隣のあの子とチョコレート
まだ騒がしい教室の中、ばらばらと何かが零れ落ちる音が聞こえた。左隣の席からだ。何事かと目を向ければ、佐藤さんの机の上に個包装の小さなチョコレートが散らばっていた。よくある、市販の安いやつだった。
零した本人である佐藤さんはと言えば、片手にいくつかのチョコレートを乗せたままのポーズで、しまった、という顔をしている。それから恐る恐るこちらを見て、照れ笑いを向けてきた。
僕は呆れて苦笑を返す。もうすぐ昼休みも終わるっていうのにお菓子なんかばら撒いて、一体何をしているのやら。
「ごめんね、びっくりさせて」
そう言いながら彼女は、チョコを乗せた手に、零れた分を拾い集め始めた。
「いいや、別に」
実際どうでもいい。佐藤さんのやってることなんて僕には関係がない。もたもたと手際が悪いのもいかにも彼女らしい、いつものことだ。
僕は左隣の席の佐藤さんが苦手だった。気が利かなくてとろくて不器用で、話してみても噛み合わなくて。全てにおいて気が合わないし、テンポも合わない。なのに彼女は妙に親しげで、僕はいつも戸惑っている。
「ね、山口くんはチョコレート好き?」
ようやく全てを拾い集めた佐藤さんが、こちらに向かって身を乗り出してきた。
「好きだけど」
僕は彼女と目が合わないように、腕時計を覗き込みながら答える。そろそろ本鈴が鳴る。教科書を出しておかなくては。
「じゃあ、これあげる」
目の端に見えたのは、彼女の掌の上に置かれた先程のお菓子だった。透明なフィルムに包まれた四角いチョコレートが四粒あった。
「これ、どうしたの」
横目の視線のまま、思わず僕は尋ねた。
学校にお菓子を持ってくるなんて、と真面目ぶったことを言うつもりはないけど、それを僕に寄越すなんてどういうつもりだろう。スーパーでも一袋せいぜい二百円台で売り出されているチョコレートに、大した意味はないはずだった。
「さっきね、友達と食べてたんだ。お昼ご飯の後にね」
佐藤さんはうきうきとした口調で言った。
昼休みの最中、教室の片隅でクラスの女子達と楽しそうにしていた、あの時と同じ声のトーンだった。
「で、ちょっと余ったから、山口くんも幾つかどうかなあって」
「……嬉しいけど、いいの? 貰っても」
僕は心にもないことを言いながら教科書を開いた。
嬉しいはずがない。こんなどこにでもありそうな安物のチョコなんて。口の中でもなかなか溶けないような、安いやつだっていうのに。
「いいよ。ほら、山口くんにはいつもお世話になってるし」
彼女からのそんな言葉を、僕は教科書に視線を滑らせながら聞く。興味のない数学の公式は、当然頭に入ってこなかった。
「それに、今日はバレンタインデーだしね」
佐藤さんがおまけみたいに言い添える。
ためらいつつも、僕は視線を上げた。
左隣の席の彼女は人の良さそうな笑顔で、安物のチョコレートを差し出している。
佐藤さんが、今日のことをわずかなりとも意識しているとは思わなかった。バレンタインデーなんて興味もないだろうと思っていた。むしろ、興味を持たずにいて欲しかった。
瞬きの間にも彼女のにこやかな表情は変わらない。僕の、自分でもわかるほどのぎこちなさとはまるで対照的だった。
やがて僕は教科書を閉じて、彼女の掌に手を伸ばす。
さっきの彼女に引けを取らない不器用さでチョコを受け取った。
「ありがとう」
一応の感謝を告げれば、佐藤さんは小さく頷いて、
「どういたしまして。あ、ホワイトデーのお返しは要らないからね」
冗談めかした口調で言う。
「……そう」
僕がちっとも笑えないのに、佐藤さんはにこにこ笑っている。
「うん、気を遣わないで」
先手を打たれてしまった僕はもう何も言えず、手の中にやってきた四粒のチョコに目を落とした。
安物のチョコレートは妙に硬そうで、手のひらの上でも溶ける気配がなかった。
貰ったチョコが溶けないなんて、まるで僕らの関係みたいな気がする。
来月、お返しがしたいと言ったら、彼女はやっぱり笑いながら拒むだろうか。そのくらいならいっそ、バレンタインデーなんて単語を口にして欲しくなかった。
僕は佐藤さんと気が合わない。何から何まで全てにおいて。