我が愛しのフロリア嬢(3)
「運命だなんて……」ロックはその単語を戸惑い気味に繰り返した。
エベルが呪いを受けることも誰かが定めた運命だというなら、それはあまりにも残酷に思える。彼がその身に受けた呪いで失くしたものは一つ二つではないはずだ。
だが人狼のエベルは諭すように、優しく告げてくる。
「あの日受けた呪いが、あなたと恋に落ちる運命の契機だった。私はようやくそれを受け入れられそうだ」
「こ、恋に落ちてはいませんが!」
フィービの手前、そういう話は気恥ずかしいのでしたくない。慌てて否定したロックだが、その時、脳裏にひらめくものがあった。
「あなたは確か、傭兵に話を聞いて回っていると仰ってましたね。もしかして彫像を見つけた傭兵を探していたんですか?」
十数人に及ぶ傭兵、そして元傭兵に会い、話を聞いたと言っていた。
その過程でロックの父フレデリクスについても尋ねてくれたということだったが――エベルの目的もまた、ロックと同じだったのかもしれない。
「そうだ」
予想通り、エベルは頷いた。
「あの彫像が他にもないことを確かめる為に。もしあるならその所在を突き止め、呪いが解き放たれる前に破壊する為に、私はその傭兵を探していた」
そこで人狼の金色の目は、黙りこくっているフィービに注がれた。
「少し前からそうではないかと予感していたのだが、見事に当たったようだな」
「そうでしたか……」
ロックは思わず深く息をついた。
エベルが探し求めていた人は、ロックの父は、もういない。
もしこの場にいたなら、彫像についてじっくり尋ねることもできただろうに。エベルの知りたい情報が全て手に入ったかもしれないのに。
「父が、いてくれたらよかったのですが」
呟くと、ロックの胸には言いようのない切なさが込み上げてくる。
これまでに何度となく思ったことを、今日もまた思った。父がいてくれたらよかったのに。
「ああ、そうだな。私もずっとお会いしたいと思っていた」
同意しつつ、エベルの視線はフィービから動かない。
それを追うようにロックもフィービを見上げて、縋るように訴えた。
「ね、フィービは何か聞いてない? 彫像を見たことがあるんなら、父さんが何か話してたりとか――」
フィービはその瞬間まで、唇を結んで人狼を見据えていた。だがロックの言葉には少しだけ笑って、続きを制するように頭をぽんと叩いてきた。
「フィービ?」
返事代わりの仕種を怪訝に思うロックをよそに、フィービは改めてエベルを睨む。
「彫像は一つしか見つけていない」
そして睨みを利かせながらも、すらすらと答えた。
「あの遺跡に目ぼしいものはあれだけだった。聞いた話じゃ、教団が隠れ家にしていた場所だそうよ。恐らく本神殿は別にあるんでしょう」
「……と、フレデリクス殿が言っていたわけだな?」
エベルがそう聞き返し、フィービは舌打ちをしてから顎を引く。
「そうよ」
「ご協力に感謝する、フィービ」
人狼が折り目正しく一礼した。
フィービはそれすら気に入らないという様子で、栗色の髪を荒っぽくかき上げる。
「で? 閣下はどうするおつもり?」
「無論、彫像探しは続ける。見つけ次第破壊する。それだけだ」
「それだけ?」
鋭く聞き返されても人狼の表情は動かなかったが、微かな吐息が漏れるのがロックにも聞こえた。
「他には……そうだな」
続いた声も、どこか愉快そうに弾んでいる。
「私が今後もロックに会いに来ることを許してもらいたい。今はそれだけでいい」
「……え?」
急に話題が変わったように思えて、ロックは気の抜けた声を発した。
だがフィービは過敏に反応し、エベルに対して威嚇するように歯を剥き出した。
「『今は』? 切り札を握ったつもり?」
「誤解しないでもらいたいな、フィービ」
エベルは余裕たっぷりにかぶりを振る。
「私の想いは真剣なものだ。強請まがいのことはしない」
「信用していいんでしょうね?」
「無論。ロックの大切な人は、私にとっても大切な人だ」
「……ふん」
エベルとフィービが交わす会話は決して難解ではないのだが、どういうわけかロックにはよくわからない。
切り札とは何のことだろう。強請だの、信用だの、穏やかではない単語も飛び出しているようだが。
ただ、
「いつか結婚の許しを貰う相手だ。大切にさせていただかなければな」
エベルがそう続けた時には、フィービと揃って跳び上がった。
