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23日、閉じ込めたい衝動(2)

 午後六時半。駅前には十五分前に現れた先輩と落ち合い、コンサート会場へ向かう。
 朝の電話で聞いた通り、日が落ちてから雪がちらつき始めた。厚手のコートを着てきて正解だった、と思う。上手くすれば明日はホワイトクリスマスになるかもしれない。
「雪か……」
 隣を早足で歩く鳴海先輩がぽつりと呟いた。
 横目で見ると、街明かりに染められた雪雲を見上げる顔がどことなく物憂げだった。
 私もつられて空を仰ぐ。
「積もるといいですね」
「良くない」
 即座に先輩は、深々と溜息をついてみせた。
「明日は大学に行く用事がある。雪が積もると億劫だ」
「……そうなんですか」
 情緒よりも現実が優先されたことに、私は僅かに落胆する。
 とは言え、鳴海先輩にはわからないんだろう。クリスマスに雪が降ることの素晴らしさは、クリスマスを楽しめる人にしかわからないに違いない。だからきっと、明日の私にもホワイトクリスマスを喜ぶ気持ちはないはずだ。

 先輩の道案内で辿り着いたのは、市民会館だった。
 ジャズコンサートと聞いて私は、もう少しこじんまりとした規模のものを想定していた。二千人を収容出来ると言う大ホールにて、階段状にずらりと居並ぶ座席から、チケットに記された番号を捜し当てた時には一種の驚きさえ感じた。
 広いステージを眼下に見遣る、ほとんど最後部の列。その中央辺りが私たちの席だった。
「大規模なコンサートなんですね」
 コートを脱ぎながら率直な感想を述べると、
「うちの大学の吹奏楽部は有名らしい。毎年クリスマス辺りにはコンサートを開いていると聞いた」
 そう言いながら、鳴海先輩はステージの方向へ目を眇めている。ステージには、まだ幕が下りたままだ。
 私は先に席に着き、受付で手渡されたプログラムを開いた。確かに、『楽団員紹介』のページには相当数の部員の名が連ねられていて、部自体の規模もかなり大きいのだとわかる。吹奏楽部の規模はどのくらいが標準なのかは知らないけれど、ともかくうちの文芸部とは比較対象にもならない。
「先輩のお友達はどちらのパートなんですか?」
「オーボエだ」
 即答を受けて、木管パートのページへ辿る。
 オーボエ奏者はひとりだけだった。一年生の大槻、と言う男性。モノクロ写真の中でにこやかに笑んでいる、やや小柄な青年だった。
 人懐っこそうな顔をしたその人を見て、私は意外に思う。
 先輩がチケットを無理やり買わされる相手にしては、威圧感がないと言うか、何と言うか。鳴海先輩のような人なら、むしろ物腰の柔らかそうな人にこそ弱いのかもしれない。どんな風に普段接しているのかを見てみたい気がした。同年代の人と接する鳴海先輩は、私にはなかなか想像がつかない。
 高校時代の先輩は、文芸部でも近寄り難い人と言われていた。特別親しい友人がいたと言う話も聞かなかった。私たちは、先輩が高校を卒業する直前に付き合い始めた。その頃は私にさえ頑なだった先輩の背後に、交友関係を垣間見る機会は全くと言っていいほどなかった。

