マティウス伯爵夫人の日常・平日編(2)
この日は飛び込みの客もいくらかあったが、午後には貸し切りの客が来た。貧民街に店を構えていた頃に夜会用のドレスを仕立てた、ランベルト卿の三人娘だ。
いつぞやと同じように父を伴い現れた三人は、相変わらずの賑々しさでロックの店を華やがせてくれた。
「仕立て屋さん、これを見ていただきたいの!」
ランベルト家の長女が意気揚々と差し出したのは紙の束だ。
そこには帝都周辺でよく見かける野生の花々や虫たちが描かれていた。どれも克明な筆致で、かつ顔料で美しく着色されている。
本物さながらに描かれた絵に驚きつつ、ロックは尋ねた。
「これは、お嬢様が?」
「わたくしたち三人で、よ!」
次女が答え、さらに三女が語を継ぐ。
「近頃はお姉様がたとわたくしとで野がけに行くのが習慣ですの。その時にこうして見つけた花や虫の絵を描くのがとっても楽しくて!」
ランベルト卿が学者でもあることはロックも知っていたが、どうやら三姉妹はその気質を受け継いだようだ。出かけた先で見つけたものの特徴を描き留めては、家で美しい絵に仕上げるのだという。一人では覚えきれない花や虫たちの姿も、三人いれば丹念に記憶することができる。
「これは素晴らしいですね。このまま編纂すればよい図鑑が仕上がりそうです」
ロックの称賛に娘たちは照れた様子で微笑むと、すぐに身を乗り出した。
「それでね、仕立て屋さん。わたくしたちがこれを持ってきたのには理由がありますのよ」
「この花や虫たちのようなドレスを仕立てていただきたいの」
「お姉様がたとわたくしが出会ったものたちをドレスにして、着て歩きたいのです!」
長女は野に咲くアザミの花を、次女はひらひら舞う青い蝶の羽を、三女は岩陰に生える灰色のキノコを、それぞれドレスの意匠にしたいと所望してきた。
花のようなドレスを着たいと望む客は珍しくないが、野の花や草木や虫を身にまといたがるのは珍しい嗜好だ。貴族令嬢としては素朴すぎやしないかと懸念するロックをよそに、ランベルト卿はただただ苦笑している。
「娘たちの望むようにしてやってください。もう最近では私の言うことなど聞かぬのです」
そこで娘たちが口々に反論しだした。
「あら、お父様! わたくしたちは聞く耳を持っていないわけではございません!」
「ただお父様のような立派な学者になりたいだけでございます!」
「わたくしたちはこよなく好むものたちを身に着けたいだけですのよ!」
三人が揃って口を開くと賑々しく、その明るい空気がロックにはなんとも居心地がいい。ランベルトにも異存はないようなので、ロックは客たちが望むがままの意匠を図面に描き、注文を書き留めた。
その様子を、娘たちは実に興味深げに観察してくる。きらきらと輝く眼差しで、それこそ大好きな草花でも眺めるように。
「わたくしたち、将来は学者になりとうございますの」
娘たちはうっとりとロックに語りかける。
「それこそ先程仰ったように、ゆくゆくは三人で草花や虫の図鑑を作りたいと考えておりますのよ」
「お父様はわたくしたちの誰かに婿を取って、家を継いでほしいようですけれど……」
「わたくしたち、花や虫やキノコが好きな殿方でなければ嫌ですの!」
聞けば、帝都でも女の学者というのはそう多くないらしい。学問がまだ富ある者だけに限られている国では無理もない話だろう。
ランベルト卿もまずは家を残すべく婿取りを考えているそうだが、娘たちの決意は固く、彼女らの夫になるには狭き門をくぐらなければいけないようだ。
「妻が学者であることを許してくれる男がどれほどいるものか……」
不安そうなランベルト卿に対し、娘たちはにこにこと顔を見合わせる。
「でもこちらの仕立て屋さんは、職業婦人であることを認めてもらっているでしょう?」
「え、僕?」
急に水を向けられ、ロックは戸惑った。
娘たちはうんうんと首を振る。
「マティウス伯爵夫人はわたくしたちの理想でしてよ!」
「理解ある夫の許しを得て自らの道を突き進む……そういう生き方を所望しておりますの!」
「ねえ仕立て屋さん、どのようにお許しを得たのか、今から助言をくださらない?」
