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佐藤さんと僕の本質的な変化(1)

 あくびの代わりに大きく息を吸い込んだ。
 たちまち十二月の冷たい空気が肺をいっぱいにして、寝不足の身体に染みわたる。
 僕は何度も深呼吸をしながら、目の前の駅前通りを見張っていた。電飾で飾られたアーケードと葉の落ちた街路樹の下、行き交う人の数はいつになく多い。佐藤さんがやってくるのも必ずあちらの方向だから、人波にもたもた歩く彼女が紛れてしまわないよう、疲れた目を凝らしていた。

 十二月に入ると、僕の受験勉強もいよいよ追い込みの時期を迎えた。
 来月には共通試験が待っている。それは僕に限った話ではなく、クラスの連中もようやく緊張感を持って勉強に向かうようになっていた。先月までは誰かしら『受験勉強の息抜きに遊ばない?』なんてメッセージを回していたものだけど、さすがに最近は誰も遊ぼうなんて言い出さない。みんなが年明け後の本番に向けて必死になっている時期のはずだった。
 でも僕は今日、佐藤さんと約束をしている。
 息抜き、なんていうのは変だろう。彼女と会うのは楽しいけど、同時に緊張だってする。ある意味、入試と同じような気の抜けなさがある。
 受験生なのに、寒波の十二月にわざわざ戸外で人と会うのは軽率だという人もいるだろう。
 だとしても、僕はどうしてもこの日に佐藤さんと会いたかった。
 先月のうちから約束をしていたほどだ。今日ばかりは受験勉強も近づく卒業も忘れて、楽しみたかった。
 今日はクリスマスイブだ。

「山口くーんっ」
 不意に名を呼ばれ、僕は急いで顔を上げる。
 目を凝らしていたのにこれだ。気がつけば駅前通りを歩いてくる佐藤さんの姿が見えていた。僕が手を振ると、彼女は両手に提げていた大きな紙袋を片手に持ち替え、懸命に手を振り返す。
 なんだ、あの紙袋。
 紺のピーコートにデニムのスカート姿の佐藤さんは、重そうな紙袋を手にもたもたとこちらへやってくる。女子は荷物が多いものだというけど、それにしても多すぎやしないか。これからデートなのにこんな大荷物じゃ移動が大変になるだろうに、僕は訝しく思いながら彼女を出迎えた。
「ごめんね、待たせちゃって」
 僕の前に立った佐藤さんは、すっかり息を弾ませていた。
 紙袋をよいしょと抱えると、彼女は上気した頬を緩ませる。
「人出が多くてびっくりしちゃった。さすがクリスマスイブだね」
「そうだね、賑やかだ」
 頷いてはみたものの、僕の関心は彼女の持つ紙袋ひとつに集中していた。
 百貨店の名前が記された袋は近くで見ると、小さな丸いものでふくらみ、はち切れそうなほどだった。
 中身、なんなんだろう。
 そしてこんな大荷物、どうする気なんだろう。
「ところでさ。その紙袋、どうしたの?」
 好奇心には勝てず、僕は単刀直入に尋ねた。
 すると佐藤さんはたちまち得意げに笑い、こう言った。
「ええとね、まだ秘密。後のお楽しみ!」
「ふうん……」
 それならしょうがないと無関心を装いつつ、胸裏には不安が過ぎる。
 まさか、これ全部が僕へのクリスマスプレゼントじゃないよな。
 それなら気持ちはうれしいけど、持って帰るのは大変そうだし、抱えて歩くのだって苦労しそうだ。さすがにこの袋の中身全部がってことはないだろう。いくら佐藤さんでも。
「持ってあげようか」
 尋ねたら、彼女はあわてた様子で早口になる。
「ううん、大丈夫。重いから持つの大変だよ」
「だったら余計に、僕が持った方が……」
「いいの、後のお楽しみだから」
 佐藤さんは意外と頑固だ。
 結局、紙袋は彼女が抱えたまま、僕らは並んで通りを歩き出す。ふうふうと荒い呼吸で一生懸命歩く彼女を横目に、僕はそっと溜息をついた。
 ――この分だとあちこち連れ回すのは無理かな。予定を変更しよう。