 視線を上げて、左隣の鳴海先輩を盗み見る。
 まだ腰も下ろさずにいた先輩は、ようやくコートを脱いだところだった。それを几帳面に畳んだところで、ふと動きを止めた。
 眉間に皺を寄せた表情。
 遠くに、何かを見つけたようだ。
 私が先輩の目線の先を追う前に、通路を早足で近付いて来る人の姿に気付く。タキシード姿の小柄な男性。こちらに向かって、笑顔でやってきた。
「あ、来てたんだ!」
 弾む声の青年には見覚えがあった。さっき、『楽団員紹介』のページで見かけた。――この人だ、オーボエの大槻さん。
「大槻」
 鳴海先輩が低い声で名前を呼んだ時、大槻さんは私たちの座席のすぐ傍まで来ていて、まだ空席が目立つ列に滑り込んで来た。
「来てくれてありがとう。鳴海のことだから、チケットでメモ用紙でも作っちゃうんじゃないかと思ってたけど」
 早口でまくし立てたその人に、鳴海先輩は何か答えようとして口を開きかけた。
 だけどその前に、大槻さんは首を傾け、先輩越しに私を見て来た。目が合う。
「もしかして、雛子ちゃん?」
「――え、はい、あの」
 名前を呼ばれるとは思わず、驚く。慌てて座席から立ち上がると、大槻さんはにこやかに――けれどびっくりするほど早口で続けた。
「話はいつも彼から聞いてるよ。あ、俺、鳴海くんのお友達で同期の大槻って言います」
「は、はい、あの……」
「いや、一度会ってみたいと思ってたんだ。鳴海の彼女なんて一体どんな子なんだろうって、話で聞くだけじゃ全く想像もつかないからさ。会ってみて、やっぱ聞いてたのとは全然違うなって思ったけど」
「そ、そうですか……」
 私は何とかして一言ご挨拶を、と思っていたにもかかわらず、大槻さんの話すスピードについて行けず、口を挟めずにいた。
 それは鳴海先輩も同じことのようで、明らかに何か言いたげな顔をしていたけれど、結局何も言えないようだ。なるほど、こんな風にチケットを『買わされた』んだろうな、とこっそり思う。
 呆然としていれば、大槻さんは鳴海先輩に目を向けて、
「何で嘘つくかなあ。聞いてたよりずっと可愛い子じゃないの。いかにも女子高生って感じのさ。何、正直に言ったら俺に取られるとでも思った? 心配性だなーもう」
 と言うものだから――私は更に驚き、先輩がうんざりした顔をするのを見ていた。
「余計なことを言うな、大槻」
「だって、こんな可愛い子だとは聞いてなかったし。いいね女子高生、擦れてなくてフレッシュで初々しくて。鳴海と並んでると犯罪の匂いさえするね」
「どういう意味だ。たった二つしか違わない」
「二つ違いには見えないよ。老け顔の彼氏が隣にいると、ねえ?」
 睨む先輩を意に介さず笑い掛けて来る大槻さん。

 だけど私は、俄かに着てきたワンピースの色合いが気になり始めた。
 今まで気にしたこともなかったけれど、先輩と並んで歩くには、ピンクは子どもっぽかっただろうか。せめてモノトーンにするんだった。髪型だって、二つ結びは幼いような気がする。
 そう言えば会場内には華やかな格好の女性が多く目に付いた。パンツスーツやツーピースの色鮮やかな装い。私よりもずっと年上の人ばかりに見える、きっと大学生ばかりなのだろう。
 大槻さんも鳴海先輩も、皆私より年上だ。同い年の人と話す先輩は、どこか感情的な口調をしていた。普段もこんな風に話しているんだろうなと思うと、何故か心がざわめいた。
 だって、知らない。私は知らない。私のことを人に話す先輩の顔も、チケットを買わされてしまう先輩の顔も、見たこともなければ想像もつかない。全く知らない。

「今度四人で会おうよ、三井も呼んでさ、じっくり馴れ初め話辺りから聞きたいな」
「誰が行くか」
 むっつりと不機嫌そうに鳴海先輩は応じ、大槻さんは思い切り噴き出した後で、
「じゃあ、お兄さんはそろそろ行くね。雛子ちゃん、楽しんでって」
 私に手を振りながらその場を立ち去った。
 タキシードの後ろ姿は小柄なのに、やけに大きく見えてしまった。

 鳴海先輩が大きく溜息をついたのは、しばらく経ってからだった。
「うるさい奴だ」
 呻くように呟いた後、ちらと私に目を向けて、
「大槻の言ったことは気にするな。聞かなかったことにしろ」
 と言ったけれど、私はこう応じるしかない。
「無理です」
 いろんな意味で、無理だ。
 それで先輩は更に不機嫌そうに黙り込んでしまい、気に掛かったいろいろなことを尋ねる機会は先延ばしとなってしまった。
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