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我が愛しのフロリア嬢(4)

 それから数日間、ロックの周囲は平穏そのものだった。
 彫像の始末をつける必要があったからか、エベルはその間、店を訪ねては来なかった。ロックの方も急ぎの仕事があった為、数日間は店にこもりきりだった。公爵令嬢ミカエラ・リーナスの夜会服は、来月の誕生日に間に合わせる必要があったからだ。
 以前注文を受けたエベルの外套も含めて、それ以外に急ぎの注文はない。だからロックもドレスの仕立てに集中した。その間、フィービが食事や店番などの世話を焼いてくれて、仕事がしやすいように取り計らってくれた。

 そうして月が替わる頃、ロックが思い描いたような美しい夜会服ができあがった。
 手に入れられる限りで一番上質の絹を使用したドレスは、夜明けの空を思わせる淡い紫色をしていた。当世流行の型を真似て首の後ろでリボンを結ぶドレスは、ミカエラの印象に合わせてたおやかな細身に仕立ててある。スカート部分はあまり膨らませず脚線に沿って落ちる仕立てだが、ふんわりしたかぎ編みの紗を重ねて身体の線を拾いすぎないようにした。袖口は若いご婦人に人気のごく短いもので、そこにも繊細な絹のかぎ編み生地を用いて、肌を見せつつも可憐なドレスに仕上がった。
「いいじゃない。思ったより上品に仕上がってる」
 ドレスの完成に立ち会ったフィービも、実に満足げな溜息をつく。
「それにとてもきれいな色……。夜明け色って素敵ねえ」
 今は陳列に用いる籐製の胴体人形に着せているが、ミカエラが身にまとえばそれはそれは美しい装いとなるはずだ。ロックとしても他の仕事同様、心を尽くして仕立てたものだけに、気になるのはミカエラよりもその兄の反応だった。
「ご子息にも気に入っていただけるといいけど」
 懸念まじりにぼやけば、フィービは美しい眉を逆立てた。
「気に入らないってほざいたら代金突っ返してやりましょ。そしてあたし用に仕立て直してよ」
「そんなに気に入ってくれた?」
 ロックは嬉しくなって聞き返す。
「ええ、あたしは大好きよ。胸があったらこういうのも着こなせたんでしょうけどね」
 いささか残念そうに答えた骨太のフィービは、ふとロックに目をやった。
 しげしげと眺め下ろした後でこう続ける。
「もしかしたら、あんたの方が似合うかもね」
「僕? まさか!」
 ロックは笑い飛ばしたが、フィービは冗談でもない調子だ。
「あんただって年頃なんだし、手入れすればきれいになるわよ」
「どうかな。僕、こういうの着たことないし」
「それにミカエラ嬢とあんたは歳も、背格好も近いじゃない」
 言われてみればミカエラ・リーナスは今月でロックと同じ二十歳だ。そして背丈もほとんど変わらない。体型の細かな箇所の差異はあれど、できあがったドレスを見てフィービが想像を巡らせるのも自然なことではある。
 ただロックにとってドレスはあくまでも商品、自分で着る事態など想像もつかない。母との約束が叶えられていたら違ったのかもしれないが。
 思い出したロックが浮かない顔をすると、
「ほら、変なこと考えない。せっかく作ったのよ、何にせよ無駄にはさせないわ」
 フィービは元気づけるように背中を叩いてきた。
 それでロックも様々な思いは振り払い、今はドレスの完成を喜ぶことにする。
「ありがとう、フィービ。傍にいてくれて、いつも本当に助かってるよ」
「何言ってるの、当然のことよ」
 その時、フィービはどこか照れているようだった。

