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あなたに伝えたいこと(1)

 違和感があった。
 花嫁衣裳の図案を描いた時の記憶が曖昧なことも、倒れた際の前後の行動がはっきりしないことも、ロックは納得しきれていなかった。
 あれきり体調はすこぶるよく、疲労が溜まっている自覚もないままだ。フィービをはじめとする貧民街の面々からは顔を合わせる度に『無理をするな』と言われているが、なんとも言えずにうなづくことしかできずにいた。
 何より、花嫁衣裳の仕立てに入る気になれなかった。
 刻限はそう遠くない時期にあり、本来ならぼちぼち始めなければいけない頃合いだった。
 だがどうしてもあの意匠を理解しきれず、飲み込めず、空き時間ができても手が動こうとしない。なぜ自分はあの図案を描いたのか、そこにどんな意味があるのか、まるでわからないからだ。

 店に泊まり込んだあの一夜のことを振り返っても奇妙だった。
 あの晩のロックはやけに張り切っていて、城壁と居城の刺繍をこれしかないとばかりに描き上げていた。その時の自分が高揚感に溢れていたこと、直前までエベルと会っていたことまで覚えているのだが――なぜ描いたのかという疑問に対する答えは、記憶の中から抜け落ちていた。
 そうは言っても皇女の結婚は待ってはくれず、そこで最高の栄誉を勝ち取ること、そして帝都での市民権を得ることはロックの悲願だ。なんとかしなければという焦燥を抱えつつも、消しきれない違和感につきまとわれながら数日を過ごした。

 だが、そんな歯がゆい日々にもついに楔が打ち込まれる。
 きっかけはフィービの一言だった。ロックが店のカウンターで顔をしかめつつ図案を眺めている時、箒で床を清めていた彼女がふと尋ねてきた。
「そういえば、あの子とは最近会ってるの?」
 誰についての問いか、ロックはとっさに測りかねた。
「あの子……?」
 そう形容するからには相手は若者、もしかすると幼い子供かもしれない。いくら年下とはいえ、フィービがエベルを指して『あの子』とは言わないだろう。しかし他に、最近会っているのかと聞かれるような心当たりはあいにくなかった。
「誰のこと?」
「ユリアよ」
 フィービが挙げたのは、ロックにとって聞き覚えのない名前だ。
「ユリアって?」
 思わず聞き返すと、フィービは呆れたように笑う。
「あら、違う名前だったかしら。あんたがこの間、家に連れてきたお嬢さんのことよ」
 次いで語られたのも全く覚えのない話だった。
 自分が女の子を家に連れてきた――ロックの記憶に、そんな事実は存在していない。
「え、知らないけど……そんなことあったっけ?」
 ロックの反応に、たちまちフィービが不審そうな顔つきに変わる。
「何言ってんの、あんたのお友達でしょう。ついこの間のことよ、あんたがいきなり家に連れてきて、夕食を一緒に取ることになったじゃない」
「し、知らないよ。フィービこそ何言ってるの?」
 訳のわからなさにロックは混乱した。
 記憶がない。友達を家に連れてきたことも、その人物と夕食を共にしたことも、ロックにとっては初めて聞かされる話だった。

 ロックにとって、友達と呼べる相手はそう多くない。
 エベルはもちろん該当しないし、ミカエラとはずいぶん仲良くなったがその兄とはまだ打ち解けていない。ヨハンナのことは好きだが、友達と呼んだら大慌てで否定されそうな気もする。
 クリスタやニーシャとも今では友好的な関係を築いているが、友達というよりは同業者というくくりにも思えるし、カルガスとジャスティア夫妻を友達と呼んでいいものかは迷うところだ。
 こうして人間関係を振り返ってみても、家に連れ帰って夕食を一緒に食べる相手は限られる。
 それにそもそも、ユリアという名に心当たりが一切ない。

