佐藤さんが微熱気味
佐藤さんがおとなしい。もう昼休みに入ったというのに、机の上に突っ伏したままでいる。いつもなら真っ先にお弁当箱を取り出し、お昼ご飯を食べ始める頃合いなのに。
他の生徒達はぼちぼち食事を始めている。素早い奴はもう食べ終わって、廊下に飛び出していったところだ。
なのに佐藤さんは机に身を預けたまま。
四時間目の授業が終わる前から、僕が購買部へ行って教室に戻ってくるまで、ずっとこの調子だった。
僕は買ってきたパンを齧りながら、隣の席でほとんど身動ぎもしない彼女の様子を横目で窺っている。
五時間目は体育だ。だから、かな。ぐったりしているのは。
佐藤さん、体育は相変わらず苦手のようだ。今日はマラソンじゃないらしいけど、何なら得意、ってこともなさそうだ。元気がないのも仕方のないことかもしれない。
そういえばこの間も、こんなふうに元気ないことがあったっけ。あれはゴールデンウィーク前のことだった。あの時は友達のことで悩んでいる様子だったけど、あれは上手く解決したんだろうか。何も言ってこないから、こっちとしても尋ねにくい。別に気になるってほどでもないけど。
ただ、今、身動きもしないでいるのは気にかかった。
昼休みの時間だって無限にあるわけじゃない。ご飯食べないと、体育の授業なんてそれこそ乗り切れないだろう。
まさか寝てるんじゃないよな。四時間目からずっと、起きようともしないけど……ふと気になり、僕はパンの袋を置いて、席を立った。
隣の席の傍に立ち、突っ伏している彼女の顔を覗き込む。
見えたのは真っ赤な頬をした佐藤さんの顔だった。伏し目がちにした瞼が微かに震えていた。唇の隙間から漏れる呼吸が忙しなく、苦しげだ。額には汗も浮かんでいて、前髪が張りついている。全身が力なく机に伏し、本当にぐったりとしている。
ただならぬ様子だった。
「佐藤さん?」
驚きのあまり耳元で呼びかけると、瞼が動いた。
目を開けた彼女は、うつろな視線を向けてくる。
「山口くん……」
「もしかして具合、悪いんじゃない?」
僕は尋ねた。
どう見たってそうだ。熱があるように見えた。
「うん……」
吐息混じりのかすれた声だった。佐藤さんはだるそうに首をもたげて、
「何だかぼうっとするの。さっきから」
「熱があるんだと思うよ」
「そうかもしれない……」
ふらつきながらもようやく身を起こした彼女は、辛そうだった。
僕はきっぱり彼女に告げた。
「保健室に行った方がいいんじゃないかな」
「でも……」
なぜか佐藤さんはためらっている。
「先生に診てもらった方がいいよ。熱がありそうに見える」
僕の勧めにもなかなか首を縦に振らない。
「私、皆勤賞狙ってるから……」
潤んだ目が困り果てた様子で僕を見上げる。
「早退することになったら、皆勤賞って駄目になっちゃうのかな」
「そんなの、どうだっていいだろ」
養護の先生が見たら早退しろと言うだろう。そのくらい体調が悪そうだ。
でも、皆勤賞が何だ。そんなもの何の足しにもなるわけじゃない。それよりも身体の方が大切じゃないか。
「行こう。僕が付き添うから」
僕は彼女を促した。
まだ気を遣う余裕はあるのか、とっさに佐藤さんはかぶりを振る。
「だ、大丈夫だよ。私一人でも」
「ふらついて、階段から落ちたりしたら困るよ。どうせ暇だし」
「でも、山口くん、保健委員でもないのに……」
佐藤さんに言われて、慌てて僕は教室を見回す羽目になった。
幸い――いや、残念ながら、保健委員の斉木さんは教室にいなかった。委員がいないんじゃ仕方ない、代理の人間が必要だ。
「いいよ。時間はあるから、僕が付き添う」
重ねて告げると、佐藤さんはいかにも申し訳なさそうに頷いた。
「うん……ごめんね、山口くん」
「気にしなくてもいいよ。隣の席なんだから」
だから、佐藤さんの体調を気遣うのも、保健室まで付き添ってあげるのも当然のことだ。珍しいことでもおかしなことでもない。
一階にある保健室まで向かうのに、佐藤さんの足取りは危なっかしかった。
階段でふらついた時は思わず手を伸ばしかけたけど、何とか手すりにしがみついてくれてほっとした。
だけど間の悪いことに、保健室は無人だった。
養護の先生もお昼ご飯を食べに行ったのかもしれない。真っ白なカーテンが仕切る保健室には薬品の匂いだけが漂っていた。
