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狩るものと狩られるもの(4)

 ロックとエベルは、礼拝堂の長椅子に並んで座った。
 腰を下ろしてはみたものの、ロックにとってここは落ち着ける場所ではなかった。ステンドグラスから差し込む光は、散りばめられた宝石のように床の上で輝いている。ロックたちが黙ってしまうと話し声一つせず、衣擦れの音さえ憚られるほど静かだ。
 そして礼拝堂には上品で甘い香木の匂いが漂っている。
 あの夜、クリスターの部屋で嗅いだものに似ている気がした。

 そわそわするロックを見て取ったか、エベルが口火を切る。
「司祭殿、尋ねたいことがあるのですが」
「何なりと、閣下」
 初老の司祭が一礼して応じた。
 見たところ位の高い聖職者のようだが、伯爵相手にはこうして頭を垂れるものらしい。
 目を瞬かせるロックの隣で、エベルが語を継いだ。
「あなたは紫色のローブを身にまとっていますが、この帝都で青いローブをまとう聖職者は存在するでしょうか」
「いいえ」
 司祭は即答した。
「青なんて罰当たりなことでございます」
「罰当たり?」
 穏やかではない物言いに、ロックはつい声を上げる。
 それは天井の高い礼拝堂に思いのほかよく響き、『淑やかで無口な令嬢』は慌てて口元を押さえる羽目になった。
「ええ。我々のローブが紫であるのには理由がございます」
 司祭は別段気にしたふうもなく続けた。
「すなわち水の青と血の赤。神から賜りし力の源であり、全ての源流でもあるその二つを合わせて紫なのでございます」
「……そういうことだ」
 エベルはそのしきたりを知っていたようだ。ロックにそう囁いてきた。

 では、クリスターに青いローブを注文した人間は誰なのだろう。
 水の青と血の赤、罰当たり――聞いたばかりの単語は剣呑で、ロックは無性に胸騒ぎがしていた。

「しかし閣下、なぜそのようなご質問を?」
 今度は司祭が、当然の疑問をぶつけてきた。
 ひやりとしたロックに代わり、やはりエベルが答える。
「いや、うちの小間使いが見たというのですよ。青いローブを身にまとった幾人かの集団が、帝都をそぞろ歩いていたと――そのローブには刺繍がしてあったそうですが、はて、どんな刺繍だったか……」
 彼の口は出まかせを言うのが随分と上手いようだ。
 ロックは感心し、恐らくはそれを信じきった司祭が目を丸くする。
「なるほど……。その刺繍というのはいかようなもので?」
「あいにく思い出せません。ですがどうも胡乱げな集団だったようで、うちの小間使いが気を揉んでいるのです」
 エベルがすらすらと答え、肩を竦めた。

 ちょうどその時、二人が座る長椅子の背後で誰かが立ち上がった。
 礼拝堂に先に来ていた身なりのいい中年の男だ。
 ずっと祈りを捧げていた彼は急に席を立つと、こちらには目もくれずに礼拝堂を出ていく。
「ああ、もし……」
 司祭が呼び止めたが聞く耳持たず、彼の姿は乱暴に閉じた扉の向こうへ消えた。
 無視された格好の司祭は少々心外そうだった。戸惑いを隠さず零す。
「……随分、お急ぎのようで」
「今の御仁は?」
 すかさずエベルが尋ねた。
「毎日来ている方です。素性などは聞いておりませんが……」
 司祭は困惑を吹き飛ばすように息をつき、気遣わしげに扉を見やる。
「いつも熱心に祈っていますから、信心深い方なのでしょう」
「では、我々が騒がしく思えて出ていったのでしょうね」
 エベルは納得したように呟いていたが、その横顔はちっとも納得したふうではなかった。
 それを盗み見つつ、ロックは落ち着かぬ思いで光が躍る床を眺めていた。

