三十五センチメートルの距離
三十五センチ。私と木谷くんは、三十五センチも離れている。
クラスで一番背の高い木谷くんは、猫背気味にしていても私からは見上げるほどの距離にいて、隣り合って並んでいる時も木谷くんの顔を見る為には、首をぐんと伸ばさなくてはならない。きっと不格好に違いなかった。
木谷くんが私を見る時も、首を傾げるように見下ろしてくる。何だか首が窮屈そうで、申し訳ない気持ちにさえなる。
だから私は、ふたりでいる時はあまり木谷くんを見なかった。
今みたいに夕方のファーストフード店、混み合う店内の端っこにあるカウンター席に並んでいても、私は木谷くんの方を見ないようにしていた。トレイの上に並んだジュースの紙コップとアップルパイだけを見つめて、騒がしい空気の中でもそもそとそれらを味わっていた。
木谷くんが私を見ているかどうかはわからない。
でも、わざわざ首を動かすのが大変そうだから、そんなにしょっちゅうは見ていないと思う。
その証拠に木谷くんは、ハンバーガーを食べるのがとても速かった。私ができたてのアップルパイに舌を火傷している間に、いつの間にか全部食べ終えてしまっていた。目の端に紙コップを持つ大きな手が見えて、今はジュースを飲んでいるとわかる。
のんびりするふりをして、私を待っていてくれているんだと知っている。
木谷くんは、そういう人だった。
急がなきゃ。なかなか冷めないアップルパイにてこずりながらも、私は出来る限りさっさと食べてしまうことにした。息をふうふう吹きかけて、どうにか食べられるようにして。
アップルパイを食べ終えると、ほっと一息。
氷が溶けて、薄くなってしまったジュースで火傷した舌を冷やしていると、不意に肩を叩かれた。
不格好に首を伸ばして見上げた先、木谷くんが首を傾げていた。
「食べた?」
お店の中が騒がしくてよく聞こえなかったけど、口の動きでそう言ったのだとわかった。
私は頷く。
そしてまた俯く。ジュースももうすぐ飲み終える。きっと随分待たせちゃった、急がなきゃ。
必死でストローを吸っていると、もう一度肩を叩かれた。
もう一度、首を伸ばして見上げた。
木谷くんが何か言った。唇が動いた。
だけど聞こえない。
夕方のファーストフード店は私たちと同じ制服姿のお客さんが多くて、とても賑やかだった。私と木谷くんは他の子たちと比べても、普段から声を張り上げる方ではなかった。
「ごめん、聞こえなかったの」
私は言った。言ったけど、木谷くんには届かなかったみたいだ。
見上げる視界で彼の顔が、怪訝そうなものに変わってしまったから。
三十五センチの距離はとても遠い。
言葉が届かないくらい遠い。
どうしよう、と考えあぐねていれば、木谷くんは眉根を寄せた顔で私の肩に手を置いたまま、身を屈めた。
不意を打って近付く距離。
あ、と声を上げることさえ出来なかった。
木谷くんの髪が、私の頬に触れた。
私の耳にはそれよりも、もっと柔らかなものが微かに触れた。
「もう済んだなら、下げて来るよ」
彼は言った。
「う、うん」
かっと体温が上がり、アップルパイの熱さを思い出した私は、何だか忙しなく頷いた。
空っぽの紙コップをトレイに置くと、木谷くんは素早くそれを持って、自分の分のトレイも手に、お店の入り口にあるゴミ箱の方向へと歩いて行った。
自分で下げると言えば良かった。そう思ったのは、木谷くんの背中を見送った後のこと。カウンター席から滑り降りながら私は少し悔やんだ。
日が落ちるのが、冬よりもずっとゆっくりになった。
放課後にちょっと寄り道をしたって、帰りの道はまだ明るい。
茜色の空が広がる下を、私と木谷くんは隣り合って歩く。
並んで進むスニーカーとローファー。私と木谷くんの歩幅は違うはずなのに、木谷くんは必ず私に合わせて歩いてくれた。木谷くんはそういう人だった。
私は、そんな木谷くんを見て歩けない。三十五センチの身長差がこんな時はとても恨めしかった。せめてもう少し彼に近付けたら、彼の顔を見ながら歩けていたと思うのに。小さい私は不格好にしか見上げられなくて、恥ずかしい。
背が高くなりたい。
木谷くんみたいに高く、なりたい。
高校生になった今となっては叶わない夢かもしれない。成長期らしきものも一応あったみたいだけど、結局三センチくらい伸びただけで止まってしまった。多分もう伸びないとお母さんには言われた。だから余計に悔しかった。
ふと、
「並川さんって、猫舌だったんだ」
木谷くんが呟くように、私の名前を呼んだ。
はっとして視線を上げると、三十五センチメートルの距離を隔てて、木谷くんが私を見ていた。首を傾げた不自然そうな姿勢で、歩きながらも静かに私を見ていた。彼の後ろに、夕日を浴びた住宅街の佇まいが見えていた。
「え、うん」
一度私は返事をして、それから木谷くんの言った言葉を頭の中で整理した。
猫舌なのは本当だった。さっきもアップルパイで手間取った。木谷くんを随分待たせてしまった。
「うん、そう」
私は答えて、それからさっきのことを謝ろうと思った。待たせてごめん。もたもたしててごめん。そう言おうと思った。
だけど私よりも先に木谷くんは言った。
「ずっと見てたんだ。並川さんが食べてるとこ」
「うん……――えっ?」
木谷くんの言葉を整理した途端、遅れて心臓が音を立てた。
見てたの。ずっと? 私が食べてるところを?
