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狩るものと狩られるもの(3)

 神聖地区の墓地には、夥しい数の墓石が立っている。
 帝都の一般市民はこうして野ざらしの墓石に葬られるそうだが、しかるべき家柄の――率直に言えば、一定額の金を積める人間であれば、霊廟を建てることも許されている。
 もっともロックが見渡す限り、整然と建ち並ぶ霊廟に真新しいものなどない。
 どれも壁面には苔が生し、柱には蔦が這い、扉に施された家柄を示す紋章は風雨に削られていた。
「こちらだ、ロクシー」
 エベルに連れられて、ロックは霊廟の一つへと歩いていく。

 マティウス家の霊廟も他の家のものと同様、長い年月を感じさせる佇まいをしていた。
 扉には馬車に描かれているのと同じ紋章が刻まれており、エベルも迷うことなくその鍵を開ける。
「さあ、どうぞ。明かりが点いているが、足元には気をつけて」
 ロックにとって、霊廟に立ち入るのは初めてのことだ。
 田舎の村にはそんなものはなかった。母ベイルの亡骸も村の隅にある共同墓地に眠っていて、帝都に移り住んでからはその墓前にも立っていない。
 母を一人きりにしていることに罪悪感を覚えつつ、ロックはエベルの後について霊廟に立ち入った。

「本当だ、明るい……」
 思わず声を漏らしたのは、思った以上に内部が照らされていたからだ。
 ロックが借りている部屋よりも広い霊廟内には、四方にランタンの灯りが据えつけられ、隅々までよく見えるようになっていた。
 石造りの壁には神像を彫り込んだ祭壇があるだけで、棺はどこにも見当たらない。祭壇には火のついた蝋燭や花が供えられており、蝋燭の長さと花の瑞々しさからして、恐らくは今日のうちに置かれたものだとわかる。
「墓守に伝えてあったからな、今日訪ねていくからと」
 エベルがロックの驚きにそう応じた。
「そうでなければ、ずっと閉めきっていた霊廟にあなたを連れてくるなどできはしない」
 言われてみれば霊廟内の空気は思いのほか清浄だ。
 嫌な臭いは一切せず、それどころか森に似た爽やかな香りさえ漂っている。
「不思議な場所です」
 ロックは率直に感想を述べた。
 それでエベルが小さく笑う。
「そうだろう。墓だというのに棺もないのだから」
「ないんですか?」
「厳密にはある。この祭壇の裏側にしまわれている」
 エベルの手が、祭壇の向こうを指し示した。
 もちろんそちら側は祭壇と、石壁に遮られ何も見えない。
「我々は骸に触れることを許されてはいない」
 それでも、見えない向こうを見据えるようにエベルが金色の目を眇めた。
「ここは言わば、生者と死者の境界というわけだ」
「でも怖い感じはしませんね」
 霊廟というから、ロックはもっとおどろおどろしい場所を想像していた。
 だがここは墓石が並ぶ外に比べれば、むしろ居心地がいいくらいだ。
「そうだな。霊廟とは遠い血の記憶に思いを馳せ、ここにはいない人を想う場所だ」
 エベルはそう言うと祭壇に歩み寄り、神像の足元に刻まれたいくつかの名前から、一番新しい名前を指差した。
 彼の指がその名を優しくなぞる。
「キリル・マティウス。私の父の名だ」
 それからロックの方を振り返り、せがむような眼差しを向けてきた。
「ロクシー。どうか、私の父の為に祈って欲しい」
「もちろん、そのつもりで参りました」
 ロックはそう答えると、祭壇の前で頭を垂れ、目をつむった。

 不信心者のロックではあるが、死者に祈る気持ちまでがないわけではない。
 エベルの父とは面識もなく、その人物像についてもおぼろげに聞かされている程度だ。それでもエベルが父親をどれほど想っているかはわかるから、真摯に祈りを捧げる気になれた。
 ロックは生あるうちに父とめぐり会うことができた。おまけに今では共に暮らし、父の庇護下でそれなりに安らかな日々を送っている。
 だがエベルの父は喪われ、親子の間には深い傷跡が残された。
 互いに抱いているであろう後悔を、互いの手で埋め合わせることはもうできない。
 だからロックはキリル・マティウスの魂の安息を祈った。

