繋がれて、絡め取られて(1)
仕立て屋として人々を装わせてきたロックだが、この夜ほど『装う』ことの大きさを知ったことはない。エベルに手を引かれて大広間を進めば、たちまち大勢の紳士淑女に囲まれた。
「こちらの麗しいご婦人は、一体どちらのご令嬢で?」
「初々しい娘さんだこと。今宵が社交界への船出の日かしら?」
「なんて素敵なドレス! きっと名のある仕立て屋の意匠ね」
口々に誉めそやされ質問を浴びせかけられ、ロックは目を白黒させるのが精一杯だ。
ここに集う身分貴き人々が、普段のロックにも同じように関心を持つとは思えない。それどころか顔を顰められて追い払われるに違いなかった。美しいドレスには、取るに足りない小娘を貴族令嬢のように見せる魔力さえあるようだ。
「母方の遠縁の娘です。貴婦人の教育を受けている最中ゆえ、私が付き添いを務めております」
エベルは人々に対し、すらすらと出任せを言った。
「見ての通り社交慣れしていない娘です。皆様、あまりおからかいになりませんよう」
それで紳士淑女たちは一様に笑い声を立てたが、彼らの好奇心は尚も尽きず、エベルはしばらく質問攻めにあっていた。彼はその都度、人々が気に入るような軽妙な受け答えで質問をかわし続けた。
お蔭でロックが口を開く必要は一切なく、ただ彼らの驚きと羨望、賛辞に身を任せていればよかった。もっともそれが心地よいかと言えばそうでもなく、社交界どころかこの煌びやかな空気にさえ慣れていない。せめて後学の為、他の出席者のドレスの意匠を覚えて帰ろうと思っているが、シャンデリアの光が眩しすぎて一向に頭に入ってこなかった。
それに、グイドのこともどうにかして伝えなくてはならない。
本日の主役とその兄は、紳士淑女の壁に阻まれ、姿かたちも見えなかった。
グイドの度肝を抜くことには成功した。だが彼が逆上しないとも限らない。エベルに経緯を伝えるのなら早い方がいいだろう。
そこでロックは歓談の合間に、エベルの上着の袖をそっと引いた。
エベルがこちらを向いたところで目配せをすれば、彼も心得たように頷く。
「喉が渇いたろう、ロクシー。私が飲み物を選んであげよう」
やがてエベルはそんな口実で歓談を打ち切り、ロックを大広間の隅へ連れ出した。
そちらにはいくつかの食卓の上に酒類や軽い食事が用意されており、歓談に疲れた人々が挙って喉を潤している。酒類は一切嗜まないロックだが、酒瓶に貼られたラベルから、それらが帝都でも指折りの高級品であることはわかった。並んだ軽食もバターの香り高いビスケットや蜂蜜に浸したケーキ、それにザクロやイチジクの実など、庶民には贅沢な品ばかりだ。
「あなたは、お酒は飲めたかな」
エベルの問いかけにはわずかな期待も込められていたようだが、ロックはかぶりを振った。
「遠慮しておきます」
「それは残念だ。では葡萄を絞ったものを少しあげよう」
そう言うとエベルは給仕に命じ、葡萄の果汁を銀のゴブレットに注がせた。ロックの髪と同じ色をした果汁は水で適度に薄めてあり、程よい甘酸っぱさで渇いた喉に美味しかった。
「僕、こんな美味しいもの初めて飲みました」
ロックが感嘆の声を上げると、エベルは小さく笑った。
「『わたくし』の方がふさわしいのではないかな」
「あっ、わ――わたくし……?」
倣って口にしてはみたものの、どうにも言い慣れない。こんな上品な物言いはついぞしたことがなかった。
「あなたは今宵の注目の的だ。誰が聞いているとも限らない」
諭すように言ったエベルが、その後で改めてロックを見下ろす。
「それにしても、あなたの美しさは想像以上だ……」
彼の金色の瞳は、酒も飲まぬうちから酔いしれたような熱を帯びていた。
「今のあなたは暁の女神と呼ぶにふさわしい」
耳元で囁かれれば、ロックの耳朶にもその熱が移る。火照ったようになる。
「やだな、大袈裟ですよ」
「そんなことはない。あれほど皆が騒いだのが何よりの証拠だ」
恥じらうロックに対し、エベルは艶っぽく畳みかけてきた。
「叶うなら女神たるあなたと共に、本物の夜明けを眺めたいものだな」