「先生、いないね」
どこかぼんやりしたような佐藤さんの呟きを聞き、僕は溜息をついてカーテンを開けた。中にあるベッドを指差し、彼女に告げる。
「佐藤さん、とりあえず寝てていいよ」
「え、いいの……?」
「大丈夫」
不安げな彼女の表情に、僕は頷く。
本当は勝手にベッドを使っちゃ駄目なんだけど、今は緊急事態だからしょうがない。紛れもない病人がここにいるんだから。
「先生が来るまで僕もここにいるから。で、佐藤さんが具合悪いんだって説明する」
「でも……」
「いいから。辛いんだろ? 無理しない方がいいって」
頑張れないくせに頑張ろうとするから佐藤さんは駄目なんだ。辛い時に無理をしてはいけない。
僕が語気を強めたせいか、少し考え込んでから、彼女はゆっくり頷いた。
「じゃあ、そうする……。ごめんね、山口くん。何から何まで」
「いいってば」
また長々と礼を言われそうな気配がしたから、早めに会話を打ち切った。僕はカーテンの内側に佐藤さんを押し込んで、すぐにカーテンを閉める。
佐藤さんが上履きを脱ぐ音と、ベッドの微かに軋む音、そして布団を被ったらしい音が聞こえた後で、保健室は静まり返る。
廊下の外れにある保健室は、昼休みの騒がしさを遠くに聞くだけで、とても静かだった。
僕はすっかり手持ち無沙汰になって、その場に立ち尽くしつつ、視線を室内に巡らせていた。薬品の納められた棚、スチールの本棚には面白そうな本もない。壁に貼られたポスターには喫煙者の肺の写真が掲載されていて、あまりいい気持ちはしなかった。
漂う薬品の匂いは、どこか気分を落ち着かなくさせる。真っ白な壁とカーテンは午後の日差しを跳ね返し、目に痛いくらいだ。
窓の向こうには春の校庭が広がっている。五月に入り、並木には青々と茂る葉が揺れている。風を入れたら少しはすっとするだろうか。
ふと、僕は思い立ち、その窓際に近寄ろうとした。
「……ん」
その時、声がした。
呻くような声に聞こえて、どきっとする。
「佐藤さん?」
僕はカーテンの向こうに声をかけた。
返事はない。
「佐藤……さん? 具合悪い?」
洗面器のありかを真っ先に確認しておくんだった。そう思いながら再度、呼びかけてみる。
やはり返事はなく、ベッドのスプリングが軋む音だけが聞こえた。
寝言だろうか。でも具合が悪すぎて、返事もできないんだとしたら――いや、でも。寝てるところを覗いたりするのはさすがにまずい。だけど相手は病人だし……何かあったら。
それきり静かになってしまった室内で、僕は少しの間逡巡していた。
だけど、養護の先生が戻ってくる気配もないし、やがて意を決して、カーテンをそっと開けてみた。
真っ白いカーテンに囲まれた空間。佐藤さんの頭が見えた。寝る時も解かないんだろうか、一つ結びの髪をまとめるゴムが見えている。薄い布団はゆっくり上下していて、多分、寝入っているようだ。ここから表情や顔色は窺えない。
「佐藤さん……?」
無性に気まずく思いながら、僕は彼女の名を呼んでみる。
やっぱり返事はなかった。寝てるのか。
じゃあさっきのあれも、寝言だろうか。人騒がせな。
安堵と苛立ちの入り混じった感情に、僕が溜息をつき、カーテンの外へ出て行こうとした。
「待ってたの」
その寝言は、いやにはっきり聞こえてきた。寝言じゃないみたいだった。
僕は思わず足を止め、振り向いた。
頭だけが見えている佐藤さんは、
「私……」
熱に浮かされたような口調で、途切れ途切れに続ける。
「ずっと、待ってたのに……」
縋りつくような声はかすれて、切なげな言葉に聞こえた。
白いカーテンによって隔離された空間で、彼女は、確かにそう言った。
確かに寝言だった。
その証拠に彼女は、直後、すうすうと寝息を立て始めた。
何を言ったのか、誰に言ったのか、どういう意味の言葉なのかも説明しないまま、寝入ってしまった。
誰に呼びかけたのかはわからない。僕じゃないことだけは確かだった。僕には心当たりもないし、佐藤さんを待たせた覚えもない。
佐藤さんは、誰を待っていたって言うんだろう。佐藤さんが熱を出しているのは、その誰かのせいなんだろうか。
直後、保健室には養護の先生が現れて、僕は考えるのを止めてしまった。
佐藤さんはその日、学校を早退した。
皆勤賞はもう貰えないらしい。