佐藤さんがいない日々
「佐藤さん、長いわねえ」村上先生が気遣わしげにそう言った。
僕は所在無く視線を、昼休みの廊下に巡らせながら応じる。
「そうですね」
「休んでからどのくらいになるのかしら。もう四日？」
「はい。土日を挟んで、四日目になりますね」
答えながら、釈然としない思いでいる。
先生はどうして僕に、佐藤さんのことを尋ねてきたんだろう。
佐藤さんが学校を休んでいる。
あの、保健室に連れて行ってあげた日以来、季節はずれの風邪をこじらせてずっと寝込んでいるらしい。担任の工藤先生によれば、熱はようやく下がったそうだけど、体力が戻らず、まだ学校へは出て来られないとのこと。皆勤賞はもう完璧に無理だった。
僕はそれ以上のことは知らない。佐藤さんとは連絡を取り合う術もない。メールアドレスも携帯電話の番号も知らないから、彼女がどうしているのかも全くわからなかった。
「いつも元気なのが佐藤さんだものねえ」
と、村上先生は皺の刻まれた痩せた手を、自分の頬に当てて言う。
「あのいい笑顔が見えないと心配よね。山口くんも、そうでしょう」
「ええ、まあ……」
僕は曖昧に頷いた。
そりゃ、心配と言えば確かに心配だ。あの佐藤さんでも風邪を引くのか、と思ったくらいだ。長引いているのは皆勤賞が貰えないとわかって、気が緩んだせいかもしれない。
目の前で具合悪そうにしてた時はさすがに焦ったけど――別に、それは当たり前のことじゃないか。誰だって目の前に体調の悪そうな人がいたら、一瞬慌てるに決まってる。そして多少なりとも心配するに違いない。
僕だって佐藤さんのことは、クラスメイトで隣の席だから心配してるんであって、他に深い意味はない。
なのに担任でもない村上先生は、どうして僕に佐藤さんのことを尋ねてきたんだろう。それも昼休み、わざわざ廊下で呼び止めてまで。
「佐藤さんがいないと寂しいわよねえ」
村上先生は溜息混じりに言った。
溜息をつきたいのはこっちだ。
「先生、次の授業の準備があるんで、教室戻っていいですか」
言葉の端にとげを潜めつつ、僕は先生に告げた。
はっと目を瞠った先生が、
「あら、ごめんなさいね。引き留めたりして」
と、ろくに反省もしていないらしいことを言ってから、ゆっくりと笑む。
「佐藤さんによろしく伝えてくれる？ 先生も佐藤さんが戻ってくるの待ってるから、お大事にって」
「は……」
思わず顔を顰めたくなるのをぐっと堪えた。相手は教師だ。
「伝えたいのはやまやまですけど、僕は佐藤さんと連絡取り合ってるわけじゃないんで」
最低限、礼儀を保って答えた僕の返答に、村上先生はさも意外そうに首を竦めた。
「あら、そうだったの？ 仲がいいようだから、てっきり……」
てっきり、何だっていうんだ。
僕はむっとしながら踵を返す。もっと無礼なことを言ってやってもよかったなと、教室に戻ってから思った。
僕と佐藤さんはあくまでもただのクラスメイトだ。仲良くなんかない。
その証拠に僕は、佐藤さんのことを詳しく知らない。風邪の具合はどうなのか、今はどのくらい快復しているのかも知らない。連絡を取る手段もなかったし、向こうから連絡してきてくれるなんてこともない。あり得ない。
あの日、佐藤さんを保健室に連れて行った日。彼女が熱に浮かされて呟いた、寝言のような言葉の意味さえも知らない。その意味を確かめる方法もない。
知りたいわけじゃないけど。
知らなくたっていいんだ。
現に佐藤さんがいなくたって、僕の日常は平穏に過ぎている。教室の中にぽっかり空席が一つあるだけで、後は何も変わりない。
授業はいつも通り行われている。むしろ指される度に答えに詰まる子がいないから、至ってスムーズに進んでいると言っていい。体育の授業だって順調なんじゃないだろうか。マラソン周回遅れで時間ばかりかかる子がいないからだ。
隣の席が空っぽなだけで、他には何も、変わったことなんてなかった。
寂しいとは、思わなくもない。だけど佐藤さんだけがクラスメイトなわけじゃない。クラスには他にも生徒がいて、仲がいい連中もいて、隣の席に誰もいないってことを気にかけてる暇もないくらいだった。
なのに、どうしてだろう。
ふと気がつくと僕は、自分の机に頬杖をつき、隣の席に目をやっている。
空っぽの席の主がいつも、授業で指された時に答えに詰まってみせるから、いつでも助け舟を出せるように。
黒板に書かれた先生の字を書き写そうとしてもたつく彼女に、いつでもノートを貸してやれるように。
お菓子を食べる時には僕にお裾分けをしようとしてくれるから、いつでもそれを受け取って、当たり障りのないお礼を言えるように。
それから、時々僕に話しかけてきては突拍子もないことを言い出すから、その言葉を余さず聞き取って、当たり障りなく、だけど彼女にも納得できるように、答える為に。
気がついた時、僕は隣の席に気を配っていた。隣の席を見ていた。進級する前からずっと隣の席にいた佐藤さんのことを、いつの間にか僕は気にするようになっていた。奇妙な習慣がついたものだと思う。
ちらと見た右側、空っぽの席を確かめる度に、何だか胸がざわついた。そこに誰もいないとわかっているくせに、知らず知らず確かめてしまう。そして佐藤さんが学校を休んでることを思い出し、溜息をつきたくなる。気にかけたってどうしようもないのに。連絡の取りようもない彼女のこと、僕が心配したところで、どうなるってわけでもないのに。
だけど僕は最近、もう一つ奇妙な習慣を身につけていた。
それはノートを取る時、難しい漢字に振りがなを振ることだ。
別に彼女の為じゃない、と思っている。だけど、村上先生辺りに尋ねられたらどう誤魔化そうかと考え始めている時点で、勘繰られても仕方がないのかもしれなかった。