menu

佐藤さんと僕の本質的な変化(2)

 まだケーキは運ばれてこない。
 次は何を話そうか考えてる僕の隣で、佐藤さんは膝の上に載せていた紙袋を開けた。
「そうだ、これね、山口くんにどうかなって思って」
 ここで開けるか、と思ったけど、とりあえず成り行きを見守ることにする。
「お守り。神社でもらってきたんだ」
 佐藤さんが僕に差し出してきたのは、朱色の小さなお守りだった。
 合格祈願、と表面に刺繍されている。
「わざわざ神社まで行ったの?」
 驚いて、思わず聞き返す。
 佐藤さんは微笑みながら頷いた。
「受験、頑張れますようにって」
 その笑顔が寝不足の目に、じんと染みるようだった。
「そうか……ありがとう、うれしいよ。でも寒かっただろ?」
「ううん。よかった、喜んでもらえて」
 喜ぶなんてものじゃない。受け取る時、つい手が震えてしまったほどだ。佐藤さんがそこまで考えてくれてるなんて思わなかった。
 縁起は担がない主義の僕でも、佐藤さんのお守りなら大切にしようと思う。我ながら現金な奴だ。
「佐藤さんのおかげで頑張れそうだよ」
 僕がお守りをバッグにしまおうとすると、佐藤さんが引き止めるように続けた。
「クリスマスプレゼント、まだあるの」
 次に紙袋から取り出されたのは、目薬と絆創膏、それから使い捨てカイロの徳用パックだった。
 正直、クリスマスプレゼントにしてはやけに生活感溢れる品々だ。
「勉強してると目が疲れるでしょ? これ疲れ目にいい目薬なんだって。お店の人に聞いて買ってきたの。それと山口くん、ずっと前に紙で手を切ったことあったよね。あの時のことを思い出して、絆創膏も要るかなあって。あと冬場だから手が悴(|かじか)まないようにカイロもね」
「あ、ありがとう……」
 もちろんうれしい。
 気づかいはすごくうれしいんだけど、クリスマスプレゼントにするような物だろうか。
 というか今日はデートなんだし、うんうん唸りながらわざわざ持ってきてもらうような物でも――いや、うれしいのは本当なんだけど。
「あとね」
 まだあるらしい。佐藤さんが紙袋をごそごそやっている。
 そして取り出されたのは、栄養ドリンクだった。テレビコマーシャルでよく見る一番ポピュラーなやつだ。
「受験生は栄養を取るのも大切だって聞いたんだ」
「佐藤さん、これ、どうして……?」
 さすがに尋ねてしまった僕に、彼女はきょとんとして答える。
「だって、近所のドラッグストアで『受験シーズンセール』してたから。山口くんに贈るなら、やっぱり実用的な物の方がいいかなって」
「そ、そうなんだ。なんか、お金使わせちゃって悪いな」
「ううん、大丈夫。それに山口くんにはお世話になってるもん」
 そう言って、佐藤さんはまた紙袋を探り出す。
 まだ何かあるのか。もう何が出てきても驚かない。
「それとね、これもよかったら」
 彼女が紙袋の口から覗かせたのは、みかんだ。小ぶりなサイズの、皮がつやつや光っているおいしそうなみかん。
「これもセールで買ったの?」
「あ、違うの。これはね、うちのお爺ちゃんが箱で買ってきたの。食べてみたら甘くて美味しかったから、山口くんにもお裾分け。みかん、大丈夫だった?」
 まるで親戚のおばさんみたいなことを言うなとこっそり思った。当然言えない。
 ということは、紙袋に詰まってた小さくて丸い物は全部みかんだったんだな。この分だと相当入ってそうだ。みかんは好きだけど、持ち帰るのは一苦労だろう。
「あれもこれもって思ったら、すっかり重くなっちゃったんだ」
 佐藤さんは首をすくめ、済まなそうに言った。
「ごめんね、持って帰るの大変じゃない?」
「バスだから大丈夫だよ」
 僕は内心を押し隠して答える。
 そう言うしかないじゃないか。これでも佐藤さんは厚意でやってくれてるんだ。好意、だったらもっといいけど。
「もしよかったら山口くんの家まで持っていくけど」
「い、いや、そこまでしなくてもいいよ」
 女の子に家まで送ってもらうのも微妙だ。佐藤さんの気持ちを無駄にしない為にもちゃんと持ち帰らなくては。
 それに、実用的な物の方がありがたいこともある。クリスマスらしさはかけらもないけど。
「山口くんには本当にお世話になったから、お礼がしたかったんだ」
 佐藤さんは微笑んで、コップの水をこくんと一口飲んだ。
 それから、ぽつぽつと続ける。
「もうすぐ卒業しちゃうけど、今年一年すごく楽しかったの。高校での三年間は全部楽しかったけど、三年生になってから――ううん、山口くんと隣の席になってからが、一番楽しかった」
 思い出すような眼差しが、膝の上の紙袋に落ちる。ピンクのリボンも揺れている。
「学校に通うのがこんなに楽しくなるなんて思わなかった」
 うつむいたまま、佐藤さんは吐息のような小さな声で言った。
「だから山口くんにはすごく感謝してるの。ありがとう」
 僕はうれしい気持ちと罪悪感の両方を抱え、その言葉を聞いていた。