 ドレスが仕立て上がったその日の夕方、エベルが数日ぶりに店に現れた。
「時間が少し取れたから、報告がてら顔を見に来た」
 ロックに対してそう語った後、肩の荷が下りたような顔で続ける。
「あの彫像は粉々に壊しておいた。やはりあれが近くにあると、人狼の呪いはその効力を増すようだ。お蔭で彫像を壊すのがたやすかったが」
 どうやらヨハンナは無事に彫像を持ち帰ったらしい。エベルの説明だけでは、それがマティウス邸に持ち込まれた後の経過は想像しがたかったが、それなりに手間取ったらしいことは彼の表情から窺えた。だが結果的にあの彫像は滅され、エベルにも平穏な日々が訪れていたようだ。
 そのエベルも、店に展示していたミカエラのドレスには感嘆の息をついていた。
「暁色のドレスか、これは素晴らしい出来映えだ……!」
「ありがとうございます、エベル」
「全く、あなたの仕立ての腕には感服するな。本物の夜明け空ですらこうも美しくはあるまい」
 エベルの賞賛の言葉は、ロックには少しくすぐったく、そしてやはり嬉しかった。
 だがフィービはと言えば複雑な面持ちで、エベルに対しこう言った。
「けど閣下、これはミカエラ嬢がお召しになるものなのよ」
「聞いているとも。それが何か?」
「グイド・リーナス卿はこれを妹君に着せて、閣下を誘惑させるおつもりだそうだけど?」
 フィービの口調には警句めいた手厳しさが滲んでいる。
 それに対し、エベルは明るく笑い飛ばしてみせた。
「心配は要らない。私の心は既にロックのものだ」
 そしてロックに向き直り、目配せと共に言い添える。
「あなたには言っておいたな、ミカエラは私の妹のようなものだ。誘惑されることなどあり得ない」
 ロックは言葉もなく俯いた。気にしていなかったと言えば嘘になるが、エベルにそう言われると何と答えていいのかわからない。
 ただ、そんなエベルにもいくらかの懸念はあるようだ。
「実は、今月のミカエラの誕生祝いの席に招かれている」
 そう言って、端正な顔を悩ましげに歪めた。
「ミカエラのことは言った通り、心配要らない。だがグイドの態度はどうも引っかかる。あなたにミカエラのドレスを仕立てさせたことも含めてだ」
 ロックとしても、あれほど自分を見下しておきながらわざわざ店まで訪ねてきて、あまつさえ妹のドレスを仕立てさせたグイドに不可解さを覚えていた。
 懸念している通り、仕立ててから難癖をつけてくるつもりなのかもしれないが――。
「私も気を配るが、もしグイドがあなたに無礼を働いたなら、その時は言ってくれ」
 去り際にエベルは、念を押すようにロックへ告げた。
「彼は友人だが……あなたを傷つけるようなら、容赦はしない」
 珍しく笑いがないエベルの表情から、ロックは密かに、決意の色を読み取っていた。

 ドレスが仕上がった翌日、ロックはリーナス家に使いを出した。
 仕立て屋の仕事は服を作れば終わりではない。ことドレスに関しては細かな調整も必要になる為、引き渡しの前に必ず試着が必要になる。その日程も含めての問い合わせだった。
 グイドからはその日のうちに返答があり、ドレスは数日後に控えたミカエラの誕生日に届けて欲しいこと、当日は貧民街の入り口まで馬車を迎えにやるから、必ず仕立て屋一人がそれに乗り、リーナス邸まで来て欲しいことなどが書面に記されていた。
 その尊大な依頼を読み、フィービはあからさまに顔を顰めた。
「あの坊っちゃんはどこまで偉そうなんだか!」
「実際、偉いんだよ。公爵子息なんだから」
 ロックはそう言ってフィービをたしなめたが、彼女は純粋に心配してくれているようだ。
「行く気なの? 嫌な気分になるだけかもしれないわよ」
「嫌な気分だけでお金が儲かるならありがたいよ」
 気が乗らないのも事実だが、請け負った仕事を途中で投げ出すことなどできない。ロックとしてはせっかく仕立てたドレスが無駄にならないこと、それだけを願うのみだった。
「ついてってあげましょうか?」
 フィービはそうも言ってくれたが、グイドの依頼には『ロック・フロリア一人のみ』とある。ついてきてもらったところで馬車に乗るのを拒まれるだけだろうし、それでフィービまで不快な気分にさせたくない。
「平気だよ。フィービは店をお願い」
 ロックが笑うと、フィービは尚も安心できないというように告げてきた。
「もし帰りが遅いようなら、あたしが迎えに行ったげる」
「貴族特区だよ? 歩きで来るのは無理だよ」
「いざとなれば何でも使うわよ。ね、だから頼りにしてちょうだい」
 どこか縋るようですらある彼女の物言いに、大げさだと思いつつもロックは頷いた。
「わかった。いざって時はお願いするね、フィービ」
 グイドからすればロックは邪魔者でしかないはずだ。祝うべき妹の為の宴席に、その邪魔者を長く留め置いたりはしないだろう。内心ではそう高をくくっていた。

 そして迎えたミカエラの誕生日当日、ロックはドレスを納めた箱を抱え、日暮れ前に出発した。
 フィービに見送られつつ店を出て、貧民街と帝都市街とを繋ぐ門へと向かう。そこには手筈通りに馬車が待っていて、近づくと御者が声をかけてきた。
「ロック・フロリアだな。乗れ」
 マティウス家の御者イニエルとは違い、リーナス家の御者はあからさまにロックを疎ましがっていた。できることなら乗せたくないという顔で顎をしゃくり、荷物を抱えるロックに対し馬車の扉を開けてもくれない。お蔭で乗り込むのに随分と手間取ってしまった。
 ロックを乗せた馬車は帝都の街並みをひた走り、皇帝の居城が沈む日に赤く染まり始めた頃、ようやく貴族特区に差しかかった。
 マティウス邸に招かれた時、もう二度とお目にかかることはないと思っていたあの美しい街並みが、今日は一面夕映えに染まっている。ロウソクの揺れる炎のような赤々とした光の中、見慣れぬ街区は酷くよそよそしく映り、一人ぼっちのロックをにわかに寄る辺ない気持ちにさせた。