「結婚だと!」
「け、結婚って!」
揃った二人の驚きように、人狼は毛深い肩を揺すって笑ってみせる。
「あなたたちは息もぴったりだな。素敵なお二人だ」
そして笑いながら、楽しそうに言い添えた。
「この運命に感謝している。あなた方にもそう思ってもらえるといいのだが」
その後、エベルはロックから着替えを受け取り、人の姿になって帰っていった。
もちろん黙って去ったわけではなく、更なる来訪の約束、そして間隙を突いてロックの手の甲に口づけていくことも忘れなかった。
「今日のうちに使いを出す。それまでは彫像を頼む」
真面目な調子で言い残されれば文句を言うこともできず、手を取られたロックはただただ頷くばかりだった。
エベルが去った後、ロックとフィービは『フロリア衣料店』へ向かった。
「例の彫像を見せてちょうだい」
店を開ける前にフィービがねだったので、ロックは金庫を開けて、しまっておいた白い石灰石の彫像を見せた。
ざらついた手触りの、不気味な貌をした彫像をフィービはためつすがめつした後、
「確かに、同じものだわ」
沈痛な面持ちで呟いた。
「こいつが呪いの彫像とはね……何も知らなかったわ」
「父さんも、何も言ってなかった?」
ロックが問うと、美しい顔に困ったような微笑が浮かぶ。
「ええ。知っていたのは潜った遺跡が、人狼教団の隠れ家だったという情報だけ。それとそこで見つけた品を、マティウス伯なら高く買ってくださるって話だけね」
「ふうん……」
フィービは父の仕事内容についても、詳細にわたり知っていたようだ。エベルの話では彼女の傭兵時代を知る者とは出会えなかったそうだが、トリリアン嬢の証言もある。やはり彼女が父フレデリクスと公私両面で親しかったのは間違いないようだ。
「人狼教団っていうのはね、古代において虐げられていた人々が築いたものだそうよ」
ぽつぽつと、記憶を辿るようにフィービが続ける。
「当時でさえ実在が疑われていた人狼に焦がれ、いつかその力を得ることを夢見ていた人々の集まり――だけどまさか、本当に人狼になる力を得ていたとはね」
「人狼に憧れるの? 自分の姿が変わっちゃうのに?」
エベルを見てきたロックにとっては信じがたい事実だが、フィービはたしなめるように言った。
「そうまでしないと抗えない相手だったってことよ」
「だったとしても、失うものだってあるのに」
「まあ、間違った力を欲したことは事実でしょうけどね」
それから彼女は彫像を金庫にしまい直し、きっちりと施錠をした。
錠が外れないことを何度か確認した後、深く嘆息する。
「にしても、運命ね……」
「不思議な巡り合わせだよね。父さんが彫像を見つけた人なんて」
ロックは苦笑した。エベルが受けた苦しみを思えば、彼自身のようにこの運命を喜ぶ気にはなれない。
父のせいではないことはわかっている。当然ながらエベルのせいでもないだろうし、彼の父親も故意にやったことではなかっただろう。そのことをロックは酷く切ないと思う。
だが、フィービの胸中には別の思いが過ぎっていたようだ。
「ロック、一応聞いておくわね」
「なあに?」
真顔の問いに聞き返すと、彼女はまた溜息をついた。そして口調だけはいやに真剣に、こう切り出した。
「閣下のことは、今はどう思ってるの?」
「え!? ど、どうって――」
その質問だけで、ロックは呆気なくうろたえた。
途端にフィービの眉が吊り上がり、唇をつんと尖らせる。
「随分慌てるようになったわね」
「違うよ! 別に好きになったとかじゃないし!」
頬が赤らむのを自覚しつつも、ロックは真っ向から否定した。
ただフィービがじっと見つめてくるので、正直な内心は打ち明けておく。
「そういうんじゃないけど……閣下といると、僕と似てるなって思うことはある」
彼に寄せる思いは、強いて言うなら共感なのだと思う。
「閣下はお父様の手違いで呪いにかかってしまって、だけどお父様のことを今でもすごく愛していらっしゃるんだ」
呪われた身に思い煩うことはあれど、エベルの口から父親に対する恨み言は一度として出てきていない。もちろん複雑な思いもあるに違いないが、それも含めてロックとエベルはよく似ている。
「僕もそうなんだ。父さんには思うこといっぱいあるけど、絶対に嫌いにはなれない」
自分の為に財産を遺してくれたことを嬉しく思う。
腕のよさで名高い傭兵だったことを誇りに思う。
