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繋がれて、絡め取られて(2)

 大広間は相変わらず騒然としている。
 萎れて歩くグイドには誰も声をかけず、だが案ずるような目を向けて、誰もがこの祝宴の先行きに不安を覚えているようだ。
 そんな大勢の視線を振り切るように、グイドは扉をくぐり、大広間から出ていった。

 ロックも、エベルも、そしてミカエラも、しばらくは身じろぎ一つできなかった。
 それでも真っ先に沈黙を破ったのは、気まずげなエベルの溜息だった。
「せっかくの誕生日に騒いで済まなかったな、ミカエラ」
 気遣う言葉をかけられて、ミカエラは悲しげに微笑む。
「いいえ……。あなたのせいではないのでしょう?」
 それから、いても立ってもいられぬ様子で聞き返してきた。
「エベル、教えて。お兄様が何か酷いことをしたの? お兄様は――何をしたの?」
「それは……」
 さしもの人狼閣下も、妹のように想うミカエラには真実を告げにくいようだ。一瞬だけ言葉に詰まってから、だが結局は、硬い表情で答えた。
「ここで全ては話せない。だが許しがたいことをした」
 どうしてか、その時ミカエラはあまり驚かなかった。
 むしろ悪い予感が当たったというように、細い肩を震わせた。それを自ら掻き抱きながら俯く。
「ごめんなさい……」
 ロックが知る限り、グイドの傍らでミカエラはいつも天真爛漫だった。グイドもまた、妹の前でだけはよき兄であろうとしていた。それでも誰より近しい妹には、何か感じ取れるものがあったのだろうか。
 エベルの背後から顔を覗かせたロックに、ミカエラは顔を上げるなり告げてくる。
「兄はあなたを傷つけたのですね。兄に代わって、わたくしがお詫びいたします」
「いえ、そんな――あの、ええと」
 ロックは何と言っていいのかわからない。確かにグイドには散々な目に遭わされたが、ミカエラには何の罪もないはずだ。
 だがミカエラは初めて、その顔に大人びた苦悶の色を浮かべた。
「実を言えば、兄はこの頃、少し様子が変なのです」
「変、というのは?」
 エベルが問えば、ミカエラは記憶を手繰り寄せるように続ける。
「妙に落ち着きがなかったり、一人で思い詰めたようなそぶりだったり……。兄を訪ねてくるお客様がとみに増えたのもこの頃のことで、だけどわたくしには会わせてくれないのです」
 それらの様子から、彼女は兄の変化に薄々気づいていたのだろう。
 だが近しさゆえにその目を曇らせ、こうして明るみになるまでは言い出せなかったのか。
「上手く言えませんが、嫌な予感がしていました」
 ミカエラはそこまで言うと、まだ覚悟の決まらぬ様子で言葉を絞り出してくる。
「エベル。兄のことを許して欲しいとは言いません」
 懸命の訴えに、エベルが無言で片眉を上げた。
 それでもミカエラは退かず、尚も続けた。
「でもどうか……兄が道を違えようとしているなら、せめて止めてやってくれませんか。兄にはあなたの言葉しか届かないでしょうから」
 先程の態度を見る限り、今のグイドにはエベルの言葉ですら届くか怪しいものだ。
 ロックは不安を覚えたが、エベルはすぐに答えた。
「できる限りのことはしよう」
 するとミカエラは少しだけ安堵したようで、まだ苦味の残る微笑を浮かべる。
「ありがとう、エベル。本当はわたくしが止めたかったのですが……」
 それから彼女もまた踵を返し、
「わたくしは戻ります。この宴席を、せめて穏便に終わらせて参ります」
 いつになく力強い口調でそう言った。
 細い肩の震えも今や止まり、ミカエラは堂々とざわめきの中へと戻っていった。

 それからの彼女は、さながら女主人の風格で祝宴を乗り切ったようだ。
 さすがに何もかも元通りとはいかなかったが、客人たちもミカエラを気遣い、その後の宴席は至って穏やかに過ぎていった。
 皮肉な結果ではあるが、ミカエラのお蔭でロックとエベルも人々の関心から逃れることができた。二人は大広間の片隅で喉の渇きを癒し、空腹を満たし、ただただ静かに過ごした。
 そして宴席の終わり頃、給仕がエベルを呼び止め、何事か小声で伝えてきた。
 エベルはその時にわかに表情を曇らせたが、何を言われたのか、宴の間はロックにも教えてくれなかった。

