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佐藤さんがくれたキャンディ

 とんとん、と右隣から肩を叩かれた。
 そこにいるのが誰だかわかっているから、僕はゆっくり視線を向ける。

 一つ結びの髪と無邪気な笑顔。
 いつもと全く変わりない佐藤さんがそこにいた。
「ね、山口くん。飴食べる?」
 手にしているのは市販のキャンディの袋だ。
 さっき他の子に配っているのをちらっと見た。多分、僕にも分けたがるんだろうなと思っていたら、本当にそうしてきた。佐藤さんはお裾分けが好きだからな。
「いちごミルク味なんだけど、よかったらお裾分け」
 袋の前面に商品名が書いてあるのに、見ればわかりそうなことをわざわざ説明する。
「ありがとう。もらうよ」
 僕は控えめに礼を述べてから手を差し出した。

 それで佐藤さんはキャンディの袋の中に指を入れ、一つ摘んで取り出そうとしたようだ。
 その時、バスががくんと揺れた。
「あっ」
 佐藤さんが摘んだキャンディは、ころんと床の上へ落ちる。
 そのまま転がって僕の足元で止まる。
「ごめん、山口くん」
「いいよ。大丈夫」
 こんなのもいつものことだ。慣れてる。
 それにしても個包装のキャンディでよかった。僕は揺れる中で身を屈め、靴の脇に転げ落ちたキャンディを拾った。
 そして佐藤さんにもう一度、告げる。
「これ、ありがとう」
「あ、だめ。落としたのなんてあげられないよ」
 すかさず佐藤さんはかぶりを振ってきたけど、手にしたキャンディの袋にはまだたくさん入っていて、見た目にも危なっかしかった。全部引っ繰り返されたら堪らない。
 だからいいんだ、と僕は首を振り返した。
「大丈夫だよ、包んであるんだし」
 そして包装のフィルムを剥がし、現れた飴を口に放り込む。
 予想した通りに甘い、いちごミルクの味がした。
「ごめんね。次からは気をつけるから」
 佐藤さんは手を合わせると、笑って背もたれに寄りかかる。
 彼女の座る補助席は、バスが揺れる度にぎしっと軋んで、座り心地がいいようには見えなかった。


 僕らは今、北海道にいる。
 ついに三泊四日の修学旅行がスタートしていた。
 結団式の挨拶を聞き流し、飛行機に乗って空港に降り立ってから、僕らはバスに乗り込んだ。北海道では予想以上の肌寒さに驚きつつ、早くもみんなはこの旅行を楽しんでるようだった。
 佐藤さんも同じだ。さっきから上機嫌でにこにこしたり、はしゃいでみせたり、右隣の女子とくすくす笑い合ったりしている。楽しそうでいいなと思う。

 僕はさすがにはしゃぐ気にはならない。
 子供っぽく見られるのは嫌だから馬鹿みたいに騒ぐつもりはない。北海道の空気も、よく晴れた青空も、それなりに美人のバスガイドさんも、修学旅行のぎちぎちなスケジュールも、全部楽しくはあるけどあえて浮かれるほどのことでもなかった。
 きっと佐藤さんは得な性分だ。
 誰より一番うきうきして、バスに揺られる時間さえ最大限楽しもうとしている。隣の女子との他愛ないお喋りでさえめちゃくちゃ楽しそうだ。きゃあきゃあとはしゃぐ声が聞こえると、僕までつられて笑いそうになるのがちょっと困る。
 そういえば、北海道にいる友達とはその後話ができたのかな。
 偶然でも会えたらいいって、らしくもなくネガティブこと言っていたけど、上手く約束でもできてたらいいのにな。
 詳しくは知らないけど、僕らの住んでるところから北海道までは高校生には遠すぎる距離だ。こんな時でもないと滅多に会えないだろうし、佐藤さんもあんなに会いたがってたんだから。


 不意にマイクの電源が入り、きいんと耳障りな音がした。
『間もなく左手側に時計台が見えます』
 二十代前半と思しき美人のバスガイドさんが、白手袋を填めた手で左側を示す。
 それで僕らは窓の方を一斉に見た。いつの間にかバスはビル街の中に入り込んでいて、ホテルや背の高いビルの立ち並ぶ区域の一角に、写真でだけ見たことがある白い時計台の姿が見えてきた。
「あっ、時計台」
 隣で、佐藤さんが小さく声を上げる。
 そっと横目で窺うと、すぐ横の補助席で、佐藤さんが窓の外の風景を見ようと目を瞠っていた。
 口を開けた表情で、流れてくる景色をじっと見ている。
 どうしてそんなに夢中になれるんだろう。僕にはそこまでの気持ちはない。呆れ半分、感心半分で、ずっと佐藤さんの横顔を盗み見ていた。
『あちらの建物が何年に建てられたか、皆さんはご存知ですか?』
 バスガイドさんがマイク越しに時計台の説明を始めると、皆の顔と視線が正面に戻る。
 佐藤さんも同じようにそちらを向き、真剣な顔で説明を聞いては頷いている。


 何年に建てられたかとか、歴史的建造物だとか、説明されてちゃんと頭に入ってるのかどうかは疑わしい。何せ佐藤さんのことだ。この程度の説明で覚えられるんだったらもっといい成績取ってる。
 でも僕だって同じだ。時計台なんてまるで見てなかったし、説明も聞き流していた。興味はなくもないけど、佐藤さんの顔を見ている方が余程面白かった。
 面白い、なんて言ったら失礼かな。
 でも本当のことだ。見てて飽きないなとつくづく思う。
 学校でもいつも見ているし、別に可愛くもなければ美人でもないのに、不思議だ。

 佐藤さんが、ふとこっちを向いた。
「ね、山口くん」
 教室にいる時よりも距離が近い。
 視線が合ってびっくりする僕には構わず、彼女は小声で囁いた。
「時計台、見たでしょ? 話に聞いた通りだったよね」
 バスガイドさんの説明はまだ続いている。
 だから僕は声に出さず、曖昧に頷いた。
「ちっちゃくて、本当に可愛かったなあ」
 佐藤さんはしみじみと語る。
 案の定、バスガイドさんの話はもう頭に入っていない様子だ。
 だけど思い出には鮮明に残るんだろう。
 いつ建てられたとか、何の為に建てられたとか、そういうことは全く覚えられなくても、時計台がどんな様子でそこに建っていたかは、佐藤さんなら忘れない。そんな気がする。


 僕が覚えているのは佐藤さんの表情だけだ。
 あと、修学旅行のしおりで見た細かいデータと、写真で見た時計台の姿だけだ。佐藤さんの顔が面白くて、景色を見ている暇がなかった。毎日見ているはずなのにどうしてなんだろう。
 口の中で飴が溶けている。
 広がる甘くて優しい味に、もう一つ忘れそうにないことを僕は見つけた。

 いちごミルクの甘さと、見逃した時計台のことと、それから佐藤さんの横顔。
 全部ひとまとめの思い出だった。
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