 ――エベルの安らぎは僕が引き受けます。
 ですからどうぞ、安らかに。

「……あなたを一度、ここへ連れてきたいと思っていた」
 ロックよりも長い間祈りを捧げた後、エベルは深い息をついた。
「逢瀬にふさわしい場所ではないと承知の上でだ。付き合ってくれてありがとう」
「僕も、ご挨拶の機会をいただけて幸いでした」
「そう言ってもらえて助かる」
 エベルは胸を撫で下ろし、ロックに向かって微笑んだ。
「父に会ってくれたことにも感謝している。紹介できて本当によかった」
 そういう言い方をされると、ロックはにわかに急造仕立てのドレスのことが気になってきた。
 もう少し時間があれば腕によりをかけてドレスを作り、仕立ての腕ごと見ていただくことができたのだが。
「本音を言えば、直に会ってもらいたかったのだが……」
 エベルは堪えきれぬ様子で零した後、思い直したようにかぶりを振った。
「あなたを見て、父が何と言うかは想像がつく。それだけで十分だ」
 その言葉に、ロックは興味を覚えた。
 すかさず尋ねる。
「僕を見て、何と仰ったでしょうね」

 先日エベルにも言われた通り、ロックは実に奇妙な存在だ。
 貧民街の住人、田舎育ちの娘、そして男装の仕立て屋。その父は女装をする元傭兵であり、その母は家出をしてきた貴族の娘だ。
 もしも会って話す機会があったなら、その身の上話だけでも退屈させることはなかっただろう。

「父なら、間違いなくあなたを気に入っただろうな」
 エベルは確信的な口調で答える。
「そして言っただろう。『あなたはとても、お父上に似ておいでだ』と」
「……何よりのお言葉です」
 ロックは歳相応の照れ笑いを浮かべた。
 そして今の物言いから、エベルの父親に対する信頼と、父フィービとの繋がりの深さを感じ取る。
 会ったこともない、そしてこの先も会うことは叶わぬ人との縁が、この度の墓参で確かに結ばれた気がした。
「いつか、僕の母の墓前にもお越しいただけませんか」
 ふと思いついて持ちかければ、エベルは一も二もなく首肯した。
「無論、伺おう。連れていってくれると嬉しい」
「ありがとうございます。帝都ではないので、少し遠出をすることになりますが」
 生まれ育った農村までは、馬車でも半日ほどかかる。
 母の墓前から足が遠退いていた理由の一つがそれだった。もちろんそれだけではないのだが――ロックはあの村に、母以外の人間とのいい思い出がなかった。
「では泊まりがけで行くことにしようか」
 暗い思い出が過ぎりかけたロックの耳に、エベルの楽しげな声が飛び込んでくる。
 それで目を丸くすれば、彼は意味ありげに片目をつむった。
「私は何かおかしなことを言ったかな、ロクシー」
「い、いえ……多分、言ってないと思います」
 過剰に意識している自覚はあったから、ロックは慌てて否定した。

