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マティウス伯爵夫人の日常・平日編(1)

 伯爵夫人の朝は早い。
 と言ってもロックの場合、朝が早いのは結婚する前からの話だ。早く起きて身支度を整えたら家を出て、店を開ける準備へ向かわなくてはならない。貧民街にいた頃と比べると現在は店までの距離も遠く、開店に間に合わせるには夜明け頃に起きる必要があった。
 ロックの目を覚ますのは、厨房から漂ってくる焼きたてパンのよい香りだ。
 朝食の匂いで目覚めるのは父と暮らしていた頃も同じだった。今は執事のルドヴィクスか小間使いヨハンナが支度をしてくれて、必然的に早起きの道連れとなるふたりには頭の上がらないロックだった。

 目を開けた先の天井にも近頃ようやく見慣れてきたところだ。
 寝台の上で何度か瞬きをしながら、ロックは眠気を追い払う。まだまどろんでいたい欲求を堪えながら、恐る恐る隣を向いた。
 幾度の朝を迎えてもなお見慣れない寝顔がそこにはある。
「……わあ」
 思わず感嘆の声を漏らしてしまった。
 瞼を下ろしたエベルの顔が朝日に照らされている。鳶色の髪はきらきらと光り、肌は大理石のようになめらかだ。彫刻のように整った顔立ちは、こうして眠りに落ちている時だけ少しあどけなく映る。美しくも安らかな寝顔だった。
 ふたりが夫婦となってからすでに三ヶ月が過ぎていたが、ロックは気恥ずかしい思いではにかんだ。目を覚ませばすぐ隣にエベルの姿があることを、まだ落ち着いた心で受け止めることができない。もちろん気恥ずかしさと同じくらい、いとおしい思いもあるのだが。
「おはようございます」
 彼を起こさないように小声でそっとささやいて、それからロックは身を起こす。
 自分の早起きに夫まで付き合わせる必要はない。そう考えて、いつもひとりで寝台を出ていくようにしている。
 もっとも、相手は人狼閣下だ。寝ている時でも耳がいい。
「うわっ」
 寝台を抜け出そうとしたロックは後ろから腰を掴まれ、そのまま温かい毛布の中へ引き戻された。
 振り向くより先にぎゅっと抱き締められる。
 腕の中、耳元でささやく声がした。
「おはよう、ロクシー」
「お、おはようございます……」
 先程より上擦った声で応じた後、ロックは身体ごとぐるりと振り向く。
 まだ寝ぼけ眼のエベルが、ロックを見てその目を細めてみせた。
「起こしてくれてもよかったのに」
「気持ちよさそうに寝ているところを起こせませんよ」
 笑うロックの額に、エベルはそっと口づける。とてもうれしそうに、幸せそうに。
 それからもう一度妻を抱き締め、少しはっきりした口調で続けた。
「今朝は早くてもよかった。出かける用事がある」
「リーナス卿のお屋敷でしたっけ」
「ああ、会うのは公爵の方だが。翌週、元老院の諮問会議があるからな」

 ロックは結婚するまで、エベルが――というより帝都に存在する貴族たちが、どのような仕事に携わっているのかをあまり知らなかった。帝国は皇帝による専制政治を敷いてはいるが、名だたる貴族を集めて元老院を作り、国を治めるにあたっての助言を求めてもいるらしい。そこに名を連ねているのがマティウス伯であり、グイドとミカエラの父リーナス公でもあるそうだ。
 伯爵夫人となった以上はロックも世間知らずのままではいられない。礼儀作法はもちろんのこと、近頃では政や国の情勢についても学びはじめているところだった。