 聖堂では他に収穫もなく、二人は馬車に乗って神聖地区を離れた。
 そして貴族特区のマティウス邸まで戻ってくると、疲れ果てた様子のフィービが出迎えてくれた。
「ロクシー、やっと戻ってきてくれたか」
 馬車の音を聞きつけて現れた彼は、まさしくほうほうのていで逃げ出してきた様子だ。
「どうしたの、父さん」
 ロックは馬車から降りるなり尋ね、フィービから返事より早く嘆息された。
「あの小間使いがまあまあうるさくてな。初めはあれやこれやと興味本位の質問攻めをしてきて、答える気はねえと言ってやったら今度は一人でぺらぺら喋りやがる。またその話の長いこと長いこと……」
 どうやら留守番の間、一人の静かな時間を過ごすことはできなかったようだ。
 後からヨハンナが追いかけてきて、申し訳なさそうに告げる。
「フィービ様、そんなにうんざりされていたのですか。あくびばかりしていらっしゃるので、てっきり退屈されているのだと……」
「眠かっただけだよ」
 フィービは牙を剥いてヨハンナを睨む。
 ロックが父をどう労わろうか迷っていれば、エベルが先にフィービへ詫びた。
「うちの小間使いが迷惑をかけて済まない」
 それでフィービも苦笑を返す。
「閣下はこの怒涛のお喋りを毎日聞いておいでで?」
「ああ。我が家は人が少ないから、ヨハンナ一人で賑やかになるのはありがたい」
 エベルはあっさりと答えたが、その後でこうも付け足した。
「もっとも、彼女の話は私にも時々わからないことがあるのだが……」
 主の言葉をどう受け取ったか、ヨハンナはえへへと小首を傾げた。
「わたくしも微力ながら、マティウス家の空気を明るいものにしとうございまして」
「しかしヨハンナ、お二人は大切なお客様だ」
 誉めたわけではないと言いたげに、エベルがこめかみを揉み解す。
「興味本位で質問攻めとは行儀が悪いな。以後、慎むように」
「はい、閣下」
 ヨハンナの返事は朗らかだった。
 確かに彼女が一人いれば、屋敷の中の空気が暗く澱むことはないだろうとロックも思う。
 しかしエベルにもフィービにも理解できない話となると――ロックもまた、理解できる気がしなかった。
「では我々にもお茶を淹れてくれ」
「かしこまりました」
 エベルの頼みにヨハンナは慌てて屋敷へ戻っていき、その後ロックたちも応接間へと案内された。

 以前も訪れた応接間には、少年時代のエベルとその父キリルの肖像画がかけられていた。
 呪いを受ける以前の父子を、ロックも以前とは違う思いで眺める。
 少年は新緑色の瞳を失い、人狼となってここにいる。父親は既にこの世を去り、静かな霊廟で永き眠りに就いている。墓前では見ることのできなかったその姿は、どちらも優しげで穏やかだ。

「お茶をどうぞ」
 ヨハンナが淹れてくれたお茶で、ロックとエベルは一息入れた。
 それからロックは聖堂で得た情報をフィービに伝える。
 といってもさしたる収穫はなかったのだが、青いローブの話はフィービも興味深げに聞いていた。
「罰当たりのローブか。そんなもん注文したのは誰だろうな」
「それがわかれば、クリスターのことも掴めそうなんだけど」
 尋ね人の張り紙が、貧民街からぽつぽつと消え始めている。
 あの雨の日に打たれて剥がれたものもあれば、誰かが悪戯で破り去っていくものもあった。その度にニーシャは新しいものを作り、貼り出していたようだが、彼女の気力と財力もいつまで持つかわかったものではない。
「あと、香木のこともね。本当に聖職者なんだとしたら……」
 聖堂の匂いは今日、確かめてきたばかりだ。
 罰当たりな青いローブをクリスターに作らせ、もしかすればその後、彼に何らかの害をなす。そうする意味も目的もまるでわからないが、少しずつ近づいている気はしていた。
「もう少し手がかりが欲しいな」
 フィービは腕組みをして唸る。
 それからふと視線を転じて、差し向かいに座るエベルを見やった。
 ロックもつられるようにそちらを見れば、エベルは美しい眉間に皺を寄せ、何か考え込んでいるところだ。
「エベル、どうかしたんですか」
 尋ねてみると彼はゆっくり頷いた。
「礼拝堂にいた、身なりのいい男のことを覚えているな」
「ええ」
 エベルと司祭が話している間に立ち去った、中年の男のことだろう。
「あの男、どうも引っかかる」
 彼は険しい顔つきで呟く。
「扉を出た後しばらくして、大急ぎで走り去る足音が聞こえた。何か急ぎの用事があったと見えるが、私が司祭と話している間というのがな」
 確かにロックも不審に思った。
 毎日のように聖堂に通い、祈りを捧げるほど信心深い男のはずだ。急用だからといって司祭に挨拶もせず、呼び止める声さえ無視するような振る舞いをするだろうか。
 もっとも足早に立ち去る様子以外に不審さはなく、彼を怪しんだところで何者だと断言できるような材料もないのだが――。
「何だかこう、すっきりしねえ話ばかりだな」
「そうだね……」
「全くだ」
 フィービとロック、それにエベルは、それぞれ浮かぬ顔で頷き合った。

