の書くものが好きだと伝えたい理由の根底には。皆の言葉を否定出来ない代わりに、けれど私はあなたの文章が好きです、と言いたくなっただけなのだろう。そういう態度は他の人たちと同じく卑屈以外の何物でもないはずだけど、それでも私はどうしても、一度くらいは告げておきたいと考えていた。そのくせ、数少ない機会ではいつも、さっきのようにためらった挙句タイミングを逃してしまう。

 なのに今日は、奇妙なめぐりあわせだった。
 本を借りて、図書室の隣にある文芸部の部室へ戻れば、いたのは鳴海先輩一人だけだった。ドアを開けた途端にがらんとした室内が見えて、心臓が嫌な音を立てる。
「どうした」
 読書中の先輩が目の端でこちらを見る。眉間に皺を寄せているから、私の驚きようが心外だったのかもしれない。
「いいえ、何でも……」
 口の中で答えた私は、ひとまず部室のドアを閉める。放課後、ここに鞄を置き、図書室へ足を運ぶまでは他の先輩たちもいたはずだった。皆はもう帰ったのだろうか。私は鳴海先輩の座る席から距離を置いて椅子を引き、まごまごしながらも腰を下ろす。先輩はその間に本へ目を戻し、特に私を気に掛ける様子はなかった。
 ただ、私が着席した時には口を開いて、
「他の連中は帰った」
 と、短く言った。
 こちらはもう見ていない。反応を確かめるそぶりすらなかった。
「……そう、なんですか」
 一応返事をしながらも、内心では戸惑っていた。まだ五時前だと言うのに、皆、帰るのが早過ぎやしないだろうか。まさか鳴海先輩がいるから早く帰ったという訳ではないだろうけど――なくはない、のかもしれない。
 ともあれ、これはチャンスだ。鳴海先輩と二人きりになる機会はそうあるものではないし、まして部室でとなれば作品の話を切り出したって不自然でもないはず。私はそう考えて、図書室の時よりも素早く決断し、深呼吸も早めに済ませた。
 そして、
「あの」
 切り出した時、先輩が本のページを繰った。
「帰るのか?」
 顔も上げずに尋ねられ、一瞬、何を聞かれたのかわからなくなる。呆気に取られていれば先輩は続けて曰く、
「帰るなら黙って帰っていい。施錠は俺がやる」
「いえ、そういう訳では……まだ読みたい本もありますし、私――」
 訳もわからず、ただほんの少し傷ついた。私のたどたどしい説明に先輩は興味すらないようで、そうか、と短く応じてくれただけだった。
 今のは、帰れという意味だったんだろうか。
 それとも。
 どうにかして気持ちを立ち直らせつつ、私は視線をこっそり上げる。借りてきたばかりの本越しに先輩の姿を眺めてみる。読書に耽る表情はよく見えず、椅子に座っていても姿勢のいい人だった。それから、指がきれい。すらっとしていてとても器用そうに見える。この指が綴る文章は、確かに美しく輝くだろう。
 正直なところ、私は鳴海先輩を同じ文芸部員だとか、あるいは同じ高校生だという風には見られなかった。もっと遠くにいる人みたいに映る。制服が似合わないという訳ではないのだろうけど、もっと大人びた服装をしていても違和感がないような気がした。かと言って、大人だというのとは少し違うようにも思う。印象的と一言で片付けるのは容易いけれど、それだけでもないはずだった。
「先輩」
 呼びかけはどうしても、控えめに見積もっても『恐々』としか表現出来ない声音になった。
 鳴海先輩が音もなく面を上げる。すっと眉を顰める。
「何だ?」
 聞き返す言葉に愛想はない。睨まれてもいた。私は慌てて目を逸らしつつ、ずっと言いたかったことを切り出してみる。
「その……昨年度の部誌を拝読したんです。先輩の書かれた短編、すごく、素敵でした」
 素敵、と口にした時、場違いに照れたくなった。もっとも本当に場違いだから堪えて、机の木目を見据えながら続ける。
「とても美しい文章だと思いました。言葉の使い方が丁寧で、表現もすごく巧みで、情景が目に浮かぶようでした。とても印象深いお話でした」
 伝えたいことの半分も言えていないような感想になったけど、それでも伝えたかった。私は先輩の文章が好きです、そう受け取ってもらえたらいいと願った。
 だけど、
「気に入ったならよかった」
 他人事のように、先輩は言った。あとは関心の失せたようにページを繰る音がしばらく響き、私は語を継ぐタイミングを逸した。
 予想だにしなかった反応、だった。
 それは、先輩のような人が私の感想くらいで大喜びしてくれるとは思っていなかったけど、だとしてもいくらかは好意的に受け止めてくれるのではと、そう願っていた。だけど先輩は、多分、私の感想が気に入らなかったようだ。お世辞のように聞こえたのだろうか。それとも誉め言葉なんて貰い慣れていて、私の拙い言葉遣いでは誉めたように聞こえなかったのだろうか。あるいは、名前も覚えていなかったような一年生部員の言うことなんて、本当に興味もないのだろうか。ちっともわからなかった。

 その日は午後六時前に学校を出た。先輩は自分で施錠をするからと言って私を先に帰し、私は一人きり生徒玄関で靴を履き替え、やはり一人で校門をくぐった。また先輩とかち合ったらどうしようかと思っていたけど、それは杞憂に過ぎなかった。
 電車通学の私は駅までの道も一人で辿るしかなく、秋に入ると下校時の薄暗さが気になるようになった。道の向こうに駅の明かりが見えてくると無性にほっとした。それなら暗くなる前に帰ればよかったのだろうけど、今日は特に、早く帰る気にはなれなかった。先輩に、他の人たちと同じようには見て欲しくなかったから。
 鳴海先輩はどうやって通学しているのか、そういえば知らなかった。暗い道を歩いて帰ったのだろうか。自転車に乗る姿は想像出来ない。もし電車通学なら、この駅の中にいたりするのだろうか――そもそも私は、あの先輩のことをほとんど何も知らない。先輩を、作品や文章を通して見ているだけで、先輩自身のことについては知る術もなかった。知りたいのかどうかも今はわからない。
 ただあの時、どう言えばよかったのかは知りたかった。
 どんな言葉なら、私の思いが先輩に伝わるだろう。
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