「――グイドが、私と二人で話したいと言付けてきた」
 宴が終わり、リーナス邸の庭へ出たところで、エベルは給仕からの伝言を明かした。
 夜の庭を貫く遊歩道には、帰路に就く客人たちの姿がぽつぽつとある。ステンドグラスの庭園灯に照らされた道を、ロックはドレス姿のままで正装のエベルと共に歩いた。
「あなたは私の馬車で帰るといい。イニエルには話が通っている」
 エベルはそう言って、庭を抜けた先で待つ馬車まで案内してくれた。
 だがロックは素直に頷きがたい理由が二つあった。一つはもちろんフィービのことで、物置部屋で別れて以来、リーナス邸ではその姿を見ていない。脱いだ服を預けているのもあるし、そもそも宴の間どう過ごしていたのかも気がかりだった。無論、彼が腕利きの傭兵であるなら無用の心配なのだろうが――。
 もう一つの理由は、やはりエベルとグイドのことだ。
「お二人だけでお話をされるのですか?」
 馬車までの道を歩きながら尋ねれば、エベルもどこか物憂げに答える。
「ああ。私の屋敷で話をしたいと言われたよ」
「エベルの?」
「ミカエラには、どうしても聞かれたくないらしい」
 マティウス邸に舞台を移し、二人はどんな会話を交わすのだろう。少なくとも穏やかなひとときにはなり得ないことは、ロックにも察しがつく。
 それどころか、もしかすれば。
「お供しては駄目ですか?」
 ロックの口から、そんな言葉がついて出た。
 それにはエベルも驚いたようだ。足を止め、瞬きをしながらロックを見やる。
「あなたがか?」
「その、何のお役にも立てないことはわかっていますが、どうしても気になって……。何ならフィービと一緒に伺います」
 共に立ち止まり、ロックは切々と訴えた。
 するとエベルは、嬉しさを隠しきれない様子で小さく笑う。
「あなたにこうも心配してもらえるとはな」
「笑い事じゃないです!」
 とっさにロックは声を張り上げた。
 エベルが金色の瞳を丸くしたが、構わず続ける。
「心配なのは本当です。でも、それだけじゃなくて」
 ロックの脳裏には、物置小屋で見たグイドの目の輝きが鮮明に焼きついていた。
 狂気を孕んだあの目つきは、もはや常軌を逸したものだった。彼がロックにした仕打ちはもちろん許しがたいことだが、それ以上の何かに手を染めていたとしてもおかしくはないように映った。
 何を、かはまだ断定できない。だが胸騒ぎがする。ああいう目をした人間を、ロックは貧民街で何人も見てきたからだ。
「……とにかく、気になるんです。僕も一緒に行かせてください」
 それでもエベル相手にグイドを悪くは言えず、ロックは説明を省いて願い出た。
 エベルはそんなロックを、すっと目を細めて見下ろしていた。その眼差しは真剣で、ひたむきで、驚くほど純朴だった。ロックの心中を探るようなこともなく、ただ向けられた言葉を心から信頼している眼差しだった。
「ありがとう、ロクシー。あなたに出会えてよかった」
 やがて彼はそう答え、すぐに言い添えた。
「だが、だからこそあなた方を巻き込むわけにはいかない」
「そんな、でも――」
 食い下がろうとするロックの言葉を目で遮り、エベルは自らの胸に手を当てる。
 痛みを堪える微笑と共に、続けた。
「この身に呪いを受けた後、私はグイドにそれを打ち明けた。秘密を抱えていることに耐え切れなくなったからだが、グイドは恐れもせず、忌みもせず、呪われた私を受け入れてくれた」
 それは、ロックからすれば儚い夢のような交誼の話だった。
 つい先だって、その友情が粉々に壊されるのを見てきた後だ。あの二人にかつて人狼の呪いをものともしない絆があったのなら、何が原因で変わってしまったのだろう。
 変わったのはエベルとグイド、どちらなのだろうか。
「グイドは、私は私だと、そう言ってくれた。あの変わり果てた姿を見せた後ですら何も揺らがず、むしろミカエラを守る力を得たのだろうと励ましてくれた。婚約の解消も、最後まで反対してくれたのがグイドだった……」
 エベルもまた、甘い思い出を追い払うようにかぶりを振る。
「……だからこれも、呪いを受けた私の使命だ」
 彼の意思は固く、もはやせがんだところで翻意することはないようだ。
 止まない胸騒ぎを抱えつつも、ロックは彼の無事を祈るより他なかった。
「くれぐれもお気をつけて、エベル」
「ああ。あなたに心配してもらっている以上はそうしよう」
 エベルは案じる言葉一つにも、とても嬉しそうな笑みを零す。
 だがそれを見たロックの胸には一層の不安が募った。本当に、ひたすらに、彼のことが心配だった。

