Tiny garden

駆け足の季節(4)

 着替えを済ませた私はぺらぺらのナース服を持って、家の中庭に足を向けた。

 多分そうだろうと思ってたけど、庸介の方が先に来ていた。
 汚れてもいいようにかチノ素材のエプロンをして、中庭の芝生にはビニールシートまで敷いてある。
「お待ちしておりました、お嬢様」
 言うなり彼は私にも同じ型のエプロンを差し出す。
「きっとお嬢様ならご用意なさらないだろうと、僭越ながら持って参りました」
「要らなくない? 古い服だから平気だよ」
 ちゃんと汚れてもいいような古い服を着てきた。だからそう答えたのに、庸介は静かにかぶりを振る。
「そのお洋服は一昨年、旦那様が直々に買われた大切なお品です」

 彼の指摘は正確だった。
 今着ているワンピースは父が何かの折に買ってくれたもので――急に服のサイズなんて聞いてくるから何かと思ったら、いつものように私の好みも聞かずに買ってしまった。でもこれを着ていると父が喜ぶから、家にいる時は時々着るようにしていた。
 もっとも庸介の言う通り、それも二年前の話だ。今は丈が少し詰まってしまったし、父がくれたものでなければ処分していたような服だった。
 だからいいかと思っていたんだけど。

「汚してしまっては旦那様も悲しまれるでしょう」
 庸介がそう言ってエプロンを手渡そうとする。
 私も、ついさっき話したばかりの父の顔を思い浮かべて、結局それを受け取った。
「そうだね。ありがとう、庸介」
「いいえ」
 エプロンを身に着けると、彼は背中のボタンを留める手伝いまでしてくれた。
 そのまめまめしさに感心しつつ、そういえばと私は口を開く。
「だけどこのワンピースのこと、よく覚えてたね」
 父が買ってくれた服はこれだけではないし、それでなくてもワードローブにはたくさんの服が入っている。ぱっと見ただけで一昨年買ってもらった服だってわかる庸介はすごい。
 すると彼は眉一つ動かさずに答える。
「お嬢様のことは、何でも忘れがたいですから」
 そして私は言葉に詰まる。
 だってその言い方じゃ、いい意味にも悪い意味にも取れてしまう。
「……それ、どういう意味で?」
「そのままの意味でございます」
 ポーカーフェイスで答える庸介を、私は黙って睨んだ。
 そのまま睨み続ければ、やがて根負けしたか、彼がほんの少しだけ笑った。
「お嬢様が考えていらっしゃる通りの意味です」
「ふうん……そうなんだ」
 私がどう考えているのか、わかるとでも言いたいんだろうか。
 ぎくしゃくと目を逸らす私の傍で、庸介は屈んで器に何かを混ぜ始める。
「さあ、この作業を済ませてしまいましょう」
 小さなボウルの中には真っ赤な液体ができあがっていた。
 これで、せっかくの衣裳を汚す作業が始まる。

 血糊をつけるのは初めての経験だった。
 見るからに安っぽいミニスカートのナース服は、それでも汚すのが忍びなく、初めは裾の方に少しだけかけた。
「それでは足りませんよ、お嬢様」
 途端に庸介が注意を唱えてくる。
「よくお考えください。血糊がつくということは、お嬢様扮するゾンビナースの身に何らかの血を浴びる事態が起きたということでございます」
「そんなことまで考えてかけるの? 大変だなあ……」
「では代わりに俺が」
 そう言うと庸介は、私が着る予定のナース服の胸元からお腹にかけて、血糊を落として上手に染みを作ってみせた。
 それから得々と語り始める。
「お嬢様ならばゾンビになっても、腐ることなく楚々として愛らしいゾンビになるでしょう」
 どんなゾンビなの、それ。
「そう言われて私、喜んでいいの?」
「はい。そうして哀れな迷い人をを欺き誘い込んでは暗がりで襲いかかる――そんなゾンビのイメージで行くのがよろしいかと思います」
「何かすごく設定作り込んできたね」
 学校では、私をゾンビにしたくないとか言ってたくせに。
「庸介、実はホラー映画好きでしょう」
 私の指摘に、彼は肩を竦めた。
「いえ、俺はゾンビ映画はそれほど関心ございません。やはり純粋な怖さでは和製ホラーの方が優れていますし、特に近年のゾンビは走ったり何だりと、古典映画のイメージからは逸脱しているところが趣味ではなく……」
 好きなんだね。
 語るに落ちた彼を見て、私は笑うしかなかった。