助言と言われても、ロックがこの店についてエベルから許しを得たことはない。彼はロックがどれほど帝都に店を持ちたかったかをよく知ってくれているし、その夢を奪うような真似は決してしないだろう。
それで、正直に答えた。
「閣下が僕の店について口を挟んだことなど一度もございません。結婚にあたって店を続けるのかどうかさえ問われませんでしたし、許すとか認めるとか、そういう段取りは必要ありませんでしたよ」
答えた途端、娘たちは一層瞳を輝かせて沸き上がる。
「素敵! そのお考えが帝都中に浸透すればいいのですわ!」
「わたくしたちもそういう夫なら問題ありませんわね!」
「ほらお父様聞きまして? 閣下のような方をお婿にいたしましょうね!」
そしてランベルト卿は、苦笑の中に温かい愛情をにじませながらつぶやいた。
「まあ、愛娘の夫となる者だ。そのくらい寛大でなければ認められんか……」
採寸を終えた娘たちが父親と共に帰っていった後、ロックとフィービは短い休憩に入った。
次の客が来るまでのわずかな間、お茶を淹れて一息つく。
「相変わらず賑々しいお嬢様がたねえ」
フィービが楽しそうにくすくす笑った。
ロックもうなづく。
「素敵な方々だよ。来てくださるだけで店の中が明るくなるようだ」
「異論ないわね」
「でも、職業婦人か……やっぱり難しいものなのかな」
ロックも、自分の立場がやや特殊であることは理解している。本来なら伯爵夫人とは邸宅に留まり夫の留守を守る者、社交の場でも夫に付き従い内助の功を発揮する者と言われており、その主流から外れるマティウス伯爵夫妻は社交界でも『風変わり』と言われているそうだ。
もっとも平民生まれのロックは大急ぎで作法や教養を学んでいる最中だし、まだ社交の場に出ていけるほどの実力はない。それを許容してくれるエベルが優しい夫であるのは間違いなく、彼のためにももう少し伯爵夫人たる振る舞いを身に着けたいとは思っている。
それはそれとしてこの店はやはり大切だし、できるだけ続けていきたいとも考えていた。
「あんたたちのやり方が主流になったら、ランベルト嬢の望みもたやすく叶うでしょうね」
フィービの言葉に、ロックはお茶の香りを楽しみながら考えた。
外の風が入って来やすい街とは言え、帝都には伝統と格式を重んじる考え方が強く根づいている。それは仕立て屋をやっていてもわかることで、肌を見せたがる流行に眉をひそめ、古風な夜会服を好みたがる貴族たちも未だ多い。長く続いてきたものをひっくり返したり修正したりということは、その善し悪しをさておいても容易なことではない。
「なるかなあ」
ロックは笑ったが、意外にもフィービは笑わなかった。
「わからないわよ。あんたを見て、職業婦人になりたいってお嬢さんが現れたくらいだもの。そのうちあんたを見習ってやるってお嬢さんが現れてもおかしくないわ」
それはそれで少々面映ゆい気もするのだが、さておきそういうお嬢さんが現れたなら、ロックとて全力で応援する所存ではある。自分の夢を叶えたいという気持ちはとてもよくわかるからだ。
「さて、そろそろ休憩おしまいかしらね」
いち早くお茶を飲み干したフィービが、すっくと立ち上がる。
それからふと思い出した様子で、ポケットから何かを取り出した。
「そうだ、これ。あんたのでしょう?」
手渡されたのは手紙のようだ。蠟で封がしてあって、宛名には確かに『ロクシー・フロリア・マティウス様』とある。
「僕宛てみたいだね」
「だめよ、こういうものを店に置きっ放しにしちゃ。金目の物が入ってたらどうするの」
フィービは軽くたしなめてきた。
だがその手紙に、ロックは見覚えがない。
「僕、今初めて見たんだけど」
「え? だって、カウンターに置いてあったわよ」
「受け取ってないなあ。配達人、来ていったっけ?」
「それは――あたしも見てないけど……」
一瞬口ごもったフィービにも心当たりはないようだ。
よくよく見ればその手紙は最近認められたものではないらしく、封筒には長旅でもしてきたような汚れと、湿気を吸って乾いた後の皺が窺えた。差出人の名前はなかったが、紙の上質さからしても高貴な方からの手紙ではないかと思う。