 友達と遊ぶ機会がめっきり減ったのと同じように、佐藤さんと二人で会うのも一ヶ月ぶりだった。
 そして次に会えるのはいつになるかわからない。せっかくの冬だ、初日の出を見に行こう、初詣に行こうなんて口実はいくらでもあるけど、その全てに受験生という枷がついて回る。年明け以降に風邪をひいたら試験当日まで引きずる可能性があるから、今日が試験前最後のチャンスと言えた。
 だから計画には万全を期した、はずだった。ケーキを食べに行って、商店街をぶらついて、イルミネーションとツリーを見に歩いて、それから人気のなさそうな公園へ赴いて――とあれこれ考えていたデートプランは、あの紙袋一つにあっさりと打ち砕かれた。全く、なんて破壊力だろう。
 既に息の上がっている佐藤さんをこれ以上疲れさせるわけにもいかない。そしてあれがもし本当に僕へのプレゼントなら、僕の方の体力と気力も考慮しなくてはならない。

 待ち合わせ直後ではあるけど、一息つこうと駅前通りのケーキ屋に入った。
 既にイートインスペースは混み合っていて、カウンター席しか空いていなかった。僕が佐藤さんの隣に腰を下ろすと、彼女はこちらを向いてはにかむ。
「隣の席になるの、久し振りだね」
「そうだね」
 隣同士で顔を見合わせると、意外な距離の近さにどきっとした。目が合うと佐藤さんもそっと睫毛を伏せたから、調子が狂うなと思う。
 ケーキの注文を終えると、佐藤さんはコップの水を一口飲んだ。荷物を入れておくカゴがあるのに例の紙袋は膝の上だ。額の汗を拭き拭き、僕に話し掛けてくる。
「お天気悪くなくてよかったね」
 コートを脱いだ彼女は黒いセーターを着ていた。
 色が白いからか、佐藤さんは案外と黒が似合う。ひとつ結びの髪を束ねているのは見覚えのあるピンクのリボンだ。隣の席からそこまで確かめて、少しうれしくなる。
「本当、寒すぎなくてよかったよ」
 僕がそう応じると、佐藤さんはこちらを向いて少し眉尻を下げた。
「山口くん、あんまり寝てない?」
「ああ、わかる? 遅くまで勉強してて、寝不足でさ」
 昨夜は三時まで起きていた。受験勉強に熱中するあまり、切り上げ時を見失ってしまったからだ。別に今日の約束が楽しみすぎて寝つけなかったというわけじゃない――ちょっとくらいはそういう理由もあっただろうけど。
 それでなくても最近は受験というプレッシャーに呑まれがちで、変に気が急くことが多かった。眠れない夜も寝不足も今日に限った話じゃない。
「受験勉強、大変なんだね」
 佐藤さんは僕を案じてくれているようだ。
 僕も真面目な受験生という体で応じる。
「もちろん楽じゃないよ」
「クラスのみんなも受験モードでしょ? 大変そうだなって思ってたの」
 うちのクラスで進学を希望していないのは彼女だけだった。
 東高校は公立ながら県内では指折りの進学校で、卒業生がそのまま就職してしまうのは珍しい。佐藤さんは地元企業に就職を決めていたから、受験ムード高まるクラスの中でもどこか浮いていた。こればかりは羨ましい浮き方だ。
「佐藤さんこそ、みんなに気をつかわなきゃいけないから大変だろ?」
 僕の言葉に彼女は真剣な顔になり、
「大変ってほどじゃないけど、やっぱり気にしちゃうかな。『落ちる』とか『滑る』とか言わないようにしようと――」
 と、そこまで言ってから大あわてで口を押さえた。
「ご、ごめんね。山口くんの前で言っちゃった……」
「いや、いいよ。僕は気にしないから」
 縁起を担ぐ方ではないので、僕は軽く笑っておいた。そんなものは信じない。
「気をつけなきゃ」
 言い聞かせるように佐藤さんが呟く。
 彼女は彼女でいろいろと大変なんだろうなと思う。仲のいい子たちも受験生だから、ちょっとした会話も気をつかうに違いない。

