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ふたりの自慢

 気がつくと、時計の針は午後六時半を指していた。
 五限が終わったらすぐに帰ろうと思っていたのに。今夜はみゆのほうが帰りが早そうだから、夕食を作って待っていると言っていた。だから僕も早く帰りたかったのに、運悪くサークル長に捕まってどうでもいい立ち話に付き合わされてしまった。
 バスケのサークル長は僕と同じ三年生、悪い奴ではないけど典型的な『話しているうちにあれも、これもと用件を思い出してくる』タイプで、五分くらいのつもりの立ち話が気づくとめちゃくちゃ長くなる。暇なときには楽しい相手だけど急いでるときにやられるとたまらない。
「悪いんだけど、家で彼女が待ってるから……」
 僕が話を切り上げようとすると、あからさまに『自慢かよ』って顔をされた。
 自慢されたくないなら手短に済ませればいいのにな。僕の日々の生活について話したら、全てにおいてその気はなくても自慢になってしまうってことを、いい加減みんなも理解してほしいものだ。

 ともかく奴を振り切った後、大学構内を早足で通り抜けながら僕は彼女に電話をかける。
「遅くなってごめん、これから帰るよ」
『気にしないで! カレーできてるよ』
 開口一番そう言った、みゆの声はどことなく得意げだった。きっとおいしいカレーになったんだろう。
 五限の終わり頃からすきっ腹を抱えていた僕は、ますます気持ちを逸らせる。
「急いで帰るから。何か買ってくものある?」
『ううん、ないよ。気をつけて帰ってきてね』
 みゆがそんな言葉をかけてくれて、胸の奥がほんのりと温かくなった。
 家に帰ったらこんなに優しい彼女が待っててくれる――これが自慢にならないはずがない。彼女持ちで同棲している大学生なんて日本国内でもそう珍しくはないだろうけど、みゆと一緒に暮らしているのは世界で唯一、僕だけだ。僕はそのことを誇りにも、幸福にも思っている。
『近くまで来たら教えて、鍵を開けておくから』
「わかった、連絡するよ」
 そんなやり取りの後、僕は電話を切ってすぐ家路に着いた。

 日が沈み切った、春の終わりの午後七時前。
 この時間帯に住宅街を歩くとあちらこちらからいい匂いがして、すきっ腹にいよいよ大ダメージを食らう。どこのお宅でも夕飯時なんだろう。こっくりとした醤油の煮物のような匂い、こんがり香ばしい焼き魚の匂い、炊き立てのご飯の匂いなど、なんとなく嗅ぎ取れてしまう。
 僕は小学生時代からいわゆる鍵っ子だったから、こういう夕飯の匂いには無性にわくわくさせられた。
 両親がランドセルと一緒に買い与えてくれたのが、家の鍵をしまっておくためのケースだったのを覚えている。それでも時々は両親のどちらか、あるいは両方ががんばって早く帰ってきてくれて、僕の家の前にも夕飯のおいしそうな匂いがしていて――そういう時は決まって家の鍵が開いているから、鍵を開けなくて済むのがほんのちょっと、うれしかった。
 まあ高校に上がる頃にはずいぶんと生意気になってしまって、むしろ『うわ、今日早く帰ってるのか』などと思ってしまうこともあったけど、それでも家の鍵を開ける手間が省けるのと、夕飯を自分で用意する必要がないのはありがたかった。
 同棲を始めてからまだ二ヶ月、親からは時々連絡が来る。ふたりとも相変わらず仕事が忙しいようで、でも夫婦仲良くやっているみたいだ。僕のことより彼女がどうしているかを聞きたがるのは、息子に対する信頼のあかしだと思いたい。違うだろうけど。

 やがて道の向こうに僕らの暮らすアパートが見えてくる。
 そろそろ見慣れてきた外観の中、自分の部屋の窓を探し当ててみた。カーテンが閉まったその窓にはほんのり明かりがともっていて、それを見上げる僕はほんのちょっと――いや、すごくうれしくなる。
 駆け出したくなる衝動をこらえ、僕はここから彼女にメッセージを送った。
『もう着くよ』
 それからアパートの外階段を上りはじめると、二階のほうで玄関の鍵が開かれる音がした。同時に外からでもわかるカレーのいい匂いが感じられて、いても立ってもいられなくなる。
 階段を二段飛ばしで駆け上がり、玄関のドアを開けた。
「ただいま!」
「わあっ」
 みゆはまだ玄関にいて、きっとキッチンに戻るところだったんだろう。勢いよく飛び込んできた僕に振り向き、驚きの声を上げた。
「ごめん、驚かせて。急いで帰ってきた」
 僕が詫びると、彼女はしばらくぽかんとした後で、おかしそうに笑いだした。
「すごく急いでくれたんだね、おかえりなさい!」
 玄関内にともる明かりの下、いやに眩しく見えるその笑顔を僕はただただ目に焼きつける。
 世界で唯一の幸せがここにはある。自慢したいわけじゃないのに、自慢になってしまうから困ったものだ。