心当たりが、ロックにはあった。
「……読んでみるよ」
手紙を見つめる顔を見て、フィービが静かに顎を引く。
「今すぐの方がいいわね。先に入って店開けとくから、後からゆっくり来なさい」
「ありがとう」
手紙には、教養を感じる美しい字でこう書かれていた。
『我が友 ロクシー
わたくしが北方へ旅立ち、あなたとお別れしてからもう一年になりますね。
あなたが息災であること、そしてマティウス伯と結婚したということは兄ヴァレッドから聞きました。
あなたの仕立て屋がとても繁盛していることも。我が事のようにうれしく思います。
兄はわたくしに語り聞かせるためという名目で、よくあなたの店を訪ねているようです。
あなたには気取られぬようにしていると言っていますから、きっと覚えてはいないでしょう。でもただ覗きに行くだけでは失礼ですから、何か買うべきだとわたくしが言ったので、そのうち客としても現れるはずです。もし記憶にない注文書があったとしても、驚かないでくださいね。
本当はわたくしもあなたの新しいお店に行ってみたいのですが、あいにくそれは叶わぬことです。
ですから兄をわたくしの代理と思い、その来訪を許してもらえたら幸いです。
北方での暮らしはとても穏やかで、順調です。
帝都のお城で育ったわたくしにとって、雪積もる土地での日々は驚きの連続でした。ですがこちらの人々は寒さにも負けぬ強さと温かさを持つ方ばかりで、不慣れなわたくしを優しく迎えてくれました。
夫ユストもとてもいい人で、この間はわたくしにカエデ蜜の飴の作り方を教えてくれました。鍋で熱々にしたカエデ蜜を、降り積もったきれいな雪の上に好きな形に垂らすのです。そうすると蜜が固まり、おいしい飴ができあがるのです。愉快でしょう?
ロック、あなたは積もった雪を見たことがないと言っていましたね。この窓から見える一面の銀世界、あなたにも見てもらいたかったです。ひと掬いでもこの手紙に添えて贈れたらよいのにと思います。
わたくしはいつでもあなたの成功と平穏を願っています。マティウス伯にもどうぞよろしくと伝えてください。ロックを困らせるようなことがあれば承知しませんよ、とも。
あなたがたの進む道が常に光で照らされていますように。
あなたがたの行く先に、幸いだけがありますように。
あなたの永遠の友 ユリアより』
夕方に店を閉め、父に挨拶をした後、ロックは単身帰途に着く。
懐には大切な友から送られた手紙があった。家に帰った後で、もう一度じっくり読み返すつもりだった。
帝都の夜道を貴族特区まで歩くのは嫌だから、店はいつも日暮れ前に閉めてしまう。今日はイニエルの迎えもないし、夕焼けを見ながらのんびり歩いていくつもりだった。
だが店を出たところで、
「お疲れ様、ロクシー」
聞き慣れた夫の声に呼び止められた。
振り向けばそこにはよそ行きの服を着たエベルが立っている。ロックを労おうと微笑む顔が、沈みゆく陽の色で暖かく染まっていた。
ロックも笑みを返し、すぐに彼の隣へ並ぶ。
「エベル、ここまで歩いてきたんですか?」
「ああ、リーナス邸の帰りに真っ直ぐこちらへ。あなたの顔が見たくなって」
「毎日見てるじゃないですか」
「いつでも見たいと思っているとも」
ふたりは隣りあって、どちらからともなく歩き出した。
辿るのは同じ家まで続く長い道だ。お互いに、今日あった出来事を話しながら、夕刻の帝都を寄り添って進む。
「今日、ランベルト家のお嬢様がたがいらっしゃいましたよ」
「それはそれは、さぞ賑やかだったことだろうな」
「あと、どうやらヴァレッド殿下もいらしたようです」
「殿下が? 何用で?」
エベルが怪訝そうにしたので、ロックは朗らかに笑いながら、あの手紙について打ち明けることにした。
きっと家に帰ってから、エベルもその手紙を読みたがるだろう。それならふたりでじっくり読み返そう。切ない気持ちも懐かしさも、そして手紙を貰えたうれしさも分かち合える相手がいる。
ロックには、そのことが何より幸せだった。