 ほんの一年前まで、僕にとっての佐藤さんは興味も持てない女の子だった。
 席替えで隣の席になった時はがっかりした。何かにつけてもたつくからしょっちゅう苛々させられた。話をしてもつまらなくて、早く席替えの日が来ないかとそればかりを思っていた。
 もう少し前から、佐藤さんを好きになれたらよかった。もう少し早く、佐藤さんのことを好きだって認められたらよかった。彼女のことを馬鹿にして、内心せせら笑っていた頃の僕は、だけど佐藤さんよりもずっと鈍感で、気が利かなくて、子供っぽい奴だっただろう。
 今もあまり変わっていないのかもしれない。
 僕は彼女の膝の上の紙袋を見て、数分前の自分を恥じた。
 あの中には彼女の気持ちと、僕にはまるでもったいないくらいの感謝が詰まっている。

 こんな時に言葉が出なくなるのもよくない癖だ。
 僕は深く息をついてから、ようやく感謝を口にした。
「こちらこそありがとう。おかげで、受験も頑張れるよ」
 そうだ、頑張ろう。佐藤さんにここまでしてもらって、受験勉強が手につかないなんて腑(|ふ)抜けたことは言ってられない。
 恋に落ちた瞬間から、いつだって僕を動かし、僕の背を押してくれたのは彼女の言葉だった。縁起も神頼みも信じないけど、彼女の言葉だけは信じていた。
 僕は何でもできる。
 佐藤さんのできないことでも、僕ならできる。
 だから必ずやり遂げよう。全てが終わったら、佐藤さんに笑顔で報告したいから。
「うん、頑張って。私、応援してるから」
 佐藤さんは僕に向かって深く頷いた。
 でもその後で、たしなめるように苦笑する。
「それとね……難しいかもしれないけど、睡眠はちゃんと取ってね。山口くん、ずっと隈できてるよ」
 女の子らしい丸みを帯びた指先が、そっと僕の目元を指した。
「隈? ああ、そうだったかも」
「そうだよ。十二月入ってからずっとだもん、心配になっちゃって」
 気づかなかった。
 いや、慣れっこになっていただけかもしれない。毎日見る鏡の中で、自分が寝不足の顔をしているのが当たり前になっていた。大変なのは僕だけじゃないからってスルーしてきただけだった。
 なのに佐藤さんは僕の変化に気づいた。気づいてくれた。
「……すごく、見ててくれるんだな」
 つぶやくような僕の言葉に、佐藤さんは少しだけ恥ずかしそうに応じる。
「見てるよ。だから、無理はしちゃだめだからね。今日は早く寝て、まず隈を治しちゃおうね」
 全く、佐藤さんには敵わないな。
 今日はいろいろデートプランを考えていたのに。寝不足でも佐藤さんといれば目は覚めるし大丈夫だろうと思っていたのに、これじゃ無理もできそうにない。
 でもその気持ちが本当にうれしくて、僕のことを心配してくれる人がいることが――その人が僕の大好きな女の子だってことが、今は何よりも幸せだった。
 今の僕がすべきことは、無理して彼女を喜ばせたり、いい雰囲気に持っていくことじゃない。
 ちゃんと寝て、元気になって、受験生としてすべきことをする。
 そして佐藤さんの前で、自信をもって笑えるようになることだ。

