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祝福された人々(3)

 深呼吸をして、
「――ど、どうしました? エベル」
 ロックは表にいるエベルに問いかける。
 人狼閣下は耳がいい。それでなくても窓から漏れる明かりで、ロックが店内にいることは知られているはずだ。
 鍵のかかった扉ががつんと揺れ、ドアベルが鳴る。わずかな間があって、返事が聞こえてきた。
「久しぶりに夕食でも一緒にどうかと誘いに来たのだが、店を閉めているところか?」
「ええ、まあ」
「では外で待とう」
 エベルの声は落ち着いていて、施錠していることを不審がる様子は見受けられない。

 だがロックが動揺を見せれば、彼ならすぐにでも察するだろう。
 ロックとて恋人を外に締め出し、隠し事を続けるのが気分のいいはずもない。
 だからと言って――。
 迷うロックはちらりとユリアを見た。傍らで立ち尽くす彼女は息をひそめており、エベルに存在そのものを悟られまいとしているようだった。やはり彼女のことを知られるのはまずい。
 そもそも彼女は、貧民街になど出入りしていい人物ではないはずだ。

 素早く考え、ロックはつっかえながらも切り出した。
「あの、エベル。先に家で待っていてくれませんか?」
 彼を父の待つ家へ向かわせ、その隙にユリアを逃がす策だ。
「ここであなたを待っていてはだめか?」
 もちろん、エベルならそう言う。ロックにも予想はついていた。
「ええと、店を閉めるのに時間がかかるので……」
「なら手伝おう」
「いえ、僕ひとりで十分です! ただすごく時間かかりそうなので、その」
「待つのは苦にならない、他でもないあなたならな」
 こんな時に顔が赤くなりそうなことを平然と言ってくれる。ロックは思わず言葉を詰まらせ、隣でユリアが怪訝そうにした。
「と、とにかくですね……」
 しどろもどろになったロックが、次の言い訳を鈍る頭で考えはじめた時だ。
「ロック」
 ユリアが見かねたように囁いた。
「わたくしがあの人に話をしましょう」
「ええ!?」
 予想外の提案に、ロックはエベルへの秘密も忘れて声を裏返らせる。
「ロック? 他に誰かいるのか?」
 そしてエベルはそのことに気づき、とうとう不審げに尋ねてきた。
「で、でもいいの? 顔見知りなんだろ?」
「構いません。どうにでもなります」
「ロック、誰と話をしている?」
「どうにでもって言うけど、問題にならない?」
「わたくしを信じて。任せてください」
「何の話だ? 顔見知りとは誰だ?」
 扉越しに疑問をぶつけるエベルがかわいそうなのもあったし、何よりユリア自身がいいと言うので、ロックはおそるおそる鍵を開けた。
 そして、戸口で眉をひそめるエベルを招き入れる。
「入ってください、急いで」
「いったいどうしたんだ?」
 エベルの問いには答えず、彼が店に入ったところで用心のために再び鍵を閉めた。
 その音で一度振り返ったエベルが、すぐに店のカウンターへ視線を向けて――端正な顔が次の瞬間、驚きに凍りついた。
 見開かれた金色の瞳はまっすぐにユリアを捉えている。
「皇女……殿下?」
 震える唇がためらいがちに呼んだ敬称を、ユリアは深い頷きで肯定した。
「ええ。わたくしがわかるとは、さすが伯爵の位を持つ人です」
 彼女が認めたことで、エベルは反射的にひざまずく。だが事実を飲み込めてはいないようで、珍しくうろたえながら聞き返した。
「なぜあなた様がこちらに!?」
「なぜというのは、壁の外にということですか」
「もちろんです! 見れば護衛のひとりも連れていらっしゃらないご様子!」
「あなただっておひとりでこちらに来たのでしょう? 同じです!」
 ユリアはつんとして答える。
「伯爵が許されて、皇女が許されないなんて不公平です」
 その言葉に、エベルは見るからに面食らっていた。
「お言葉ですが、公平かどうかという問題ではございません。御身にもしものことがあってはという話でございます。あなた様は花のようにか弱いお方ゆえ――」
「もしもなんてありません、ありえません。わたくしがそうだと言ったらそうなのです」
 もっともな反論を強硬な物言いでねじ伏せられ、エベルは救いを求めるようにロックを見た。それは助け舟よりもまず詳細な事情説明を求めているそぶりでもあった。
「ロック、これはどういうことだ……?」
 しかし聞かれたところで、ロックにも状況が飲み込みきれているわけではない。
「なんか、遊びに来てくださったんです」
「ずいぶんと軽い動機に聞こえるが……」
「前に話しましたよね、帝都兵の詰め所でお会いしたこと。それで僕のことを覚えてくださってて、また会いに来てくださったようで」
 そこまで語ると、ロックはユリアに視線を転じた。
「そうだよね?」
 確認を受け、ユリアはすんなり顎を引く。
「そうです。ロックとはもう一度お話がしたいと思い、訪ねてきたまでです」
「はあ……」
 エベルが相づちともただの吐息ともつかぬ声を漏らした。
 とはいえ彼も愚鈍な人間ではない。むしろ混乱が落ち着いてしまえば頭が冴えてきたようで、やがて肩をすくめてこう言った。
「得心できるとは申しませんが、殿下には殿下なりのご事情がおありなのでしょう。そういうことにいたします」
「ありがとう、マティウス伯」
 ユリアはにこりともせずに礼を述べる。
 そんな彼女を見るエベルもまた、笑みのない表情をしていた。
「しかし、これだけは主張させていただきたい。私もまたロック・フロリアに会いに来た次第、殿下がこれからロックと話をなさるとおっしゃるなら、私もこの場に留まることをご寛恕いただけますな?」
「女の子同士の会話に殿方が割り込むのはどうかと思いますけど」
 一旦はそう答えたユリアだったが、会話の先行きにはらはらしだしたロックの顔を見て気が変わったようだ。唇を一瞬尖らせた後、言い直した。
「ロックがいいと言うなら、わたくしも異存はありません」
「え? ええ、もちろん。閣下もぜひご一緒に」
 いきなり話を振られて戸惑ったものの、ロックとしてはエベルがいてくれる方が心強い。ユリアは平気だと言っているが、ここは帝都のごみ溜め、貧民街。いざという時にロックの細腕ではどうにもならない可能性もある。
「感謝する」
 短く答えたエベルが目配せを寄越してきた。
 その意図が完全に理解できたわけではないが、ロックも『頼りにしています』の思いを込めて目で頷く。
「では……ええと、ひとまず場所を移しましょうか」
 フロリア衣料店は服を求める客には適した場所だが、おしゃべりを楽しみたい客人をもてなすのに最適とは言えない。
 それに、会話が一段落するとロックは無性に空腹を覚えた。家では父が夕食をこしらえて待っているはずだ。エベルも夕食を共にと言っていたし、まずは食事を済ませることを考えた方がいいだろう。
 そう思い、切り出した。
「お二人とも、僕の家に来てください。たいへん狭い場所ですが、父が夕食を作ってくれているんです。それを食べながらお話ししましょう」
 ロックの提案に、エベルは何も言わなかったが表情にはあからさまな動揺が走った。
「あなたの家?」
 ユリアは意外そうな声を上げ、それから物珍しげに目を輝かせる。
「それはぜひ見てみたいです。連れていってくれますね?」
「ええ、もちろん――いいですよね、エベル?」
 ロックがその顔色を窺えば、彼は何らかの思索を終えたようだ。やがてぎこちなく頷いた。
「ああ。その方が……安全ではあるだろうな」

