あなたに伝えたいこと(2)
エベルが『フロリア衣料品店』を訪ねてきたのは昼過ぎのことだ。彼は店のドアを開けた瞬間からすでに笑顔だった。
そしてロックの顔を見ると、鼻歌でも口ずさみそうな上機嫌さで言った。
「手紙を読ませてもらったよ、ロック。ああも熱烈な懸想文をもらったのは初めてだった」
たしかに手紙には『どうしても会いたい』『なるべく急いで時間を作ってほしい』と記した。だがそれを懸想文と捉えられると、ロックとしてはいたたまれない気持ちになる。
思えばそういう手紙を送ったことは今までなかった。次からはもう少し愛を込めた文にしようと決意しつつ、ロックはおずおずと切り出す。
「本当に急いで来てくださってありがとうございます、エベル」
「なに、他でもないあなたからねだられてはな」
エベルはそこで照れたように微笑んだ。
「あなたの仕事が終わる頃に訪ねていくべきだったのだろうが、待ちきれなかった。邪魔はしないから、少しの間ここであなたを眺めていてもいいだろうか?」
彼の情熱的な一途さが今はひたすら申し訳ない。
ロックが言葉に詰まる横で、フィービは黙って店の戸口へ向かう。『営業中』の札を外してから戻ってくると、中から鍵をかけた。
それをエベルが不思議そうに振り返った時、ロックはようやく切り出した。
「あなたをお呼び立てしたのには理由があるんです」
「理由、とは?」
ここでようやく、エベルはロックとフィービの表情からただならぬ事態を察したようだ。形のいい眉をひそめた。
フィービがちらりとロックを見やる。
ロックは静かにうなづき、それから問いかけた。
「あなたは、ユリアという少女のことをご存知ですか?」
問われた瞬間、エベルは虚を突かれたような顔をした。
なぜそんなことを聞くのかわからないとでも言いたげな彼を、ロックは祈る思いで見つめる。
真実を知るために、自分とフィービの記憶のどちらが正しいかを解き明かすために、彼の答えはとても重要だった。彼が次に口を開くまでの時間がずいぶん長く感じられる。
フィービもまたじっとエベルを見つめており、ふたりの視線にさしものエベルも気圧されたようだ。訝しそうにしながら、ようやく答えた。
「ああ、無論存じ上げて――知っている」
肯定の言葉に、ロックとフィービは顔を見合わせる。
そしてフィービが肩をすくめた。
「閣下は覚えていらっしゃるようね、ロック」
そのようだ。
ならば、覚えがないのは自分だけなのだろうか。
「彼女がどうかしたのか?」
エベルから聞き返され、ロックは心細い思いで答えた。
「僕は彼女のことを知らないんです。フィービは、僕が彼女を家に連れてきたと言っているんですが、一切覚えがなくて……」
とたんにエベルの表情が凍りつく。
「知らないだと? まさか」
「本当です。あなたが来てくださるまでは、僕とフィービの記憶のどちらが正しいのかさえ判別つかなかったくらいで」
だが、その点だけはこれではっきりした。
ユリアという少女は実在していて、ロックだけがその存在を忘れてしまったことになる。
それからロックとフィービはふたりがかりで、戸惑うエベルに事情を話した。
ロックの記憶によると、あの日夕食に招いた相手はエベルひとりだけ。食事の後で彼を見送り、その足で店に立ち寄り花嫁衣裳の図案を描き上げた。そこに別の人物がいた覚えは全くない。
だがフィービはその晩、ユリアという少女もいたと証言している。来た時も彼女とロック、エベルの三人、そして帰り際も同様に三人で家を出ていったという話だ。
食い違うふたりの話に耳を傾けた後、エベルは険しい顔になる。
「私の記憶もフィービと同じだ。あの晩はたしかにユリアも一緒だった」
「やっぱり、そうなんですか……」
薄々予感はしていた。だが確信に至ると、今度は別の疑問が頭をもたげてくる。
なぜ自分はユリアのことをきれいさっぱり忘れてしまったのだろう。その存在自体を否定するかのように、一片の記憶も残さずに。
「本当に何も覚えていないのか? 彼女とは、あなたのほうがずっと親しかったはずだ」
エベルは信じがたい様子で尋ねてくる。
「あなたがたは互いを友人だと言っていた。知り合ったのはごく最近だと聞いていたが、それでも十分に気を許しあっているそぶりに見えた」