「僕はご一緒しなくていいんですか?」
 貴族たちが他家の貴族を訪ねる時、夫人を帯同させるのもよくあることだ。それでロックは尋ねたが、エベルは笑ってかぶりを振った。
「あなたが来てくれればグイドやミカエラは喜ぶだろうが、同時に『店の邪魔をするな』と叱られてしまうだろうな。あなたの店も人々から必要とされる、大切な務めだろう」
 エベルはロックの仕立て屋としての仕事に対し、相変わらず理解を示してくれる。恐らく伯爵夫人としては至らぬ点だらけの妻に違いないだろうが、そのことについて不平不満を告げられたことは一度もない。ロックはその気遣いに甘えつつ、よき仕立て屋とよき妻を両立できぬものかと模索している最中だった。
「ありがとうございます、エベル」
 感謝を告げるとエベルはまた微笑み、今度はロックの唇に口づけてくる。
 柔らかい温もりにロックが思わず目をつむり、そのまま少し長く重ねあったところで、不意にエベルが面を上げた。
「……起こしに来たようだ」
 夫婦の寝室を訪ねてくる、誰かの足音を聞きつけたらしい。
「今朝はどなたですか? ルドヴィクスさん?」
「いや、これはヨハンナだろう」
「それなら着替えておきます」
 夫の予想を信じたロックは起き上がり、エベルは名残惜しそうに抱き締めていた腕を離す。
 そして寝台を出たロックが服を着終えるより早く、寝室の扉を叩く音がした。
「奥様、おはようございます! たいへん美味しい朝食ができあがりました!」
 聞き間違えようのない、とびきり元気なヨハンナの声だ。
 ロックはエベルと笑みを交わしあい、それから返事をした。
「ありがとう、今起きるよ」

 今朝の食卓は夫婦で囲んだ。
 献立は軽く焼いたパンと炙ったチーズ、それに野菜スープ。給仕をするのはやはりヨハンナで、だからか一層賑やかな朝食となった。
「先日見たお芝居がとっても素敵で! 奥様にもご覧いただきたくて!」
「へえ、どんなお芝居?」
 熱弁を振るいながらお茶を淹れるヨハンナに尋ねると、すかさず彼女の目が輝く。
「題名は『壁になりたい』と申します」
「……変わった題だね」
「ええ! 女主人公が幼なじみである殿方二人の恋模様を応援する物語なのですが、第三者のおせっかいとはままならぬもの。彼女の努力は空回り、やがて二人の仲をこじれさせてしまうことになるのです――」
 劇場に既に四度も通ったヨハンナによると、女主人公はその後殿方二人の関係を修復するべくなりふり構わず奔走するのだそうだ。結末は見てのお楽しみということだそうだが、芝居の幕引き直前に女主人公がつぶやく言葉が題である『壁になりたい』らしい。
「壁になりたいって、どんな心境から飛び出す言葉なんだろう……」
 真剣に考えるロックの傍らで、ヨハンナは先に物語を味わった者特有の訳知り顔を浮かべている。
「ああ、お教えしたい! 奥様に一語一句違えず筋書きをお話ししたいのはやまやまなのですが、話してしまうと観劇の際の楽しみが薄れてしまうという板挟み! 続きはどうぞ劇場で!」
「そこまで言うなら観てみようかな」
 思えばロックはまだ劇場に足を運んだことがなかった。エベルと共に帝都を歩いていたら石造りの荘厳な建物を見かけて、これは聖堂ですかと尋ねてしまったことがある。その場所こそが帝都でも指折りの劇場のひとつであり、エベルは優しく『今度観劇に行こう』と言ってくれたのだった。
「ぜひご覧ください! 閣下もご一緒に、ぜひ!」
 ヨハンナが水を向けると、上品にスープを啜っていたエベルが匙を持つ手を止める。
「私もか……?」
「奥様はまだ観劇なさったことがないのです。閣下のお手引きがなくては!」
「それはそうだが」
「ご夫婦でご覧になるのにふさわしい恋物語でございます。なにとぞ!」
 小間使いの強い押しを受け、エベルは困ったように苦笑した。
 そしてロックに向かって続ける。
「あなたが観たいのならば付き添おう。言われてみれば、観劇の約束をまだ果たしていなかったな」
「お願いします」
 ロックは一も二もなくうなづいた。
 そういう文化に触れるのも勉強のひとつであろうし、観劇の作法を学ぶよい機会でもある。それに、ヨハンナがここまで夢中になる芝居とはいったいいかほどのものか、気になって仕方がなかった。
「では次の休日にでも」
「ええ、楽しみです」
 約束と共に視線を交わしあう夫婦を見て、ヨハンナが感極まった息をつく。
「ああ……! わたくしも壁になりとうございます!」
 それからお茶のお替わりをロックへ差し出しつつ、念を押すように言ってきた。
「奥様、ご観劇の後にはご感想をお聞かせくださいね!」
 彼女の勢いには毎日圧倒されている。だがその活力溢れる明るさを気に入っているのも事実で、ロックは笑顔で首肯した。