 かくしてロック、エベル、ユリアの三人は連れ立ってフロリア衣料品店を出た。
 エベルとユリアはロックの両隣を歩き、時々話しかけてくる。
「ロック、お父上は来客のあることを知らないのだろう。パンでも買っていかないか?」
「そうですね、何かないと足りませんし」
「ロック、あなたの父上はどのような人なのですか?」
「どんな……背が高くて、髪が長いよ。優しい父なんだ」
 代わるがわる話しかけてくるふたりは互いに張り合っているようでもあり、互いの存在を警戒しているようでもあった。口ぶりからして悪感情があるというわけでもないようだが、だからといって仲良く会話を交わすには身分の壁は高すぎるのだろう。
 ロックは多少の居心地悪さを覚えつつ、ふたりを伴いジャスティアの店に立ち寄った。そして四人分の夕食を賄えるだけのパンを購入した。代金はエベルが支払ってくれた。
 その間、エベルはいつものようにジャスティアと談笑をしていたが、ユリアはと言えばフードを目深にかぶったまま、店の前でじっとしていた。
「今日は閣下だけじゃなく、珍しい連れがいるんだね」
 ジャスティアがいぶかしがってロックに囁く。
「よく見るよ、あんなに顔を隠してる奴。だいたいは後ろ暗いところがある奴だけど……」
「そういうんじゃないよ」
 ロックは笑って、彼女の懸念を否定しておいた。
「たぶん、趣味なんじゃないかな。ああいう格好をするのが好きなんだよ」
 不敬なことこの上ない嘘ではあるが、ジャスティアも深く追及する気はなかったようだ。カゴにパンを詰め、覆いをかけて持たせてくれた。
「まあ、あんたの周りなんて変わった人ばかりだもんね。あのくらい珍しくもないか」
「まったくその通りだね」
 ロックも、彼女の言葉を否定はしなかった。

 かくしてパンを購入し終えた三人は、フィービの待つ家へと足を運んだ。
 見ず知らずの連れがいることを父がどう思うか、多少不安を覚えていたロックだったが、案の定フィービはユリアを見るなり眉根を寄せた。
「閣下はわかる。だがそちらは――どちら様だ?」
 誰だと聞かず、敬称をつけたことにロックはひやりとした。よくよく見ればユリアの召し物が質のいい布地でできていることも見抜けるだろうが、それにしても父の目は鋭すぎる。たまたまそういう言い回しを選んだだけ、とも思えるが――。
「彼女はユリア。えっと……最近、友達になった子で」
 苦しまぎれに説明するとユリアは密かに息を呑み、一方のフィービは青い目をしばたたかせた。
「友達? へえ」
「はじめまして、ロックのお父上。わたくしはユリアと申します」
 ユリアは上品に一礼し、ひやひやするロックをよそにエベルが口添えをする。
「素性の怪しい者ではない。私もよく知っている娘で、今宵は共に押しかけさせてもらった。突然のことでご迷惑だろうが、手土産を持ってきたので許していただければ幸い」
「ええ。怪しい者ではございません」
 そこにユリアが続くと、フィービは何とも言えない顔で娘を見やる。
「俺はお前を信じるぞ、ロクシー」
 彼女があからさまに怪しく見えるのはロックにもわかっていたし、父がことさら警戒するのも無理もない話だ。
 だがロックとしては、こう答えるしかないのだった。
「大丈夫。なんていうか――いい子だから、うん」
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