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佐藤さんが浮かれる理由

 修学旅行は来週だ。
 もう目の前まで迫っていて、そのせいだろうか、クラスの空気もここのところ浮かれ気味だった。
 もちろん、佐藤さんもご多分に漏れず。欠席していたので貰っていなかった『修学旅行のしおり』をようやく先生から受け取って、昼休み中ずっと読み耽っている。
 目を輝かせた横顔を、僕は隣の席で呆れながら観察していた。家に帰ってから読めばいいのに。

 佐藤さんが休んでいる間に、修学旅行の細かなことは全て、滞りなく決まってしまっていた。部屋割りや自由行動の班決めも。それから移動に使うバスや電車の席も。
 聞くところによると、佐藤さんは女子の仲のいい子達と一緒の班になれたようだ。にこにこしながらしおりを眺めている。ページを繰る度に表情を明るくして、いかにも幸せそうだった。
 夢中になっちゃって、まるで小学生みたいだ。子供っぽいのは今に始まったことじゃないけど。
「修学旅行、楽しみだね」
 しおりを見ながら、ふと呟く佐藤さん。
 独り言かな。ちょっと浮かれすぎじゃないだろうか。僕が黙っていると、佐藤さんはなぜかこっちを怪訝そうに見てきた。
「ね、山口くん」
 同意を求める口調で、気づいた。話しかけてきたつもりだったらしい。
 てっきりしおりに夢中で、隣の席にいる僕のことなんか気にかけてもいないと思っていたのに。
 もしかして、ずっと観察していたこともばれているだろうか。別におかしな目で見てたつもりもなかったけど、焦りながら答える。
「そうだね」
「だよね」
 佐藤さんは一つ、頷いて、
「北海道って行ったことないから、すっごく楽しみ。素敵なところなんだろうなあ」
 うっとりした表情で旅行先に思いを馳せている。
 浮かれたくなる気持ちも、まあ、今回ばかりは多少わからなくもない。僕も北海道は初めてだった。先生の話じゃ、五月の末はまだ肌寒いそうだけど、どんなものなんだろうか。
「友達にね、時計台が可愛いって聞いたんだ」
 佐藤さんがうきうきと言ったのを、今度は僕が怪訝に思った。
「可愛い……? 時計台って、札幌の、だよね」
 テレビや雑誌でしか見たことないけど、可愛いって感じはしなかった。むしろ立派にそびえ立ってるように見えたけど、あれのどこが可愛いっていうんだろう。
 疑問を抱く僕に、佐藤さんはちょっと微笑みながら教えてくれた。
「あのね、時計台ってビル街の中に建ってるんだって。知ってた?」
「へえ、知らなかった。自然の中にあるんじゃないんだ」
 僕の北海道のイメージは牧場と牛と羊。だから時計台も、そういう中に建ってるんだろうと勝手に思っていた。
「うん。ビルとビルの隙間に建ってて、すごくひっそり、こじんまりとしてるんだって。何か頑張ってる感じがして可愛いよねって、友達と話してたの」
 それは知らなかった。あの時計台は写真なんかで見るとすごく大きな建物に見えたけど、実際はそうでもないのか。ビル街にあるっていうのも何だか意外な気がする。
 ひっそり、こじんまりとした佇まいは、一体どんなふうに見えるんだろう。佐藤さん達の言うように『可愛い』んだろうか。
「その友達にね、他にもいろいろ教えて貰ったの」
 しおりを手にした佐藤さんは、どこか誇らしげに続けた。
「どのお店のアイスが美味しいとか、ラーメンならどこがいいとか、お土産はどこで買うのがいいとか……」
「すごいな。北海道に詳しい子なんだね」
 佐藤さんの友達。クラスの子だろうか?
 僕は素直に感心し、佐藤さんは自分のことのようにはにかむ。
「すごいよね。親切にいろいろ教えてくれて……あ、山口くんにも後で、詳しく教えてあげるね」
「ありがとう。お土産を買う場所は是非聞いときたいな」
「うん。その子、北海道の人だから、いろんなこと詳しいんだ。きっといいお店だと思うよ」
 浮かれた様子で言った佐藤さん。
 そこで僕はまたしても怪訝に思い、聞き返した。
「北海道の人? 友達って、向こうに住んでる子なの?」
「あ、そうなの。北海道の子」