 朝食の後、ロックはエベルたちに見送られて家を発った。
 御者のイニエルが走らせる馬車に乗り、商業地区まで送ってもらう。店の傍で馬車を降りる時、未だにほんの少し場違いさを覚えてしまう。貴族としての自覚は全くないままのロックだった。
「お迎えはどうなさいます、奥様?」
 見送りのイニエルに問われ、ロックは首を横に振る。
「今日は大丈夫。閣下がリーナス邸へ行くなら、馬車を使うはずだし」
「閣下なら、まず奥様を迎えに行くよう仰るかと」
「そうだろうけど、平気だって伝えて。たまに歩いて帰るのもいいよ」
 夕刻の帝都の街並みは素晴らしいもので、働き疲れて帰る道すがら眺め歩くことがよくあった。だからロックは帰路の迎えを遠慮することが多い。
「そのようにお伝えします」
 イニエルも心得た様子で答え、そのまま御者席に乗り込むと、馬車でマティウス邸に取って返す。
 遠ざかる車輪と蹄鉄の音を聴きながら、ロックは『フロリア衣料品店』の扉をくぐった。

 帝都の商業地区に店を構える新生『フロリア衣料品店』は、一階が店舗、二階が住居となっている。
 ロックも結婚前のわずかな期間をここの二階で過ごしたが、現在ではフィービがひとりで暮らしていた。娘と離れての独り暮らしは寂しくないかと気にかけるロックをよそに、父は帝都での新生活を満喫しているようだ。
「おはよう、父さん」
 ドアベルの音を響かせながら店に入ると、先に来ていたフィービが振り向く。
「あら、おはよう」
 長い栗色の髪をなびかせた父が微笑んだ。
 その唇には今朝もきれいに紅が引いてある。身にまとっているドレスは最近仕立てた新作で、若草色のドレスに襟や袖口、それに裾も全て白い鉤編みで縁取りをしていた。身じろぎの度にちらちらと揺れる鉤編みは素朴ながらも愛らしく、初めて図案を見せた時はさしもの父も照れていた。だがいざ仕立てて着せてみれば栗色の髪のフィービに若草色はよく似合ったし、清楚で落ち着いた仕立てのドレスも難なく着こなしてみせた。
「そのドレス、やっぱりよく似合ってるよ」
 ロックが褒めると、フィービはくすぐったそうに頬を掻く。
「ありがとう。あたしの歳でこういうのはどうかと思ってたんだけど、気に入っちゃってね」
「なんでも試してみるものだろ?」
「まったくね。娘に教わっちゃったわ」
 首を竦めたフィービが、それでも満ち足りた様子で微笑んだ。
「もっといろんな服が着たいわね。今まで敬遠してたようなドレスも、似合わないんじゃないかって思ってたドレスも……全部あんたに仕立ててもらって。それでこの帝都を闊歩してやるのよ」
「いいね、最高だよ」
 父の決意にロックもうれしくなり、思わず声を弾ませる。
「そういえばさ、僕、今度の休みに劇場行くことになったんだ」
「あら、閣下と?」
「そう。父さんも一緒にどう? お芝居ってもう見た?」
「見たわよ。この間、ひとりで行ってきたの」
 ロックの問いに、フィービはさらりと答えた。
 そして逆に聞き返してくる。
「どんなお芝居行くつもりなの?」
「ヨハンナが勧めてくれたやつで――」
「――あたしはやめとくわ」
 何かを察した様子で嘆息するフィービに、ロックは口を尖らせる。
「演目くらい聞いてもいいと思うけどな。今回は面白そうだったよ」
「甘っちょろい恋愛劇なんざ興味ないのよ、あたしはね」
 ばっさりと切り捨てた後、フィービはからかうように続けた。
「それに、新婚さんの逢い引きを邪魔するわけにもいかないでしょう?」
「……別に邪魔じゃないけどなあ」
 口ではそう答えつつ、ロックは照れ笑いを浮かべる。
 逢い引きなどと言われると、結婚して夫婦になった後だというのに面映ゆい。一体いつまでを『新婚』と呼ぶのか皆目見当もつかないが、今がそういう時期であることは理解していた。
「さ、掃除も終わったし、準備できたら店を開けましょ」
「う、うん。開けてくるよ」
 ひとまず休日の楽しみは置いておいて――今日の仕事が始まる。
 ロックは一度外へ出て、『フロリア衣料品店』の扉にかけられた札を『開店中』にひっくり返した。
 それから改めて自分の店を見上げて、しみじみと誇らしさを噛み締める。

 マティウス伯爵夫人であり、さらには皇女殿下の仕立て屋でもあったロックの店は、皇女の婚礼から一年が経った今も客で賑わい、栄えていた。
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