 ナース服がすっかり血糊で汚れてしまった後は、庸介が着る白衣の番だ。
「じゃあ、庸介はどんなゾンビで行くつもり?」
 まだきれいなままの白衣を見つつ尋ねれば、彼は張り切って答える。
「もちろん死してなお、お嬢様を傍らでお守りする使用人ゾンビでございます」
「……お医者さんなのに?」
 そこは設定作り込まないんだ。
 私は笑ったけど、庸介は意外と真面目なようだった。
「俺は関心ございませんが、ナース服というのは少々人目を引く扇情的な衣裳。そのことは蒲原の反応からもご存じでしょう。俺は片時もお嬢様から目を離すことはできませんから、なるべくお傍にいられる設定をと考えておりました。無論、私欲の為ではございません」
 今日の庸介は随分と饒舌だった。
 心配してくれてる、と思っていいのかな。まさかナース服が好きなわけじゃないよね。
「なら、コンビ組んで人を襲うゾンビでいいじゃない」
 私は彼にそう告げる。
「きっと生前は恋人同士だったんだよ。お医者さんと看護師さん、禁断の恋……とか?」
 すると庸介は目を丸くして、それからおかしそうに吹き出した。
「恐らくですが、禁断というほどではないでしょう」
「そうなのかな。職場恋愛、難しそうだけど」
「それは俺も大いに同意いたしますが」
 庸介は頷いた後、身を屈めて私に囁く。
「――俺はもう、禁じられた恋とは思いたくありません」
 耳元のこそばゆさも吹き飛ぶその言葉に、私は黙って庸介を見た。
 彼も真面目な顔で私を見つめている。今度は睨む気にはならず、静かに目で頷いた。

 誰にも禁じさせない。
 私も庸介も、今はそう決めていた。
 その為にも私は両親と話をしなくてはならなくて――父が庸介に依頼した学園祭の写真が、そのきっかけになればいいと思う。