「結構大変そうだなあと思って。猫舌の人って、鍋料理とかも大変じゃないか?」
ごく平然と会話を続けようとする木谷くん。
でも、私はそうは行かない。とんでもないことを聞かされてしまった。だってずっと見てたなんて。私がもたもたしてるところを見られていたなんて。
三十五センチも離れているから、きっと見てないだろうと思ってた。
木谷くんが私を見る時は窮屈そうに首を傾げていて、それこそ大変そうに見えたから、きっと私のことなんてそんなに見てないだろう、見ようとしないだろうと思っていた、……のに。
私は慌てて視線を落とした。
急に動きが速くなったローファーの爪先に向かうように、言った。
「き、木谷くん」
「ん?」
「ずっと見てたって、……ほ、本当?」
木谷くんのスニーカーは、ぴたりと私について来た。
「うん」
そしてごく平然と答えられてしまった。
俄然、心臓の動きが速くなる。
私の足も速くなる。
呼吸が苦しくなって、私は吐息混じりの声を立てるしかなくなった。
「ど、どうして」
「ん? 何が?」
「どうして……見てたの」
かすれた声が木谷くんに向かって尋ねた。
すると木谷くんのスニーカーが、その時ほんの少しだけ遅れを取った。
「どうしてって言われてもな」
迷うように聞こえた。
「並川さんが可愛かったから、としか言いようが」
でも、はっきりそう聞こえた。
――私の足が止まった。
地面に吸い付くように、帰り道の途中で止まってしまった。
代わりにまたアップルパイの熱さを思い出す。かっと頬が熱くなる。舌を火傷しそうなほどの熱を持ち始める。
心臓がどきどきとうるさかった。
木谷くんの足も止まってしまったのを、私は上げられない視線の先に認めていた。
「か」
向き合う爪先。
私の上には長い影が落ちている。木谷くんの影だ。猫背気味の、だけどとても長い影。彼がすぐ傍にいるのがわかる。
でも私は俯いたまま、ようやく声を発した。
「か……わいくなんて、ないよ。あの、何て言うか、き、木谷くん、そんなに見てたなんて、わ、わた、私」
言葉になっていなかった。
だって何が言いたいのかさえ、わかってないんだ。
私は可愛くない。それは本当。
でも、木谷くんが私を見ていたと聞いて、嫌だった訳じゃない。ずっと見られていたなら恥ずかしいけど、それが不快だったって訳じゃない。むしろうれしかった。背の高い木谷くんが背の低い私を見下ろすのは大変そうなのに、それでも私を見ていてくれたのなら、すごくうれしいと思った。
私のことを見ていたいと思ってくれたのなら。
「で、でも」
深呼吸も出来ない。
上手く、言えない。
「私、あの、ちっちゃいから。き、木谷くんは背が高いから、私、私を見てるの、大変……じゃない?」
「別に、大変じゃないよ」
木谷くんは、なのに、事もなげに言ってしまう。
「並川さんのこと見てるの、好きだから」
熱過ぎて火傷しそうな言葉をくれる。
私は恥ずかしくて、幸せで、眩暈みたいなものを感じていた。
そして思った。私、木谷くんみたいになりたい。
背が高くなりたいって訳じゃない。それは私には必要のないものだ。木谷くんのいいところは背の高さだけじゃなくて、優しさとか、さりげなく人を気遣える心とか、思っていることを逃げずに伝えてくれようとする勇気だった。私は、そう言った彼の全てに憧れていたし、それに――。
「わ、私っ」
それに、
「私も好き。木谷くんが――」
私は、顔を上げた。
夕焼けの色に照らされた景色の中に、同じ色合いの木谷くんの、きわめて静かな眼差しがあった。
じっと私を見下ろしている。
語を継ごうとして、喉が詰まって、その先が言えなかった。
「えっ?」
木谷くんがぽかんとする。
一瞬遅れて、彼がたちまち頬を上気させるのがわかった。目が泳ぎ出す。冷静さが失われるまで、あっと言う間だった。
「ええと、あの……」
「あ、あの、違うの」
私も気付いて、慌てて言い直す。
「ううん、違うって言うか、あ、あまり違わないんだけど、私、私も木谷くんのこと、見ていられたらなあって思って、でも私、背が低いから」
木谷くんをずっと見ていたい。
首をぐんと伸ばして、見上げていたい。
不格好でもいい。どう見えてたって構わない。私は木谷くんのことが好き。その気持ちは隠しようもないから。
「今度からは、ちゃんと見るようにするっ」
変に跳ね上がる声で私は告げる。
「だから――だから、絶対また誘って。また一緒に、ふたりで寄り道しよう!」
いつになく張り上げた声になった。
視線の三十五センチメートル先。
猫背気味の木谷くんは、真っ赤な顔でちょっと笑った。
笑いながら、でも私を真っ直ぐに見つめて言った。
「うん、そうしよう」
それから木谷くんは私を促し、静かな道を歩き出す。
先に立ったスニーカーの力強い歩みに、ローファーの覚束ない足取りがついて行く。だけど、不安はもうない。
私は足元を見るのを止めて、隣を歩く木谷くんの横顔を時々見上げた。
木谷くんも時々私を見た。そして目が合うとすごく幸せそうな顔をして、笑ってくれた。