初々しさだけは見た目通りのロックは、その口説き文句にあっさりと狼狽した。正装のエベルから目を逸らし、慌てて言い返す。
「そ、それよりも! もっと気にすべきことがあるのでは?」
「輝かしいあなたよりも注意を払うべきものが他にあると?」
聞き返してくるエベルは余裕綽々だ。
「あります。そもそも、僕が――」
「『わたくし』」
「――わたくしが、なぜここにいるのかを聞いていただきたいです」
言葉づかいを正されつつも、ロックはそう切り出した。
事実を彼に全て伝えるのは少々気が重い。ロックにとっては憎いばかりのグイドだが、エベルにとってはそうではない。以前も思ったことだが、告げ口をするような罪悪感もあった。
だがエベルはその瞬間、おおよそを悟ったように眉を顰めた。そしてロックが次の言葉を継ぐ前に、今度は短く囁きかけてきた。
「グイドか?」
やはり、察していたようだ。
ロックはゆっくりと首肯した。
「はい」
それでロックは事の次第をエベルにも打ち明けた。さすがにフィービに対してそうしたように、何もかも洗いざらいというわけにはいかなかったが――それでもドレスを届けるだけという依頼だったこと、ミカエラのものとして注文されたドレスを着るように言われたこと、そしてグイドの目的がエベル自身の変心にあったことなどは漏らさず告げた。浴びせかけられた罵倒の言葉の数々はあえて胸の奥にしまっておいた。
何にせよ、エベルを憤らせるには十分だったようだ。
「……グイドが、あなたにそこまでの振る舞いを」
震える息を吐いた後、形のいい眉を吊り上げてみせる。
「ましてや私の目の届かぬところでとはな。守ってやれなくて済まなかった」
「いいえ。いろいろありましたが、ひとまずは無事ですから」
ロックが苦笑すれば、エベルは苦痛を堪えるような顔をする。
「あなたの強さが私の救いだ。今となっては……」
端整な面立ちが歪んだのは、友に裏切られた悲しみからだろうか。目を伏せた悲愴な横顔は大理石の彫刻のように触れがたく、今度はロックが見入る番だった。
しかし次の瞬間、エベルは目を開き、決意の表情になる。
「――彼奴はもう、友ではない」
そう呟いたエベルに対し、ロックはかける言葉も思い浮かばない。
多感な少年時代に受けた呪いは、彼から多くのものを奪ってきた。その苦しみを分かち合ってきたはずの旧友さえも失おうとしている今、エベルが受けた心の傷は察するに余りある。
「エベル……」
ロックは言葉も見つからぬまま、その名を呼ぶことしかできない。
そしてエベルが縋るような目を、ロックに向けた時だった。
人で賑わう大広間に、再びざわめきのさざ波が広がった。
二人が揃って振り返れば、自然と割れた人垣の間をこちらへ近づいてくる姿がある。ミカエラとグイドだ。
ミカエラは人々からの祝福の眼差しに可憐な笑みで答えつつ、視線を巡らせ誰かを探しているようだった。その目がやがてエベルとロックに留まれば、あどけない顔が一層輝く。
「お兄様、あちらです!」
それにグイドが何と答えたかは聞こえなかったが、密かに忌々しげな顔をしたのは見えた。
そんな兄の胸中など露知らず、ミカエラは兄の手を引いて真っ直ぐこちらへやってくる。
当然、ロックは緊張した。
エベルもそれを察してか、素早く前に出て背中に庇ってくれた。
ミカエラはそんな二人の反応に怪訝さを見せたものの、傍まで辿り着いた時にはすっかり笑顔になっていた。
「仕立て屋さん、やっぱりあなただったのね」
エベルの背後にいるロックを覗き込むようにしながら、愉快そうな声を上げている。
「エベルが、見たこともないくらいおきれいなご婦人を連れているんですもの。あれはどなたって皆が噂し合っていたけど、わたくしはじっくり見たらあなただってわかったわ」
謎かけを解き明かした子供のような無邪気さで、ミカエラは続けた。
「そういえば、採寸をお願いした時に言ったわよね。あなたは男の仕立て屋さんのような気がしないって。そういうことだったのね」
