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佐藤さんの隣

 乗り継いだ二本目の電車は空いていて、僕らは並んで座ることができた。
 空港を出てすぐに乗った電車は、酷い混み様だったから、僕も佐藤さんもお互い離れないようにするので精一杯。二本目に乗り込んだ時は、揃って溜息をついたくらいだ。

 がたごと揺れる電車の中、飛ぶように光が流れていく。
 窓ガラスの向こうは真っ暗な夜の世界。そこに佐藤さんの顔が映っている。少し微笑んでいる口元が見えた気がした。
 僕はずっと黙っていた。言いたいことはたくさんあったけど、素直に告げていいものかどうかわからない。今日はいろんな出来事がありすぎて、頭の中を整理するのが大変だった。
「あのね」
 佐藤さんは不意に口を開いた。
 視線を右隣に動かすと、すぐ横に苦笑いの表情を見つける。
「さっきね、電話してみたの。あの人に」
「え?」
 すかさず彼女はかぶりを振って、
「違うの。『もう待てないから、帰るね』って伝えようと思って」
「……そっか」
「うん。でも、繋がらなかった」
 さりげなく言い放たれた台詞に、少し胸が痛んだ。
 繋がらなかったのか。そうか。
「私ね、ちょっと思ったんだ。もしかしたらあの人、来てたのかもしれない」
 佐藤さんはそう言ったけど、だとしても確かめようがなかった。彼女の不安は解消されず、違う形で吹っ切れてしまった。もう過ぎてしまったことなんだと、その言葉で思う。

 僕は、何も言えなかった。言いようがなかった。
 黙って、隣にいる佐藤さんを見つめていた。
 佐藤さんはくすぐったそうに笑って、視線を足元に落とす。
「山口くんってやっぱり、すごいね」
「何が?」
「何でも。やっぱり、何でもできちゃうんだなあって思って。今日も私のこと、助けてくれたもん」
「いや、それはさ、別に」
 参ったな。僕は気まずさに口を結んだ。佐藤さんが素直に感嘆しているみたいだから、余計に。
「私ね」
 素直な佐藤さんは、子供みたいな口調で続けた。
「ずっと山口くんに憧れてたの。山口くんみたいな人になりたいなあって」
「え……何で?」
 意外な告白にますます面食らう。
「だって山口くんは何でもできちゃうんだもん。それでいて、ちっとも無理してない感じがするし。何でもさらっとやってみせて、すごくいろんなこと真面目に考えてて、優しいのに優しいだけじゃなくて、ちゃんと人に意見もできるの。本当に立派だって思うなあ。私、山口くんみたいになりたかった」
 買い被りすぎだ。僕は照れくさいのを通り越して、笑いたくなった。
 本当はそんなことない。ちっともそんなもんじゃない。そんな立派な奴じゃないんだ、僕は。
「だから本当にね、別世界の人みたいだって思ってたんだよ」
 佐藤さんが実感込めてそう言うから、僕は首を竦めてしまった。
「そんなことないよ。僕は佐藤さんが思うほど特別な人間でもない」
 大体、別世界の人間であるはずがない。
 いつだって隣にいたじゃないか。すぐ隣に。教室でも、今、この電車の中でも。
「それどころか、僕は結構酷い奴じゃないかって思ってるよ」
 僕はふと、そう告げた。
 顔を上げた佐藤さんがびっくりした顔をする。
「どうして? それこそ、そんなことないのに」
「いや、本当にさ。どうでもいい奴のことはこれっぽっちも考えない。どうでもいい奴の為には何もしたくないって、いつも思ってる」
 初めのうちは、佐藤さんのこともそう思ってた。隣の席になって、ちっとも喜べなかった。どうせならもっと可愛くて、話の面白い子がいいななんて罰当たりなことを思っていた。
 それが、いつからだろうか。
 佐藤さんのことを考えるようになって、佐藤さんのことばかり考えるようになって。いつの間にか好きになってた。惹かれていた。
 ちょっと前の僕なら信じられないって言うだろう。クラスの女子の中でも佐藤さんを選ぶなんて、どうしたんだって思うだろう。
 だけど気がつけば恐ろしいスピードで惹きつけられていた。今となっては、佐藤さんの可愛さに気つけなかった以前の僕が、どうかしていたように思える。
「現金だからさ。好きな子の為にしか、動きたくないって思ってるんだ」
 僕は言った。
「本当に好きな子の為に、だけ。そうじゃなかったら今日は、空港になんて行かなかった」
 買い被られているほど、さらっとは言えなかった。
 そのせいなのかどうなのか、佐藤さんは怪訝な顔をしている。
 彼女は元々気が利かないんだ。とろいし、鈍いし。本当は今日言うつもりなんてなかったんだけど、結局はっきり言わされてしまいそうだ。
 いや、せっかくだから、ここは背を押されたと思っておこうか。
 僕は佐藤さんの、瞬きを繰り返す腫れぼったい目を覗き込んで、駄目押しの一言を口にした。
「ずっと黙ってたけど、僕は佐藤さんが好きなんだ」