 クリスマスソングが流れる店内で、サンタ帽をかぶった店員さんが忙しそうに立ち働いている。
 見渡せば注文の品が届いていない客も結構いるようだった。この分だと僕らのケーキが届くのも遅くなるかもしれない。
 佐藤さんも、今は冷たい水が何よりおいしいようだ。きっと少し遅れて届くくらいがちょうどいい。最近あんまり話せていなかったし、これはじっくり話をするいい機会だ。

「受験勉強、進んでる?」
 ようやく汗も引いたらしく、落ち着いた口調で佐藤さんが尋ねてきた。
「まあ、それなりにね」
 僕が曖昧に答えると、感心したように目を輝かせてくれた。
「さすが山口くん。なんでもできちゃうんだね」
「いや、大変じゃないわけでもないけどね」
「でもクラスの中では、山口くんが一番余裕ありそうに見えるよ」
 佐藤さんは言う。
 実際のところはどうか、僕にはよくわからない。外崎も新嶋もいつもどおりのやかましさに見えているし、湯川さんや斉木さんはいつだって元気におしゃべりしている。柄沢さんは落ち着いていて、やっぱりプレッシャーなんてないように映る。ある意味、寝不足という弊害が起きている僕が一番やられているのかもしれない。
 でもそういうところを人には見せたくない。知られたくなかった。
 だから佐藤さんにも、わざと軽く言い返す。
「余裕があるって思ってくれてるなら、普通に連絡くれてもいいのに」
 ここ最近、佐藤さんとはメッセージや電話のやり取りも少なくなっていた。以前は他愛ない用件でも連絡をくれていたし、僕から連絡したら一緒に盛り上がってくれていたのに――もちろん理由はわかっている。嫌われたとか避けられてるとかじゃない、この時期だから遠慮してくれているだけなんだって知っている。でもやっぱり、寂しい。
「え、でも」
 佐藤さんは一度口ごもってから、
「勉強の邪魔しちゃ悪いかなって思って、控えてたの。山口くんは人知れず頑張る人だから、表に出ないところで一生懸命やってるはずだもん」
 確信しているみたいに言い切った。
 佐藤さんの中の僕はずいぶんな優等生みたいだ。それならそう振る舞っておこうと、僕は胸を張っておく。
「一生懸命やってるから大丈夫。むしろ息抜きに話したいなって思うよ」
「お家で携帯いじってて、お母さんに怒られたりしない?」
「うち共働きだから、土日以外はまず平気。勉強の邪魔にもならないから、どうぞ遠慮なく」
「うん、わかった。今までどおりにするね」
 ようやく彼女が頷くと、ピンクのリボンがひらひら揺れた。その度にそちらへ目を奪われる。
 僕の注意がそちらに逸れたのを引き戻すように、佐藤さんの顔が視界を遮った。
「でも、睡眠だけはちゃんと取ってね。目の下、隈ができちゃってるよ」
 隣の席から覗き込まれると、顔までの距離が本当に近い。すぐ目の前で彼女の瞳が心配そうに揺れていて、僕は思わず硬直した。
 息が止まるかと思う一瞬の後、ぎくしゃくと、どうにか視線を逸らす。
「だ、大丈夫だって。眠くなったらちゃんと寝るから」
 僕の反応を、佐藤さんはどう受け止めたんだろう。視界の端でピンクのリボンが揺れ、紙袋ががさごそと音を立てるのも聞こえた。
 それから、どこか安心したようなつぶやきも。
「やっぱり余裕って感じするなあ、山口くん」
「……それほどでもないよ」
 僕よりはずっと、佐藤さんの方が余裕ありげだ。
 寝不足のせいだろうか。今になって心臓がどきどきうるさくなってきた。
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