23日、閉じ込めたい衝動(1)
クリスマスが恋人たちの為の日と認識されるようになって久しい。由来がどうであろうと、テレビや雑誌の情報、そしてクラスメイトたちの噂話が、いやがおうでもクリスマスに向かう心を急き立てる。その日には恋人と会っていなくてはならない、それが普通なのだと決め付ける。
氾濫する聖夜の『常識』。結局は楽しんだ者勝ちで、クリスマスを楽しもうとしている人々を一概に否定するべきではないとわかっている。現に、浮かれる友人たちの顔を見ているのは、それだけならば楽しいと思っていた。
ただ、その常識が誰にでも当て嵌まるものだと思って欲しくないだけだ。
「ヒナはクリスマス、どうするの?」
事あるごとに尋ねて来る友人たちに悪意がないことも知っていたけど、苦笑いだけを返すのも骨の折れることだった。
クリスマスの予定は何もない。
カレンダーは空欄で、日付だけが記されている。
私の彼氏である鳴海先輩は、世俗の流れに沿うような人ではなかった。
暦を意識しないと言うのではなくて、現にお盆には墓参の為帰省したと言っていたし、年末年始も先輩の実家で過ごす予定だと聞いているけれど、世間が浮かれるような華やかなイベントには全くと言っていいほど興味を示さない人だった。当然、クリスマスの予定について話題に上ることもなかった。もしかすると先輩の通う大学は世俗から切り離されているのではないかと思うほど、クリスマスを気にしていない様子だった。
私も賑々しいのが好きな方ではないし人込みに飛び込むのも得意ではなかったので、普段は先輩と過ごす落ち着いた時間が好ましいと思っていた。だけどクリスマスに限っては贅沢にも、幾許かの物寂しさを感じていた。幸せそうな友人たちのクリスマスの予定を聞く度に、羨む気持ちが首を擡げる。
流されているだけだと笑われてしまうかもしれないけど、せっかくお互いに冬休みを迎えるのだし、一緒に過ごそうと思ってくれてもいいのに。別にツリーやイルミネーションを見に行きたい訳じゃない。クリスマスの時間を、心逸らせる華やかさから逃れて、ふたりで過ごせたらそれだけで良かったのに。
いっそ私の方から誘ってしまおうかとも考えた。でも、先輩は興味のないことには酷く冷淡に反応する人だ。クリスマスだから、と理由を言えば鼻で笑われてしまうような気もして、結局切り出せずにいた。
だから、二十三日の朝、鳴海先輩から電話を貰った瞬間はどきりとした。
冬休み初日、空っぽのカレンダーを横目に見ながら、期待半分、でもやっぱり先輩のことだからどうだろう、と諦め半分で携帯電話の受話キーを押す。
「……もしもし」
『おはよう』
先輩の声は、いつも通りだ。電話越しに聞くとより低く聞こえる。
「おはようございます」
私が挨拶を返すと、間を置かずに先輩が言った。
『雛子、今日の夜は暇か?』
「え? はい、いえ、あの、……今日、ですか?」
一瞬にして私の思考は混乱を来した。
思えば私も、氾濫する『常識』に囚われ過ぎていたのかもしれない。先輩が予定を尋ねてきたことと、それが明日明後日ではなく今日、二十三日の予定であったこと、そして時間帯がどうやら夜らしいと言う三点のポイントについて、一番意識すべきなのはどこなのかを考えようとして、遂に訳がわからなくなる。
『そうだ』
動揺する私に対し、当然ながら鳴海先輩は冷静だった。二度言わせるなと言外に告げるニュアンス。
「予定はないです……けど」
ようやく自分を取り戻して答える。
『けど、何だ?』
「いえ、予定はないです。暇です」
『コンサートに行く気はあるか?』
――今度は、携帯を取り落とすところだった。
鳴海先輩がコンサート? 部屋にオーディオどころかCDの一枚も置いていない先輩が、音楽を聴きに行こうとしているなんて。いや、音楽と決まった訳ではないけど、まさか弁論大会や詩の朗読会をコンサートなどと言い換えたりもしないだろう。……多分。
あまりの違和感にうろたえながらも聞き返す。
「コンサートって、何のコンサートですか」
すると電話の向こうで、少しの沈黙があった。
がさがさ言う紙の音の後に先輩が答える。
『クリスマスジャズコンサート……と書いてある』
「先輩、ジャズがお好きなんですか」
鳴海先輩とジャズのコンサート! 違和感は募る一方だ。
もし私が先輩の趣味を知らなかっただけなら、それはそれでショックなことだと思う。
『いや、違う。買わされたんだ』
そこで鳴海先輩が忌々しげな声を上げた。
『大学の知人に吹奏楽をやっている奴がいて、件のコンサートに、チケットのノルマがあったらしい。買え買えとしつこかったから仕方なく買ってやった。だから無理して行くこともないんだが、金を出したものだと思うとメモ用紙にするのも惜しい』
そういうことか、と納得しながら、私は別の疑問を抱く。
鳴海先輩にチケットを売りつけるなんて、随分と剛胆な人もいたものだ。自分に興味のない事柄に関しては、けんもほろろに撥ね付けてしまうのが先輩なのに。先方はそれだけ向こう見ずか、或いは先輩が無下にも出来ない親しい相手だった、と言うことなんだろうか。
考えてみると私は、先輩の大学での交友関係を全く知らなかった。
「私が行っても構わないんですか」
確かめるように尋ねた。
先輩がぶっきらぼうに応じてくる。
『他に誘う相手もいない。強いて問題があるとすれば、帰りが夜遅くになることぐらいだ』
「それは大丈夫ですけど……あの、チケットは」
『心配するな、二枚買わされた。それより行くのか、行かないのかはっきりしてくれ』
急かされたので慌てて、
「じゃあ、ご一緒します」
私は頷く。
ジャズなんて私も明るくはなかったけど、全く興味がない訳でもない。
それに先輩にチケットを売りつけたその人を、是非一度見てみたいと思った。先輩の交友関係を知りたい、と言うのは、彼女として不思議な感情でもないはずだ。
『開演は午後七時半からだ。駅前に六時半集合。……構わないな?』
「はい、わかりました」
告げられた待ち合わせ時刻をカレンダーに書き込む。空っぽだった二十三日の予定が赤いペンで埋められて行く。
『くれぐれも遅れるなよ』
用が済むと鳴海先輩はすぐ電話を切ろうとする。
「あ、ま、待ってください」
すかさず私は呼び止めて、
「あの、何を着て行けばいいんでしょう?」
ジャズのコンサートなんて初めてだ。何を着て行けばいいのか、まるでわからない。
なのに、電話の向こうで先輩は嘆息した。
『……無難な奴にしろ』
「はあ……」
『天気予報では雪が降ると言っていた。保温には気を付けた方がいい』
そういうこととは違うのに、と思っている間に電話は切れてしまった。
家族には『友達とコンサートに出掛ける』と告げた。今日が二十三日だからか、疑われることもなかった。
門限を超過して遅くなる許可を貰った時に、ようやく気付く。
――鳴海先輩に、夜呼び出されたのはこれが初めてだ。