 へえ。佐藤さんには遠く離れたところに友達がいるんだな。ちょっと、驚いた。どうりであれこれ詳しく、佐藤さんに教えてあげられるはずだ。
「じゃあ、自由行動の時に会う約束とかしてるんだ?」
 僕がそう尋ねると、彼女はふっと表情を曇らせた。かぶりを振りながら。
「ううん……それは、無理かな。その子も学校あるし」
「そっか。そういえばそうだよな」
「それに携帯電話持って行けないから、連絡取れないだろうなって」
 修学旅行のしおりによれば、確かに携帯電話は持ってきてはいけないことになっていた。もちろん、どのくらい守る奴がいるもんかって話だけど。僕は持ち物検査を上手く潜り抜けてやるつもりでいる。
 佐藤さんには多分、無理だろうけど――むしろ携帯がなくたってホテルの公衆電話はあるし、連絡の取りようはあるんじゃないか、とも思ったけど、まあいいか。彼女がそう言うからには、そういうものなんだろう。
「でも会えたらいいな、とは思うけど」
 修学旅行のしおりを抱き締めるようにして、佐藤さんがふと声を落とした。
「偶然でも会えたら嬉しい、けど……」
 今度こそ、独り言だろうか。
 僕は戸惑った。佐藤さんの表情に影が落ちていて、どう言葉をかけていいのかわからなかった。
 やっぱり北海道に、友達の住んでいるところへ行くからには、会いたいと思うものなんだろう。でも会えないらしい。何でかははっきりわからないけど、そこまで踏み込んで尋ねてもいいものか、迷った。
 だからこう告げるに留まった。
「会えるといいね」
 告げたのはたったそれだけだ。会えたらいい。事情はよくわからないけどそう思う。佐藤さんの友達が、佐藤さんと会えたらいいと思う。僕に言えるのはそのくらいで、後のことは何も知らない。
 でもそれだけで、ぱっと佐藤さんが顔を上げた。見違えたように明るい顔をして、僕に向かってしっかりと頷く。
「うん。……ありがとう、山口くん」
「いや、別に、何もしてないけど」
「そんなことないよ。山口くんにそう言ってもらうとね、何だか安心できるの」
 佐藤さんは僕を買い被りすぎだ。別に当たり障りない言葉をかけただけで、安心してもらう要素は特にないのに。
 ただ佐藤さんにとって、修学旅行が楽しいものであればと思うくらいで――僕もまた、なんでそんなこと思うんだろう。他人事なのに。存外、僕も浮かれてるのかな。
「ああ、そう……」
 お役に立てたなら、まあ、嬉しいけど。
 曖昧に応じる僕に、佐藤さんは再びにっこり笑顔を取り戻して、言う。
「やっぱり、楽しみだね、修学旅行!」
 声が弾んでいる。うきうきと楽しげだった。
 浮かれているのは構わないけど、修学旅行は来週だ。今の佐藤さんはすぐにでも北海道に飛び立って行ってしまいそうで、何だか危なっかしささえ感じる。
 大体、修学旅行のしおりさえ最後まで読み切ってない様子なのに。

 再びしおりに目を落とした佐藤さんは、やがて或るページで声を上げた。
「山口くん!」
「……何?」
「私と山口くん、隣同士だね!」
 そう口走った佐藤さんの手元に、僕はちらと視線を走らせる。
 修学旅行のしおりの中、バスの座席表が載ったページ。そこで僕と佐藤さんの名前は隣り合って記されていた。
 うちのクラスは女子の方が多い。その都合で女子は何名かが補助席に座ることになっていて、たまたま、偶然にも、佐藤さんの座る補助席の隣に、僕が座ることになった。奇妙な偶然だった。
「バスの中でも隣の席なんて、すごい偶然だね」
 浮かれている佐藤さんが、僕に向かって機嫌よく笑う。
 僕は一緒に浮かれる気にはなれなかったけど、かと言って無関心は装いきれず、結局ちょっと笑って答えておいた。
「本当、偶然だね」
 佐藤さんが喜んでくれているみたいで、僕も嬉しかった、なんて言えない。
 彼女のことは嫌いじゃないから、隣の席になれた時、嬉しかったんだ。今の今まで、ずっと黙っておくくらい、このことを気恥ずかしく思うくらい嬉しかった。
 やっぱり浮かれてるのかな。僕も。
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