隣のあの子と授業中
「――じゃあ、次の段落から、佐藤さん訳して」英語の教師が、隣の席の佐藤さんを指した。
「はい」
佐藤さんは返事こそしっかり答えたものの、席から立ち上がる時に椅子を倒して大きな音を立ててみせた。すぐに椅子を起こしてから、佐藤さんは真っ赤な顔で教科書を持ち上げる。英語の教科書の三十二ページ。彼女の教科書はちゃんとそのページを開いている。なのに文章を読み上げる声は一向に聞こえてこない。
僕はペンを回しながら、横目で彼女を盗み見る。
読み上げようと口を開けた佐藤さんは、しかし一言も声を出せず、眉間に皺を寄せていた。
「佐藤さん？ 五行目からですよ」
教師が容赦なく急かす。
「は、はい」
佐藤さんの声はさっきよりも弱々しい。
教室がざわめき始める。クラスメイトの視線が佐藤さんに向けられているのが空気から伝わって来る。
今の佐藤さんは、椅子を倒した時の比ではないほど真っ赤な顔をしていた。
佐藤さんは勉強が苦手らしい。
英語のみならまだしも、実は全教科苦手なのだと以前恥ずかしそうに打ち明けてくれた。僕としてはそんな秘密を打ち明けられたところでどうしようもないけど、そのうち隣の席にいる以上は必要な情報かもしれないと思い直す羽目になった。
授業で当てられると佐藤さんは必ず詰まってみせる。どの教科でも一度としてすらすら答えられたことはない。その度に授業が滞るから迷惑だ。僕も真面目ぶるつもりはないけど、来年は大学受験を控えてる。落ちこぼれのクラスメイトに足を引っ張られて授業が遅れるようじゃ困るんだ。
だから僕はルーズリーフを差し出す。
佐藤さんが読まされている箇所の和訳文を記した切れ端だ。先生が黒板の方を向いたタイミングを見計らい、佐藤さんの机の上に置いた。
彼女がはっとしてこちらを見て来るから、いいからとっとと答えろと目配せする。
「『わずかながら、コートニーはこの青年に親近感を覚えた。ケストナー卿の屋敷は絢爛豪華という形容がふさわしい。無節操に光り輝く物が好きだという卿の、内装や調度の趣味は決していいとは言えなかったが、それでも掃除で部屋を回るコートニーが感嘆の吐息を零れさせるだけの魅力があった』」
おずおずと佐藤さんが読み上げた。
既に諦めかけていたらしい英語教師は驚いたように目を瞠り、それからにっこり微笑んだ。
「はい、よくできました。座っていいですよ。では、その次の段落を――」
次のクラスメイトが指名されると、佐藤さんは立ち上がった時よりは静かに席に着いた。
僕もほっとして、教科書に視線を戻す。
すると、
「山口くん、山口くん」
隣の席から、潜めた声で名前を呼ばれた。
今度は何だと目を向ければ、はにかむ笑顔の佐藤さんがこっちを見ていた。
「さっきはありがと」
手を合わせてそう言われた。
別に、僕は感謝されたくて教えてやったわけじゃない。お礼を言われる筋合いもない。さっきのはあくまで、単なる同情心からの行動だ。
「大したことじゃないよ」
僕は目を逸らしながら言ったけど、こういう時の佐藤さんはしつこい。
「ううん、すっごく助かっちゃった」
「いや、別に……」
「今度、お礼するからね」
「いいってば」
本当にしつこい。
あんまり気にされても困るんだけどな。親切でやったことでもないんだし。出来の悪いクラスメイトが隣の席だと苦労するなと心底思っている。
僕にお礼をと言うくらいなら日頃から予習復習をきちんとやって、当てられてもちゃんと答えられるようにしてくれた方が――。
「――じゃあ、次から山口くん読んで」
「え？」
突然、英語教師が僕の名前を呼んだ。
僕は慌てて立ち上がったけど、『次』って、どこだ？
教科書を持ち上げて覗き込む。だけど前に当てられた奴がどこまで読んだか、わからない。聞いてなかった。
再び教室がざわめき始め、皆が僕の方を珍しげに見遣る。嫌な注目の集め方だった。それもこれも全て佐藤さんのせいだ。
「どうしたんですか、山口くん。聞いてなかったんですか？」
教師の目が厳しく、僕へと向けられる。
うっと答えに窮した僕は、思わず左隣の席へと視線を投げた。
隣の席の佐藤さんはと言えば、再び手を合わせた。
「……ごめん。私も聞いてなかったの」
佐藤さんが隣の席だと、本当にろくなことがない。