そう聞かされたところでロックも、何もない記憶を掘り起こすことはできそうにない。知らない相手とそれほどまでに交誼を結んでいたと聞くと、少しぞっとするほどだ。
「なんにも……本当に覚えがないんです」
ロックがかぶりを振るのを、エベルは目を見開いて見つめてくる。
「まさか、そんなことが……」
「僕と彼女が知り合ったのはいつだと言っていましたか?」
「あれは――そうだな、少し前だ。カートの故郷から戻ってきて、帝国軍市警隊の詰め所へ向かった日のことだ」
その日のことも覚えている。
ロックは女の格好をしていって、エベルと市警隊長が話をしている間、食堂でひとり待たされていた。話が済んだ後は帝都内の公園に立ち寄り、それからフォーティス服飾店に連れていってもらった。
ユリアという少女の記憶は、やはりどこにもない。
「あなたが彼女を認識したのはたしかにその日だ。だが、彼女からは『前にも会った』と言われたらしい」
エベルの物言いがどこか意味ありげに聞こえ、ロックは目をしばたたかせる。
「認識、ですって?」
「彼女はあなたが仕立て屋だと知っていたそうだ。だから――」
そこでエベルは何かを思い出したように口をつぐんだ。
フィービが眉根を寄せる中、エベルはかぶりを振りながら訴えてくる。
「とにかく、覚えていないなどありえないことだ。どうにか思い出せないか?」
忘れてしまった記憶なら、第三者の話を聞いて思い出すこともあるのかもしれない。
だがロックには覚えがない。彼女のことを知らないのだから、思い出せるはずがなかった。
「ごめんなさい、全然わからなくて……」
ロックがうなだれると、エベルは愕然としたようだ。よろめきながら一歩後ずさりした。
「記憶喪失かしらって話してたのよ」
フィービが口を挟む。
「あたしと閣下が覚えていることを、この子だけが忘れてしまうなんておかしいじゃない。そんなことがありえるのかもわからないけど、他に可能性なんてないでしょう?」
続いた言葉に、エベルはしばし黙考するように目を伏せた。
他の可能性が思いついたのかどうか、次に目を開いた時、フィービに向かってこう告げた。
「フィービ。すまないが一旦、席を外してもらえないだろうか」
「なぜ?」
エベルの申し出に、フィービがすかさず聞き返す。
「私にはひとつだけ心当たりがある。その話を、ロックだけに打ち明けたい」
「あたしに言えない理由は?」
さらに追及されて、エベルは珍しく言いにくそうにしてみせた。
「あなたを……危険に巻き込むかもしれない」
「今さらね。あたしはそんなもの承知で、これまで閣下とお友達にお付き合いして参りましたけど」
フィービはためらわず言い放つ。
それでもエベルは首を横に振った。
「あなたの強さも承知の上だ。だがこれを話せば、我々は後戻りができなくなるかもしれない。そしてそれを決めるのは、他でもないロックだ」
彼は何かを知っているようだ。自分とフィービが知りえた以上の情報を。
ロックとしても、もやもやするこの状況をなんとか打開したかった。それで口添えをした。
「フィービ、まず僕が聞いてみるよ」
その言葉にエベルは安堵した様子を見せ、フィービは不満そうに朱唇を尖らせる。
「あたしはあんたのほうこそ、危険に巻き込みたくないんだけど」
「エベルはそんなことする人じゃない。僕にだけ打ち明けるのも、深い訳があるんだよ、きっと」
少なくともロックはエベルのことを全面的に信じている。
だからこそ彼の話と自らの記憶が食い違うことを、とても歯がゆく思っていた。心当たりがあるというなら、ぜひ聞きたい。
「……わかったわ。外で待ってればいい?」
フィービは不承不承といった様子でふたりに背を向ける。
「ああ、頼む。感謝する」
エベルがそう告げると、振り返らずに片手をひらひら振ってから店の外へ消えていった。
ふたりきりになった店内は、じっとりと重い空気に支配されていた。
ロックと向き合うエベルは、まだ迷ってでもいるように腕組みをして立っていた。店の窓から射しこむ光が宙に漂う埃をきらきらと光らせ、その中で立ち尽くす彼の姿もまた光に照らされ神々しくさえ見える。鳶色の髪は陽光を透かして一層明るく、彫りの深い顔も陰影が強調されて上等な彫刻のようだ。彼がその身に人狼の呪いを受けたと言われても、信じられない者のほうがきっと多いのだろう。