 ロックの反応を見て、フィービもまた違和感を抱いたようだった。
「知らないですって? そんなはずがないでしょう」
「いや、本当だよ。僕にユリアなんて友達はいない」
 いない。
 それは確かだ。どんなに記憶を手繰り寄せても、そんな人物のことは知らなかった。
「じゃあ、この間連れてきた子は誰だって言うの?」
 さしものフィービもここで柳眉を逆立てた。どうやらロックにからかわれているとでも思っているようだ。
 しかしロックには『友達を家に連れ帰った』という記憶もなかった。
「それも知らないよ。この間っていつの話?」
「そうね……ああ、ちょうどあんたが店に泊まり込んで帰ってこなかった日のことよ」
 幸い、その日のことなら覚えていた。
 だから聞き返した。
「エベルのことじゃなくて?」
 どう考えても、彼をユリアという名の女の子と間違えるのはおかしい話だ。だが彼が家に来た日のことは記憶にある。
 エベルが店に来た。夕食を一緒にと誘われたが、先に帰宅したフィービが食事を作ってくれていたので家へ招くことにした。そのまま三人で和やかに食事を終え、暇を告げたエベルを帝都に続く門まで見送った。
 その帰りに店に立ち寄り、花嫁衣裳の図案を仕上げたはずだ。
「あのねえ、あたしが閣下をお嬢さんと間違えるはずがないでしょうが」
 案の定、フィービはそう言って嘆息する。
 そして箒を立てかけると、ずかずか歩み寄ってきてカウンター越しにロックを睨んだ。
「質の悪い冗談はやめてちょうだい。どういうつもりか知らないけど、あたしはしっかり覚えてるんだから脅かそうったって無駄よ」
「冗談なんかじゃない」
 ロックは大きくかぶりを振った。

 今になってじわじわと、フィービの話と自分の記憶の齟齬が恐ろしくなってきた。
 彼女は――父は一体、誰と会ったと言うのだろう。

「たしかにエベルは連れ帰ったし夕食もご一緒したよ。でもユリアなんて子は知らないし、家に連れてった覚えもない。フィービこそ何を言ってるのかわからないよ」
「そんなわけが――」
 ロックの訴えを、フィービは一蹴しかけてやめた。
 一度唇を引き結ぶと、カウンターから身を乗り出してロックの目を覗き込んでくる。碧眼に宿る光は鋭く、警戒心をあらわにしていた。
「本当に、冗談じゃないんだな?」
 急に低い声でそう問われ、それでもロックは臆さずうなづく。
「僕だってこんな冗談は言わない。フィービを脅かすつもりだってないよ」
「……わかった。信じる」
 フィービはそう言うと、目を伏せながら身を引いた。
 栗色の髪をかき上げながら長い溜息をつく。
「でもそうなると、どうしてあたしとあんたの記憶が違うのかって話になるわ」
「記憶喪失、とかかな……」
 意識を失うような大きな怪我を負った時、あるいは心に深い傷を負った時、人の記憶が曖昧になるという話は聞いたことがある。先日倒れた際に頭を打ち、それで記憶を失くしたという可能性もあるのだろうか。
 だが、たったひとりのことだけを抜け落ちたように忘れてしまう記憶喪失というのも妙だ。
「ユリアのことだけを忘れたっていうの?」
 フィービもやはり懐疑的だった。
 そうでもなければ説明がつかない、というのも事実だが――。
「ユリアってどんな子?」
 もしかしたら、詳しい人物像を聞けば記憶がよみがえるかもしれない。そんな儚い希望に賭けて、ロックは尋ねた。
 するとフィービは腕組みをして、ゆっくりと答えはじめる。
「そうね……一言で言えば風変わりなお嬢さんだったわ」
「へえ」
「家の中でもずっとフードをかぶっていたの。でも着ている外套は上等な生地だったし、話す口調も上品で、無礼な子という感じではなかったわね。うちの食事なんて粗末なものでしょうに、けっこうしっかり食べていってくれたわよ」
 話を聞く限り、ユリアなる娘は貧民街の人間ではなさそうだ。
 エベルのように身分貴い身でありながら貧民街に出入りする者もいなくはないが、若い娘となるとその危険さは跳ね上がる。なぜこんなところに来て自分と友情を築いたのか、ロックには想像もつかなかった。
「他には? 外見とかは?」
「顔はフードで隠されていたから、あたしもしっかり覚えているとは言いがたいわ。でも髪は赤かった。木苺色の髪をしていたの。そして目の色は、恐らく灰色よ」
 木苺色の髪、灰色の目――。
 そのふたつの特徴は、前にエベルたちが教えてくれた皇女リウィアのものとそっくり同じだ。だがまさか、皇女が貧民街を出歩くなんてことはあるまい。
「それと――」
 フィービは何か言いかけて、しかしどういうわけか思いとどまったようだ。
「何? どんな小さなことでもいいから教えてよ」
 ロックが気づいて見とがめると、逡巡の末にかぶりを振る。
「いいえ、これはまだ憶測に過ぎないから。確証を得たら話すわ」
「そっか……」
 聞きたい気持ちはあったが、フィービがためらうのにも根拠があるのだろう。ロックはその決断を受け入れた。
 するとフィービは申し訳なさそうに微笑み、代わりにこう言った。
「あとは、閣下にお聞きするのがいいでしょうね」
「エベルに?」
「ええ。あんたがユリアを連れてきた日、閣下もご一緒だったのよ」
「あの晩ってこと? じゃあ……」
 ロックはあの晩、エベルを家に連れ帰って『三人で』食事を取ったと思っていた。
 だがフィービが言うには、あの晩はユリアという娘も含めた『四人』での夕食だったそうだ。
「覚えがないけど……」
 思わず頭を抱えたロックだったが、言われてみればあの晩の記憶には妙なところもある。