 霊廟を後にした二人は、再び墓石の並ぶ神聖地区へと戻ってきた。
 どこか甘い匂いのする風にロックは目を瞬かせた時、エベルが声を落とした。
「ところで、手紙に書いた件は覚えているな」
「……クリスターのことですか?」
 同じく小声で聞き返すと、彼は即座に頷く。
「彼について、あなたに教えておきたいことがある。少し歩くが平気かな」
「ええ。でも、どちらへ?」
 馬車は待たせておいて歩きとなると、そう遠くはない場所だろう。
 ロックの問いに、エベルは穏やかに答えた。
「すぐそこにある聖堂だ」
 不信心者のロックは内心を顔に出さぬよう努めた。
 だが上手くはいかなかったようで、彼はおかしそうに吹き出した。
「そんな顔をしないでくれ。つまらぬ場所かもしれないが、今日ばかりは理由がある」
「べ、別に嫌というわけではないですよ!」
 ロックも失敗にうろたえつつ、すぐに澄まして聞き返す。
「聖堂にどんな御用が?」
 するとエベルは歩き出しながら、静かに話し始めた。
「先程の霊廟、あの場所の匂いに気づいたか?」
 ロックは隣を歩きつつ、まだ新しい記憶を手繰り寄せてみる。
「いい匂いがしました。森の新緑のような……」
「ああ。あれは墓守が香を焚いていたからだ」
 エベルが口にしたその単語に、ロックは思わず眉を顰めた。
「お香? まさか――」
「そうだ。先日はどうしてこのことに気づけなかったか……」
 嘆くように額を押さえたエベルが続ける。
「香木は何も金持ちの道楽に限った品ではない。聖堂の司祭や墓守もそれを用いる。嫌な臭いを消す為に、あるいはもっと宗教的な意味合いでもだ」
 そしてすぐ、険しい表情になった。
「クリスター・ギオネットの部屋を訪ねたのは、普段から香を扱う聖職者という可能性はないだろうか」
 それなら、ロックにも心当たりはある。
 金払いのいい依頼人がクリスターに注文したのはローブだ。身体を締めつけないその着衣は当世ではいささか古めかしく、普段着として身に着ける者はまずいない。だが体型を問わない型であること、身体の線が出ないことなどからお仕着せとして仕立てさせるところもある。
「青のローブを着ている聖職者はいますか?」
 ロックが問うと、エベルは素早くかぶりを振った。
「私の知る限り帝都にはいない。神に仕える者は皆、紫のローブを着ている」
 ちょうどその時、二人の行く手に白亜の聖堂が見えてきた。

 高くそびえる尖塔の大聖堂では、初老の司祭が二人を出迎えた。
「マティウス伯爵閣下、ようこそお越しくださいました」
 福々しい笑顔の司祭は深く染め上げた紫のローブをまとっている。金糸で施された刺繍の装飾と首から提げた聖印の豪奢さから、さぞかし高位の司祭であろうと察することができた。
「父の墓参を済ませてきました。少し休ませて欲しいのですが」
 エベルが告げると、司祭は心得たように頷く。
「礼拝堂はいつでも開かれております。どうぞ神の光の下、ゆっくり休まれますよう」
 その言葉通り、尖塔内部にある礼拝堂には色とりどりの光が溢れていた。嵌め殺しの窓は神話を描いたステンドグラスで、それを透かした陽光が並んだ長椅子の上に降り注いでいる。
 もっともせっかくの美しい礼拝堂に、先客は一人きりだった。身なりのいい中年の男が祈るように項垂れている他は誰もいない。
 だからだろうか、初老の司祭は直々にエベルとロックを礼拝堂まで案内してくれた。
「閣下の敬虔さ、お父上もさぞかしお喜びでしょう」
 また愛想もよく、歩きながらそんなふうにエベルを誉めそやした。
 その司祭の目に、帯同するロックはどのように映ったのだろう。礼拝堂まで辿り着き、称賛の言葉が一段落した後で、そわそわと尋ねてきた。
「ところで閣下、そちらの愛らしいご令嬢は……?」
「ああ」
 エベルがロックを振り返る。
 懸命にも口を噤んだロックを見て、軽く笑みながら司祭に答えた。
「母方の遠縁の娘です。貴婦人の教育を受けている最中でして、我が家で預かっているのです」
「ほう……それはそれは」
 司祭は何を感心してか、しきりに頷いている。
「まだ社交慣れしておらず、この通り無口で淑やかな娘です」
 事実と全く異なる紹介をされ、ロックは笑わずにいるのに一苦労した。
 もっともロック自身の関心は目の前の司祭より、彼が着ているローブにだけ向けられていたのだが。

 クリスターの帳簿には『青地のローブ』と記す前に、数文字分塗りつぶした後があった。
 もしもそれが、紫と書き違えたのだとしたらどうだろう。
 クリスターが顔を合わせた依頼人は、聖職者だった。それで彼は紫色のローブを注文されると思い、先んじて紫と書き込んだ。ところが先方が求めたのは青地のローブで、慌てて塗りつぶして修正した――。
 何となくだが辻褄の合う話ではある。

 ロックの仮説を後押しするように、礼拝堂には甘く上品な香りが漂っていた。
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