「学園祭、楽しみだね」
 白衣にも血糊をかける庸介に、私はそう声をかける。
「いい写真、たくさん撮ってね。私が楽しそうに見えるように」
「それは技巧を凝らさなくても十分可能でしょう」
 庸介は応じた後、白衣から少し距離を置き、点在する赤い染みの配置を確かめていた。
 そして満足する仕上がりになったところで、こちらを振り返って言った。
「旦那様がなぜ俺に任せてくださったのか、お気づきでしたか」
 唐突な質問だった。
 なぜも何も、他に頼める相手がいないからじゃないだろうか。
「何か理由があって、庸介に頼んだということ?」
 私が問うと、彼はどこか気まずげに頷く。
「俺ならお嬢様の良い表情が撮れると、ご存じだからでしょう」
「それってつまり……」
「旦那様は俺の気持ちを知っていらっしゃるのだと察しました」
 さしもの庸介も居心地が悪そうだ。
 首の後ろ辺りを擦りながら、溜息までついていた。
「旦那様の前では慎んでいたつもりだったのですが……なぜお気づきになられたのでしょうね」
 私もそれはちょっと困る。
 純粋に恥ずかしいし、何の準備もできていない今はまだ打ち明けるつもりなんてなかったからだ。
 でも本当に父が気づいていたなら、恥ずかしいけど、嬉しいことも一つだけある。
「それを知った上で庸介に写真をお願いしたなら、心配要らないよ」
 私はそう思う。
「お父さんなら、気に入らない人には私の写真なんて撮らせないから」
 もっと言えば、私のことを案じていたならすぐにでも庸介を遠ざけようとしただろう。
 そうしなかったのは庸介も、父にとっては大切な、そして信頼できる存在だということに違いない。
「俺も、仰る通りだと思います」
 庸介が頷く。
「旦那様は器の大きいお人です」
「それはどうかな……複雑だって言ってたじゃない」
「もっと嘆き悲しまれるのではないかと思っておりました」
「今頃はそうなってるかもよ、仕事に行く車の中で」
 そうだとしたら申し訳ない気持ちも確かにあるけど。
 けど、私だっていつまでも子供じゃない。小さな頃に言ったように、父のお嫁さんになることはできない。
 ちゃんと大人になろうとしているんだというところを見せる為にも、言いたいことを全て言えるようになっておこう。
「お父さんが悲しんだって、しょうがないけどね」
 私が首を竦めると、すかさず庸介が尋ねてくる。
「お嬢様。『しょうがない』というのは、具体的にどのような意味でしょうか」
「……そのくらい察しなさい」
「是非お嬢様のお言葉で伺いたいのです」
「あ、ちょっと最近図々しいんじゃない、庸介」
 照れ隠しで言ってはみたものの、彼は物欲しそうに私を見ていた。
 それで私はしょうがなく、さっきの仕返しみたいに背伸びをして耳元へ囁いてあげた。
「絶対諦めない、手放さないってことだよ!」

 学園祭の準備を進めるうち、月日は駆け足で過ぎていく。
 日程もいつの間にやら準備期間に入り、授業がなくなる代わりに、教室には金槌やのこぎりの音が響くようになった。
 そしてもちろん、クラスメイトの大騒ぎする声も。

「六花、こっち向いて」
 庸介に乞われて振り向けば、カメラのシャッターを切る音も響いた。
 準備の合間にも、庸介はちょくちょく私の写真を撮影している。
「壁塗ってるところまで取らなくてもいいと思うけど」
 私は腕まくりをして、病室の壁に色を塗っているところだった。
「こういう場面も是非見せたいからな」
 満足そうにカメラを下ろした庸介も、刷毛を手に取って壁を塗り出す。
 廃病院らしい色合いを出すのは難しい。どうせ照明を落とすのだから克明に再現しなくてもいいはずだけど、クラスの皆はやけにこだわりたがる。その気持ちは私にだってわからなくもなかった。
「何だよ徒野、彼女の写真ばっか撮って」
 すると蒲原くんが乱入してきて、からかいたげに庸介をつつく。
 庸介が無視を決め込もうとするから、結局私が事情を説明する羽目になった。
「あのね、うちの両親に見せたくって……」
「へえ、主代さんのご両親にか」
 どこか物珍しげな蒲原くんの横で、いつの間にか駆けつけていたミナが楽しそうに目を輝かせる。
「写真だったらあたしも自信あるんだよね。どっちがリッカのいい写真を撮れるか勝負しない?」
 なんて庸介に持ちかけたけど、彼の答えは簡潔だった。
「しない」
「ノリ悪っ! そこは乗っかってくるとこでしょ!」
「六花を勝負の題材にしようとは思わない」
 前にも聞いたようなことをきっぱりと告げた後、庸介は私の方を見る。
 微かに笑んだ口元に自信を覗かせ、言い添えた。
「それに、俺じゃないと撮れない写真があるからな」
「うわ、何かやらしい! リッカ、どんな写真撮らせてんの?」
「どんなって、変な写真は撮ってもらってないよ!」
 庸介の言葉が足りないせいで、ミナからはあらぬ疑いもかけられたけど。
 本当に彼しか撮れない写真があるなら、それはきっと父や母にも喜んでもらえるような最高の写真になるだろう。

 そうして季節は過ぎていく。
 駆け足気味に秋は深まり、学園祭の日がやってくる。
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