普段なら彼女の朗らかさ、屈託のなさは耳に心地よいものなのだろう。
だがロックがその身を竦ませ、エベルが表情を凍らせている今、彼女のはしゃぎようもどこか上滑りしていた。
「お兄様もエベルも、わたくしを驚かせようと黙っていたのでしょう。でも酷いです、わたくしだってこのドレスの仕上がりを楽しみにしていたのに――」
ミカエラはそこまで言うと、手を引いてきた兄を振り返り、
「ねえ、お兄様?」
拗ねるような目つきを彼に向けた。
そしてすぐに、その瞳が驚きに瞠られた。
グイドの厳格そうな顔に、悔しさと憎しみの色が満ち満ちていたからだろう。
「……なぜ、黙っていた」
声の端を微かに震わせながら、グイドが尋ねた。
冷徹な黒い瞳はただ一人、エベルしか捉えていなかった。
「その女が男だと、なぜ私を欺いた」
重ねられた問いに、エベルもまた心のこもらぬ声で応じる。
「あいにくだが、私も先程知ったばかりだ」
彼の背後で、ロックは密かに頷いた。
だがそれが見えたかどうか、グイドは怒りに顔を紅潮させた。
「嘘をつくな」
「嘘ではない。それよりもグイド、欺いたというならお前はどうだ」
エベルが冷静であろうと必死なのが、強張る背筋からよくわかる。
ロックにはただ、その背中を支えるように手を添えることしかできない。
「お前の所業は彼女から聞いた。今ここで、お前が愛するミカエラの前で全てを詳らかにしてやろうか」
脅しめいたエベルの言葉に、グイドはわずかながらに動揺したようだ。
だがそれ以上に動揺したのは、ミカエラの方だった。
「お、お兄様……? エベルも、何のお話をしているの?」
急に不安を抱いたように、兄と元婚約者の顔を見比べている。もっともその疑問に、二人とも答える余裕はないようだった。
「ミカエラ、お前は向こうへ行っていろ」
グイドが声を尖らせ、妹を追い払おうとする。
するとミカエラは血相を変え、兄の腕に縋りついた。
「どうして? ミカエラには何のことかさっぱり――」
「説明は後だ。私はエベルと話がある」
「そうやって、自らの恥と過ちを虚構で塗り固める気か」
エベルはそんなグイドを挑発的な物言いで批判した。
途端、グイドが瞳を見開き、
「黙れ!」
大広場中に響き渡る声で一喝した。
当たり前ながらその怒声は多くの人を驚かせ、楽団の演奏を止め、客人らの注意を集める結果となった。祝宴の場に溢れていた華やかな空気さえも一変し、何もかもが氷の中に閉ざされたように冷え込んだ。
それでもエベルは全くたじろがず、その背後でロックは跳び上がり、そしてミカエラはうろたえながら兄に訴えた。
「お兄様、喧嘩なんておやめになって……!」
だがグイドは強くかぶりを振る。
「これもお前の為だ、ミカエラ。エベルの目を覚まさせてやる必要がある」
「でもお兄様、今日はわたくしのお誕生日です!」
ミカエラの悲痛な声に、大広間中を動揺のざわめきが覆った。先程までとは違い、肌を刺すような視線がほうぼうから投げかけられ、ロックは居心地の悪さを覚えた。無論、突然の怒声に祝賀の空気を乱された人々の方が居心地は悪いはずだ。
その空気を感じ取ってか、エベルは声を潜める。
「ミカエラに免じて、この宴席の間は黙っていてやる」
だがはっきりと、少なくともグイドには伝わるように語気を強めた。
「ただ覚えておけ、お前との交誼も今宵限りだ」
それが脅しでないことは、声音の真剣さからもよくわかる。
グイドは、そこで初めて呆然とした。今の今までその可能性には思い至らなかったというように、気の抜けた様子でエベルを見返す。
「何を……」
「前に警告していたはずだ。『彼女』への二度目の侮辱を、もはや許すことはできない」
エベルは決然と言い放った。
それはグイドを少なからず打ちのめしたようだ。厳格そうな顔から血の気が引き、紙のように白くなる。かと思うと急に踵を返し、ミカエラの手をやんわりと解き、そのままふらふらと歩き去っていく。
「お兄様……!」
ミカエラは兄を引きとめようと手を伸ばし――かけて、なぜかすぐにやめてしまった。