そもそも呪いなどというものが実在することさえ、帝都の多くの人間は知らないはずだった。
呪い――ふとその言葉が脳裏を過ぎり、ロックはなぜか胸騒ぎを覚えた。
なぜかはわからない、だが無性に不安に駆られたのだ。
「ひとつ、確認しておきたいことがある」
厳かにも聞こえる声がエベルの口から発せられ、ロックは我に返る。
「なんでしょうか」
聞き返すと、エベルは溜息のような長い吐息の後でこう続けた。
「あなたは皇女殿下の花嫁衣裳の図案を完成させたと言っていた。そのことは覚えているか?」
「ええ、もちろんです」
ロックはうなづいたが、残念ながら付け加えるべき事項があった。
「でも、その意匠が――なんというか、なぜ描いたかわからないんです。自分で描いたということはわかっているのですが、どうしてこの意匠にしたのかも覚えがなくて」
「……やはり、そうか」
その事実を、エベルはどこかつらそうに聞いていた。
「ご覧になります?」
ロックはカウンターの引き出しにしまってある図面を取り出し、エベルに見せた。帝都の夜空と城壁、そして皇帝の居城を描いた花嫁衣裳を、彼はつぶさに眺めた後でまた嘆息する。
そして図面をロックに返した後、沈痛な面持ちで言った。
「ロック、信じがたいだろうが聞いてほしい」
「はい」
すかさず応じると、エベルは一呼吸置いてから続けた。
「あなたがユリアを覚えていない理由は恐らく、その記憶を消されたからだ」
信じがたいだろう、とは前置きされていた。
ロックはエベルの言葉をいつでも全面的に信じてきた。
だがこればかりは、いかに彼の言うことでも即座には飲み込めなかった。
「記憶を……?」
理解が及ばない。戸惑いながらもロックは聞き返す。
「えっと、そんなことができる人がいると言うんですか?」
「ああ、まだ私の推測だが」
エベルはゆっくりと顎を引いた。なおも続ける。
「だいぶ前の話になるが、私の家で茶会をした時のことを覚えているだろうか。あなたが皇女殿下について聞きたいと言い、それで私があなたとフィービ、それにグイドとミカエラを家に招いた」
「ええ、覚えてます」
エベル、グイド、そしてミカエラは皇女リウィアと面識があったそうだ。
似合うドレスを仕立てるには人物像、こと容姿の情報が必要不可欠であり、それでロックは貴族である彼らに救いを求めたのだった。
「あの時、我々は皇女殿下のことを『あまりよく覚えていない』と言ったはずだ」
「そうでしたね」
髪の色と瞳の色、それに年の頃くらいしか情報は得られなかった。
もちろんそれでも十分有益な情報ではあったが、思えばあの時、エベルは不思議そうに首をひねっていた。
『どんなお方かと聞かれると、うまく答えられそうにない。思い出せないんだ』
それをロックは、やんごとなき相手への緊張のせいだろうと結論づけていたが――。
「ずっと不思議に思っていた。なぜ私は皇女殿下のお姿を覚えていられないのかと。覚えようと何度試しても叶わず、しかも私のみならずグイドたちまで同じであることがわかり、妙なものだと首をひねっていた折だった。恐らく我々も、殿下の御尊顔を忘れるようにされていたのだろう」
エベルがそう継いだ時、ロックの背筋に訳もなく悪寒が走った。
会ったはずの誰かのことを忘れてしまう。
それはまさに、自分の身に起きていることと同じだ。
「殿下か、殿下に近しい者の誰かが、人の記憶を消してしまう力を有している。私は殿下ご自身だと推測しているが」
「皇女殿下が……?」
信じがたい思いは当然ある。
だが人狼の呪いが実際に効力を発したこの地で、他に呪いめいた力がないとも言い切れないはずだ。もし記憶を消すことが本当にできるというなら、エベルたちが何度となく拝謁した皇女の顔を覚えられない理由もわかる。
そしてロックが、ユリアという少女のことを忘れてしまった理由もそこにあるのかもしれない。
引っかかることがあるとすれば、
「ではなぜ、僕はユリアについての記憶を消されたんでしょうか」
なぜ、覚えていてはいけなかったのか。
すでにおぼろげな予感は抱いていた。だが確信はどうしても得がたく、ロックはエベルに尋ねた。
彼は硬い表情で答える。
「ユリアとは、まさに皇女殿下その人だからだ」
帝国の第一皇女リウィア。
その人こそが、ロックの記憶から消えてしまった『友人』だったようだ。