 気がつけば佐藤さんからはずいぶんたくさんのプレゼントをもらってしまった。
 もちろん僕だって用意はしていた。本当は、渡すのはもっと後にしようと思っていた。ケーキ屋を出てから、もうちょっと静かな場所での方がいいだろうって。
 だけど今は、今しかないと思った。
 ケーキが来てしまう前に、素直になれている今のうちに。

「じゃあ僕も、佐藤さんにプレゼント」
 僕はそう切り出して、自分でラッピングしたオーガンジーバッグを差し出した。クリスマスらしさはない淡いピンクの袋は中身が透けるようになっていて、デジタルオーディオの箱が見えている。
 受け取った佐藤さんも中身に気づき、すぐに驚きの声を上げた。
「こんなに高いものもらえないよ」
「別に高くないよ、僕ののお古だから」
 まだ使えるけど最近はほとんど使ってなかった。スマートフォンひとつあれば音楽も聴けるし、別の機器を持ち歩く必要がなくなってしまったからだ。
 これだけだと安上がりだから、ミュージックカードもつけた。それでも彼女からもらった分を返せているかは怪しい。けど足りないなら、春になったら改めて返せばいい。
 とびきりいい報告と一緒に。
「お下がりで申し訳ないけど、よかったら使ってやって」
 僕が促すと、佐藤さんはプレゼントの袋を胸に抱いた。
「本当にいいの?」
「もちろん。春からの電車通勤で時間掛かるって言ってただろ? 音楽聴きながら通えばちょうどいいよ」
 そう告げると、佐藤さんは少し躊躇した後でぎこちなく頷く。
「じゃあ……もらうね。大切にするから、返して欲しくなったら言って」
「それはないと思うけど」
 僕は笑った。
 それから、早口気味に言い添える。
「でもそれさ、説明書をなくしちゃったんだ」
「そうなんだ」
「再生とか停止は見ればわかると思うけど、わからないことあったらいつでも連絡してくれていいから」
 いつでも。その言葉に力を込めて。
「受験勉強中でも、終わってからでも、……卒業してからでも」
 僕が言った後、佐藤さんはゆっくりと瞬きをした。何を言われたか、時間をかけて噛み締めるみたいに。
 しばらくしてからうれしそうに顔をほころばせ、聞き返してくる。
「卒業してからでもいいの?」
「アフターサービスは万全じゃないと。呼んでくれたらいつでも飛んでいくよ」
「ありがとう、山口くん!」
 佐藤さんは大きく頷き、ピンクのリボンが飛び跳ねた。
 昔ほど鈍感でもなく、気が利かないわけでもない彼女は僕のプレゼントをぎゅっと抱き締めている。それでいて、自分で持ってきた紙袋はまだ膝の上に載せたままだ。
「それ、もらうよ」
 僕が紙袋を指すと、彼女は笑顔のままでかぶりを振る。
「ううん、帰りまでは私が持つから。すごく重いんだよ」
「だったら余計に僕が持つよ。僕にくれたものだろ?」
「うん……じゃあ、辛くなったら言ってね。代わるから」
 こうして佐藤さんの膝から、僕の膝の上へと移動した紙袋は――確かにずしりと重かった。でも彼女からの贈り物だと思えば辛くはなかった。

 ちょうどその時、遅くなったケーキセットが二人分、僕らのところへ運ばれてきた。
 クリスマス期間限定のスペシャルメニューは、ケーキとドリンクの他にジンジャークッキーが添えられている。男の子と女の子を隣同士に並べて、一枚ずつ。
 僕らも隣同士で顔を見合わせ、お互いに笑う。
「ようやく、クリスマスっぽくなったね」
 佐藤さんがそう言うから、僕もこの上なく満ち足りた思いで答えた。
「うん。いいクリスマスイブになった」
 計画も何もあったものじゃないし、当初の目的なんてまるで達成できてない。
 けど、そう思う。いいクリスマスイブになったって思う。

 それはそれはもたついた覚束ないペースだけど、僕らの関係は本質的なところから、確実に変化している。
 いつか――春が来たら、もっと大きく変えてやろうと思っている。
top