 やがて、馬車は一軒の邸宅の庭で停まった。
 マティウス邸よりも更に豪奢なその屋敷は、城を模したような四つの尖塔を持った広大な造りをしている。庭は街路の一角のように美しく整えられていて、石畳の遊歩道に屋根つきのあずまや、小さな噴水まで設けられている。マティウス邸で見かけた青いアルカネットはここの芝生にも敷き詰められていて、夕風にどこか物寂しく揺れていた。
 馬車から降りたロックはドレスの箱を再び抱え、リーナス邸の玄関へと向かった。
「ああ、例の仕立て屋ですね」
 迎えに出た使用人には話が通っているようで、ロックが名乗る必要もなかった。
「入ってすぐの階段を上がり、三階突き当たりの客間へ。他の部屋には入らないように」
「かしこまりました」
 素っ気ない指示に一礼した後、ロックはリーナス邸に足を踏み入れた。目映いシャンデリアが灯る中央階段を、箱を両手で持ち上げながら慎重に上る。
 途中、踊り場で客人と思しき男女とすれ違った。二人は今日の宴席の為にか華やかに盛装しており、壁際に避けて先を譲ったロックを胡乱げに見つつ去っていった。ロックとしても自分が場違いなことは承知していたが、まだ二度目でしかない貴族の邸宅に早くも呑まれつつあった。

 階段を三階まで上りきり、突き当たりの客間を目指して廊下を歩き始めた時だ。
 不意に途中の扉が開いて、
「あら、仕立て屋さん?」
 ミカエラの怪訝そうな声がした。
 そちらを振り向いたロックは、思わず絶句した。
 一室から姿を現したミカエラは、既に美しいドレスを身にまとっていた。黒髪に似合う紫色のドレスは、一目見ても分かる最上級の本繻子で仕立てられている。詰襟に広がった袖に膨らませたスカートと、女司祭のように古式ゆかしい型のドレスは、ロックが受けた注文とは正反対の清楚さだ。細く絞った腰には細い金の鎖をサッシュのようにあしらい、ボタンの一つ一つも美しい金製だ。絹をふんだんに使用したスカートを波打たせ、ミカエラはロックに歩み寄ってくる。
「本日はどうしてこちらへ?」
「どうして、とは……僕はご注文の品をお届けに上がったのですが」
 ロックが答えると、ミカエラはますます不思議そうな顔をする。
「ドレスのことなら、違う仕立て屋さんにお願いしました。何も聞いていないの?」
 何も聞いていない。
 呆然とするロックの前に、ミカエラの影のようにグイドが現れた。やはり正装姿の公爵子息はロックを見るなり嘲笑を浮かべたが、その笑みは妹を見た瞬間に柔らかいものに変わった。
「ミカエラ。今日はこの仕立て屋にもお前を祝ってもらうことにしたのだ」
 グイドの言葉にロックはもちろん、ミカエラも酷く驚いたようだ。口元に手を当てて聞き返す。
「まあ……でも、どうして?」
「彼はエベルの友人でもあるからな。招けばエベルも喜ぶはずだ」
「そういうことなのね。エベルのお友達なら、私たちにとっても大切な人よ」
 無邪気に微笑んだミカエラは、事態を呑み込めないロックに明るく告げた。
「来てくださって嬉しいわ、仕立て屋さん。今宵はどうぞ楽しんでいってちょうだいね」
「え? あの、一体どういう――」
 どういうことなのかと、ロックは尋ねようとした。
 注文のドレスを不要と言われただけでなく、自分が宴席の招待客だと言われてしまった。もちろんそんな話は何一つ聞かされていなかったし、それにふさわしい立場であるとも思っていない。そもそもグイドのような男が、身分卑しい貧民街の仕立て屋を進んで招きたがるだろうか。
 何かが妙だ。そう思って追及しようとしたのだが、
「ミカエラ、お前はご挨拶があるだろう。先に行っていなさい」
「はい、お兄様。それでは仕立て屋さん、また後で」
 グイドはミカエラを優しく送り出し、ミカエラも上機嫌で立ち去った。
 妹の姿が廊下の向こうへ消えるのを見届けた後、グイドは声を急に冷え込ませた。
「さて、仕立て屋。お前の部屋はそこだ」
 そして廊下の突き当たりの部屋を目で示す。
「その荷物を持って中に入れ。さっさとしろ」
 釈然としないまま、ロックは命令に従うしかなかった。
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