 そこでふと、ロックは自分に注がれる視線に気づく。
 視線の主は給仕をするヨハンナであり、そちらを向けば彼女は嬉しそうに微笑んだ。
 紫色の瞳は好奇心に輝いており、もしかすると話の輪に加わりたいか、ロックに聞きたいことでもあるのかもしれない。

「ヨハンナ、どうかした?」
 ロックが問いかけると、いち早く隣でフィービが咳払いをした。
 余計なことを聞くなという合図だろう。
 自分が不在の間、父がどれほど金髪の小間使いに手を焼かされていたのか想像がつく。ロックにとっての父は心身ともに向かうところ敵なしという印象だが、その父が十代の少女に太刀打ちできなかったというのは意外だった。
「ヨハンナ、礼儀を忘れずにな」
 エベルが釘を刺したので、何か言おうと口を開きかけていた彼女が慌てて閉ざした。
 しかし会話も行き詰まったところだったし、ロックは少し気分転換がしたかった。
「……そうだ、閣下から伺ったんだけど」
 それで何か話でもと、ヨハンナに声をかける。
「君の家は、人狼を狩る家系だったって本当?」
 その話題を持ち出した途端、フィービが興味深げに身を乗り出すのが目の端に見えた。
 一方、ヨハンナは気後れしたような顔になる。
「ロック様は信じてくださるのですか?」
 いきなり雲行きが怪しくなるような反応だ。
 ロックは思わずエベルの方を見たが、彼はおかしいのを堪えるようにお茶のカップを口元に運ぶ。怪訝に思いつつも、まずは正直に答えた。
「僕は本当の話だと思ったよ」
 するとヨハンナは、恥ずかしそうに微笑んだ。
「うちの両親も祖父も、本当だと思っているようでございます」
「ヨハンナは違うの?」
「わたくしは、本当であればいいなと思っておりますが……」
 そこで彼女は一層もじもじし始める。
「でもロック様。わたくしの両親も祖父も、そのまた親の世代も、実は一度として人狼を見たことがなかったのでございます」
 そうしてヨハンナはエベルに目をやり、溜息をついた。
「閣下にお会いするまで、わたくしの一族全員が一度として、です」
「じゃあ、どうして狩人だってわかるの?」
 当然の疑問を、ロックはぶつけた。
「我が家には一応、それらしい品が残っているのでございます」
 ヨハンナはそう答えた。
「刃こぼれの酷い処刑刀や人狼を捕らえる為の罠、一回り大きな枷に拷問器具――そういったものは確かに残っておりますが、それを使った記憶のある者はおりませんし、ただ先祖から伝え聞いた話があるだけでございました」
 なかなかに物騒な品揃えだ。
 それだけ揃っていれば信じてみてもよさそうなものだが、ヨハンナは半信半疑のようだった。
「ですので、マティウス家から使用人として雇いたいとお話をいただいた時は、それはもうお祭り騒ぎでございました。父も母も祖父も大喜びで……本当に人狼はいたんだと、大層ほっとした様子でしたから」
 そう言って、ヨハンナは苦笑する。
「でもわたくしはこの通り、少しお喋りなだけのただの娘でございます。狩人であった話が本当なら、閣下をお守りする力もあるのでしょうが……」
「そんなことは気にしなくてもいい」
 エベルがそこで口を挟んだ。
「君は君の務めをよく果たしている。それで十分だ」
「ありがとうございます、閣下」
 感謝は述べつつも、ヨハンナには忸怩たる思いがあるようだ。少し不満そうに呟いていた。
「わたくしとしては、何らかの特別な力とか、危機的状況下で発揮される眠れる技術とか、そういうものが欲しゅうございました」

 ロックの知る限り、人狼教団が暗躍していた古代帝国は数百年前に滅んだ。
 今の王朝が始まったのはその後の話で、以降は大きな戦乱も、政変もないまま帝国として君臨している。
 数百年と曖昧なのは歴史書の類が燃やされ、ほとんど残っていないからだが――何にせよ長い時が過ぎ、ヨハンナの家のように古代帝国時代の栄光を語り継いでいる者もいれば、それを信じきれぬ者もいる。
 ロックもエベルと出会わなければ、人狼などよくある怪談話と聞き流していただろう。

 ではなぜ今の世に、人狼の呪いは存在しているのだろうか。

 ロックが物思いに耽りかけたのと同時に、エベルが椅子から立ち上がった。
 不審げに窓の外へ目を凝らしている。
「馬車だ。客人の予定はもうないはずだが……」
 その言葉にロックも振り向けば、マティウス邸の広大な庭園の向こう、閉ざされた門越しに一台の馬車が停まっている。
 二頭立ての、いやに立派な馬車だった。
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