 エベルが店にやってきた時、ロックはなぜか狼狽した。
 なぜかはわからない。だが施錠した扉越しに彼の声を聞き、動転して対応に困った記憶がある。エベルの来店は珍しいことでも何でもないし、普段ならむしろうれしいはずだ。
 他にも妙に思う箇所があって――エベルを連れて帰る途中、ロックはジャスティアのパン屋に立ち寄って夕食のパンを購入している。今思うと三人では多いくらいの量を買ったような気もする。
 それに夕食の際、フィービは共に食卓を囲まず給仕に徹していた。ロックたちはエベルを何度も家に招いて食事を振る舞っているが、その時フィービが食卓に座らなかったのは初めてのことではないだろうか。
 考えれば考えるほど、不審な点がぼろぼろ出てくる。

 それでも、不審さはあれど記憶が書き換わるということはない。
 ロックはあの晩を三人で過ごしたと思っているし、そこにもうひとりいたと言われても、それが他でもないフィービの言葉だとしても未だに信じがたいのだった。
「エベルに話を聞けないかな」
 苦悶の末、ロックはフィービに提案した。
「その場にエベルもいたなら、事実を確認する必要があるよ。もしかしたらユリアという女の子のことも、エベルは覚えているかもしれない」
「そうね」
 フィービも異論はないようだ。
「閣下はあのお嬢さんをいくらか知っているご様子だったもの、何かわかるかもしれない」
「じゃあ、ユリアはエベルの知り合い? 友達とか?」
「どうかしら、仲はむしろ険悪の一歩手前という印象だったわよ」
 ロックの知るエベルは、少なくとも無害な婦人に対しては温和で紳士的な人物のはずだ。そんな彼がユリアと険悪になりかねない間柄というのも、にわかには信じがたい話だった。

 ロックはエベルに手紙を書いた。
 どうしても話したいことがあるので、折を見て会って欲しいこと。無茶を言っているのは承知だが、できれば早く会えるとうれしいとも綴った。
 初めはありのままを包み隠さずしたためようと思ったが、それはフィービに止められた。誰に読まれてもいいように書けと言われ、詳細はぼかして会いたい旨だけを訴えた。

 すると手紙を出して三日後、エベルは本当に急いで訪ねてきてくれた。
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