 二人はしばらく無言で、リーナス邸の夜の庭をゆっくりと歩いた。
 冷たい風が吹く夜更けだった。波打つように揺れる暗い芝生の上に、庭園灯の色とりどりの光が飛び交うように落ちていた。他の客人たちは肌寒さに身を竦め、遊歩道を足早に通り抜けていく。何組かの客人に追い越され、気がつけば辺りは人影もまばらだった。
 小さなアルカネットの花の青さも、夜の中では草の色と同じに見えた。遊歩道こそ光で照らされてはいたが、庭園の果ては夜闇にすっぽり呑み込まれたようで、目を凝らしても先行きはまるで見通せない。
 だからロックはエベルに寄り添って歩いた。怖くないと言えば嘘になるし、それ以上にもっと、何か悪い予感のようなものを抱いていた。絹のドレスは夜風には心許なく、すぐ傍の温もりからは離れがたかった。
 エベルは先刻ロックがそうしたように、背中に手を添えつつ、隣を歩き続けてくれた。

 やがて遊歩道の先に、数台の馬車が停まっているのが見えてきた。
 そこでエベルは立ち止まり、少し明るい声で切り出す。
「保護者の方がお待ちのようだ」
「えっ、フィービがですか?」
 ロックも目を眇めてみたが、彼の姿どころか、数台の馬車のどれがマティウス家のものかもわからない距離だった。
 だがエベルは確信した様子でロックに言う。
「あなたを待っているのが見える。では、私はここで失礼しよう」
 相変わらず、人狼閣下は抜群に夜目が利くようだ。
 ロックは感心しつつ、名残惜しさも感じつつ、改めて隣に立つ青年を見上げた。
 後ろに流した鳶色の髪は彼の端整な顔をより際立たせ、そこに浮かべた表情も今は優しい。呪いを受けたはずの金色の瞳は、それでもロックを見つめ返す時、さながら星の光のように冴え冴えときれいだ。
 夜空を見上げる気持ちでしばらく見つめていれば、エベルが困ったように表情を崩した。
「そんなに見つめられると、立ち去りがたいのだが……」
「あ……す、すみません。どうぞ、お構いなく」
 指摘されれば面映く、ロックはあたふたと目を逸らす。
 ただ、念を押す言葉だけは忘れず告げた。
「ですが、どうぞお気をつけて」
 それだけでは素っ気ないように思えて、もう少し付け足す。
「以前いただいた外套のご注文。心を込めて仕立てますから、ちゃんと受け取りに来てくださいね」
 これはこれで、酷く不器用な言い方だった。無事を祈る言葉は出尽くしてしまったし、あまり心配し過ぎるのも信頼していないみたいで失礼かもしれない。そんな思いから絞り出した、精一杯の気遣いだ。
 だから笑われても別によかったのだが、エベルは笑わなかった。
 代わりに、唐突に、ロックの身体を抱き締めた。
「えっ、わ、あ――」
 エベルの胸に引き込まれ、腕に強く抱き潰されて、ロックの口からはまともな言葉も出てこない。
 息も止まるような抱擁に尚も声を上げようとすれば、次の瞬間にはその口が塞がれた。
 人の姿をしている時の、エベルの唇は柔らかかった。
「……約束は守る。必ずあなたの元を訪ねよう」
 吐息と共に囁きかけた後、彼はロックの身体をそっと離した。
「さあ、行っておいで。そして……またな、ロクシー」

 別れの言葉に頷くこともできぬまま、ロックは一人、ぎくしゃくと歩き出す。
 夜風が温い。胸が苦しい。足元が覚束ないのも、着慣れないドレスのせいだけではあるまい。
 そして見送るエベルの方を、一度も振り返ることができなかった。
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