 それから僕は手を洗い、彼女と共に食卓に着いた。
 ダイニングテーブルに差し向かいで座り、盛りつけられたカレーの皿を前に手を合わせる。
「いただきます」
「いただきまーす」
 彼女が作るカレーはビーフシチューの時と同様に、具材がごろごろと存在感がある。カレーの時は豚肉の角切りを使うのが佐藤家の習わしだそうだ。ルーは市販の甘口だから常に辛さは控えめだけど、僕も辛いのに目がないってほどではないからおいしくいただける。
 スプーンでカレーとご飯を一緒にすくい、急いで口に運ぶ。お腹をすかせた僕が食べはじめた様子を、みゆは自分の手を止めてじっと見つめてきた。
「……おいしい?」
 そして珍しく、僕が感想を言う前にそう尋ねてくる。
 だから僕も急いで答えた。
「すごくおいしいよ、いつもよりさらにおいしく感じる」
「本当? よかった……」
 みゆが胸をなでおろす。
「今日は私一人で作ったから、ちゃんとできてるか心配だったの」
「いつもちゃんと作ってるだろ、僕は少ししか手伝ってない」
 彼女が夕飯を作る時、僕は必要最小限の手助けに留めるようにしてきた。だから自信を持っていいと思うんだけど、みゆは彼女なりに相当の覚悟を背負って今夜のカレーを作ったようだ。
「やっぱり、作るならおいしく作りたいもん」
 彼女はきりりと真面目な表情で語る。
「それに篤史くんはお腹すかせて帰ってくるだろうから、とびきりおいしいカレーを用意しておきたかったの。私が遅くなった時、篤史くんはいつもすごくおいしいものを作っておいてくれるから、ありがとうの気持ちも込めたくて」
 早く帰ったほうがその日の夕飯を作る、というのは二人暮らしを始めるに当たって定めたルールのひとつだった。たいていは僕のほうが早いし、休日も僕が主に作ることが多い。これは単に慣れているからだけど。
 でもそういう当たり前のことを、彼女はちゃんと褒めてくれるし、感謝もしてくれる。
 同じように僕も彼女を褒めて、感謝をしたいと思う。
「今日のカレーは最高の出来だね」
 だから僕はそう言って、さらに続けた。
「僕でもこんなふうには作れないな。味に深みがあって、本当においしいよ」
「そんな、褒めすぎだよ……」
 みゆは自分が言ったことも忘れたように照れて、もじもじしている。
 困ってる様子がかわいくて、もっと照れさせてやろうかなとさえ考えてしまう。
「おいしいごはんをありがとう、みゆ」
 頭を下げて感謝を告げると、彼女はいよいようろたえてみせた。
「あ、ありがとうなんて……こちらこそだよ、篤史くんのほうが私よりがんばってるもん」
「今日は何もしてないよ」
「ううん」
 謙遜でもなく答えた僕に、みゆは大きくかぶりを振る。
「お店の近くまで会いに来てくれたよ」
「あれは僕がしたくてしたことだしさ」
「でも、お店の人たちみんな褒めてたよ。わざわざこっちのほうまで会いに来てくれるなんて素敵だね、優しいねって……」
 そこまで話してから、彼女は何か思い出したように目を伏せた。
 唇にはにかみ笑いを浮かべ、少し小さくなった声でつぶやく。
「だからね、私……自慢なんですって言ったの」
「何が?」
「篤史くん、私の自慢だから」
「自慢の、何?」
 突っ込んで聞いてみたら、みゆはぴくりと面を上げる。
 そして真っ赤な顔をしながらもごもごと続けた。
「だからその、自慢のかれ……えっと、つまり、そういうのだから!」

 この分だと、お店の人たちにもさんざんからかわれたんだろうな。
 こういうところもかわいいのは知ってるけど、僕の自慢の彼女なんだから、ほどほどにしておいてほしいものだ。
 みゆのこういう顔は、なるべくなら僕が独り占めしておきたいし。
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