 佐藤さんが、瞬きを止めた。
 代わりに大きく目を見開いた。
 それからかっと頬を上気させて、口をぽかんと開けて、
「え? 山口くん、何言ってるの?」
 慌てた様子でわざわざ聞き返してくる。
 繰り返し何度も言ってやらないとわかって貰えないんだろうか。噛み砕いて、もっとわかり易く言わないと、佐藤さんには通じないのか。そこまでするのはこっちも気恥ずかしいんだけど、参ったな。本当に。
「佐藤さんが好きだ」
 電車の騒音の合間に、はっきりと言った。
 すぐ隣の彼女と視線がぶつかる。戸惑う表情をされている。こっちだって多分、似たようなものだろうけど。
「本当は今日、邪魔してやろうかとも思ってたんだ。半分はそのつもりで空港に行った。できなかったけど――結局、似たようなことはやっちゃったけど」
「え……でも、そんな。山口くん、本気で?」
 本人がそう確かめてくるんだから、こっちも反応に迷う。
「本気。見えなかった?」
「う、うん……」
 だろうな、と思う。本音を隠すのが癖になってた。押し隠すことだけは、僕はなかなか上手かったんじゃないかと思う。
 とは言え隠し続けるうちに黙っていられなくなったから、これもあまり、立派なことじゃないだろうな。
「でも、山口くん、変だよ」
 佐藤さんは真っ赤になって、困ったような顔をした。
 困ってるのは僕の方なのに。
「変? どうして?」
「だってすごく変わってる。何ていうか釣り合わないし、山口くんみたいな人が……絶対、変。私のこと好きだなんて、そんなの」
「失礼な言い方だな」
 だから僕はぎこちなく笑って、それから静かに言い添えた。
「こういう時はさ、とりあえず黙って頷いて、僕の言うことを全部肯定してくれる方がありがたいんだけど」
 隣に座る佐藤さんが、はっとしたように黙り込む。
 電車が揺れて、ぶつかる肩が強張っていた。
 車内は静かだ。空いている。がたごと揺れる音だけが響いている。

 深呼吸を一度してから、僕は言った。
「佐藤さんが好きなんだ」
「……うん」
 隣で、佐藤さんが頷く。
「別世界の人間じゃないよ。ちゃんと、隣にいるだろ?」
「うん」
 もう一度、頷く。
「だからできればこのまま、好きでいさせてくれないかな」
「うん」
 もう一度。
 あまりに素直な反応だったから、僕も少し笑って、予定になかったことを口にした。
「それと、今すぐじゃなくてもいいから、僕のことを好きになってくれたら、嬉しい」
 今すぐに、と言いたいところだけど、それはいくら何でも無理だろうから、もし叶うならいつかそのうちに。
 佐藤さんの気が向いたらで、いいんだけど。
「うん」
 素直に、佐藤さんは頷いた。
 真剣な顔をして、一番大きな頷きをくれた。

 だけど佐藤さんのことだ。僕の言葉をそのまま受け取って、ただ単に肯定しただけかもしれない。
 何せ、あの佐藤さんだから。
 これからも僕は、彼女の隣にいたいと思う。彼女がぴんと来ていなくても、何度も何度も繰り返し言って、佐藤さんの気持ちをいつか、こちらに向かせたいと思う。僕の方だけを見ていてくれるようにしてみせたいと思う。
 僕に、何でもできるんだと言ってくれたのは佐藤さんだ。
 そのお蔭でちっとも、叶わない気がしていない。
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