そして母が、別れた後も父だけを愛し続けたその事実を、大切にしたいと思う。
「会ったこともない人だけど、愛してるんだ」
父の恋人だったフィービに打ち明けるのは、少しばかり罪悪感もあった。
だがフィービならそれすらも許してくれるのではないかと、甘えも含めてロックは考えていた。
「ロック……」
その瞬間、フィービは雷に打たれたようにびくりとした。
そして打ち震えながらロックを見つめ返してきた。表情は強張り、青い瞳を微かに潤ませ、言葉に詰まったように唇を引き結んだ。何か言いたいのに、何も言えない様子に見える。
「フィービ……?」
ロックが恐る恐る名を呼べば、彼女は我に返ったように顔を顰めた。
「悪いこと言わないわ。結婚なんてまだ早いわよ、ロック!」
「えっ、な、何だよ急に!」
「まだ二十歳でしょう、気が早い! 急ぐ必要なんてないんだから!」
「そもそもするとも言ってないよ!」
気が早いのはどっちだ。ロックは大慌てで否定したが、フィービはやけにロックの行く末を気にしていたようだ。その後しばらく、結婚の意思について問いただされた。
その日の夕刻、『フロリア衣料店』にはエベルの寄越した使いが現れた。
「きゃあ、ロック様! お久しゅうございます!」
大はしゃぎで店に駆け込んできたのは、マティウス邸で一度顔を合わせた金髪の小間使い、ヨハンナだ。
ロックより幼いであろう彼女の登場に、ロックはもちろん、フィービでさえもが呆気に取られていた。
「あんたが閣下の使いですって? 大丈夫なの?」
「ご心配には及びません、イニエルも一緒ですので!」
その名前にロックは聞き覚えがなかったが、ヨハンナが店の窓越しに指差す先には馬車が停まっていた。白馬の二頭立ての立派な箱馬車に見覚えのある男が座っている。ロックたちがマティウス邸に招かれた際、迎えに来てくれたあの御者だ。
「ではロック様、例の彫像をお預かりいたします」
ヨハンナがやけに張り切っているので、ロックは金庫を開け、人狼の彫像を引き渡した。
彼女はそれを柔らかい布で丁重に包んだ後、更に布袋へと厳重にしまい込んだ。
「確かに」
深々と頭を下げたヨハンナは、その後で愛らしい表情を輝かせた。
「ところでロック様、昨夜は閣下をお泊めになったのでございましょう?」
ずいっとにじり寄るなりそう問われ、ロックは慌てふためいた。
「そ、そうですけど……」
嘘ではないので肯定すれば、ヨハンナはいよいよ興が乗ってきたというように頬を紅潮させる。
「ああ、やはり! 恋人たちが一つ屋根の下で過ごす一夜、何て素敵な響きでしょう!」
「あの、ですから、僕と閣下はまだ――」
「よろしいのです、皆まで語っていただかなくても!」
ロックの弁解をきっぱり遮ると、しかし彼女は声を落としてこう尋ねてきた。
「ただ一つだけ教えていただきとうございます。閣下とロック様は、どちらがどちらなのでございますか?」
その質問の意味を、ロックは当然ながら理解できなかった。
「どういう、意味でしょうか」
聞き返せばヨハンナはもじもじしながら語を継ぐ。
「いえ、殿方同士の恋ともなりますと、やはり気になるのはどちらがどちらの役割を――」
「ちょっと待った! あんた、うちのロックに何聞いてんの!」
そこでフィービが間に入れば、ヨハンナはたちまち怯えたように首を竦めた。こわごわとフィービを見やり、それでも諦めきれない様子で言った。
「う、伺ってはなりませんか……?」
「駄目に決まってんでしょうが!」
フィービの一喝は覿面に効いたらしい。
「はあ……承知いたしました。しばらくは想像でやり過ごすことにいたします」
ヨハンナは彫像を納めた袋を抱え、妙にしょんぼりしながら店を出ていく。
小間使いを乗せた馬車が走り去った後、フィービはがっくり肩を落とした。
「閣下は何を思って、あの喧しい子を使いに出したのかしらね……」
ロックとしても多少の不安はあったが、それよりも気になるのは彼女の質問だ。
「フィービ、ヨハンナは何を聞きたかったのかな」
どうしてもわからずに尋ねれば、返ってきたのは溜息まじりの答えだった。
「わからないなら答えなくていいの。無視しなさい、無視」
それはそれで釈然としない回答だったが、何にせよ彫像を引き渡せたことにはロックも安堵していた。
金庫の中にしまっておいたというのに、なぜか背中に視線を感じて、気味が悪かったのだ。