Tiny garden

ヒーローと猫耳少女(4)

 体育祭のフィナーレを飾る学年対抗リレーが、いよいよ始まろうとしていた。
 学年ごとに男女とも各八名の代表が選ばれ、一周四百メートルのグラウンドを四周してタイムを競う。他の競技があくまで個人の記録を競うものなのに対し、このリレーだけはチーム対抗戦ということで、レースも応援も毎年大変白熱するのだそうだ。

「主代さん、こっちこっち」
 渡邉さんに引っ張ってもらって、私はスタートライン近くでカメラを構えた。
 練習の時と同じように、庸介は第一走者のようだ。スタートラインにバトンを持って立っている。本物のアスリートみたいに手足をぷらぷらさせながら、心なしか緊張気味にコースの先を見ている。
「ほら、声かけたげなよ」
 私の耳元で、渡邉さんが囁く。
 スタートライン周辺には詰めかけた他の生徒も大勢いて、皆それぞれに声援を送っていた。
 そんな騒がしい中で、彼に届くほどの声を上げるのは恥ずかしかったけど、でもせっかくの晴れ舞台だ。庸介には頑張って欲しかったし、徒野さんたちの分まで応援もしたかった。
「庸介、頑張って!」
 私が叫んだ瞬間、庸介は驚くほどの反応速度で顔を上げた。
 そして人波の中に私を見つけたようだ。目が合って、その口元がほんのわずかにだけ緩むのを見た。軽くだけど、手も挙げてみせてくれた。
「意外と余裕あんじゃん、徒野」
 渡邉さんがほっとしたように呟いた時、審判係の生徒が号砲片手に叫んだ。
「位置について!」
 庸介がスタートライン手前に屈み込み、片膝をつく。
 親指と人差し指でバトンを握り、残りの指を地面について身体を支える。きっと大きな手をしているから造作もなくできるのだろう。彼は他の選手と同様、身構えたままぴたりと静止する。
「用意……」
 飛び出しに備えて、腰が上がる。
 騒がしかったスタートライン周辺の生徒たちが、水を打ったように静まり帰る。
 私も渡邉さんも、あとは無言でカメラを構える。
 審判係が真っ直ぐに伸ばした腕の先に、あとは引き金を引かれるだけの号砲がある。

 光った。
 と思ったのとほぼ同時に、号砲が破裂音を立てた。

 庸介が飛び出した。
 ばね仕掛けみたいに身体を伸ばし、二十八センチのスニーカーが地面をえぐるように蹴り上げる。さながら号砲から放たれた弾丸みたいに、庸介は誰よりも速く駆け出した。
 あの怖いくらいに真剣な横顔で、私の前を通り過ぎていく。
 私はその姿をファインダー越しに見た。
 見惚れそうになる意識の下で、必死に指を動かしシャッターを切っていた。
 彼が目の前を駆け抜けていく一瞬を、無我夢中でカメラに納めようとしていた。連写機能で何枚か撮った後、慌てて面を上げれば庸介の背中が見えた。たなびく青いハチマキごと、あっという間に遠くなって、百メートルが終わりに近づいている。
 庸介は、速かった。皆がどよめくほどだった。一年生と三年生を数メートルの差であっさりと突き放し、第二走者の蒲原くんめがけて走る。
 助走線の向こうに立つ蒲原くんが、庸介を迎えようと助走を始める。
 庸介はラストスパートでそれを追う。
 練習では不安の種だったバトンの受け渡しも、テイクオーバーゾーン内できっちりと終え――第二走者の蒲原くんがバトンを握って加速する頃、庸介は追い着いてくる他の走者の邪魔にならないよう、レーンの中でゆっくりとスピードを落とす。
 膝に手をついて呼吸を整えようとする姿を、私は、スタートライン近くから動かずに見ていた。

 本当に、一瞬の出来事だった。
 その間、私はずっと息を止めていたように思う。

「うわ……マジ速かったね、徒野」
 渡邉さんが感嘆の言葉を漏らした。
 それで私も我に返ったように、深く息をついておく。
「うん、すごく速かった」
 気がつけば周囲からもどよめきが上がっていた。
「あの二年生、めちゃくちゃ速いじゃん」
「陸上部にあんな奴いたっけ? すごい走りだった!」
「あんなに引き離されたら追い着けないよね」
 口々に聞こえてくる賞賛の声を、少し前の私なら誇らしく思ったことだろう。
 足が速くて格好よくて、いつでも私の傍にいてくれる『幼なじみ』の庸介。だけど私は、誰かに誇れるほど彼のことを知らない。皆よりは知っていると言えるのだろうけど、それでも全てを知っているわけではない。
 そのことが、なぜか無性に切なかった。
「写真、上手く撮れた?」
 まだカメラを構えたままの渡邊さんが尋ねてきて、私は我に返る。
 急いで画像データを確認すると、バトンを握り締めて駆け抜ける彼の真剣な横顔が写っていた。
「大丈夫みたい。庸介のお父さんにも渡せそう」
 この写真なら徒野さんたちにもきっと喜んでもらえるはずだ。
 それから私も。この写真、アルバムに飾っておこう。

 リレーの結果は、二年生の優勝だった。
 庸介や蒲原くん達が作った圧倒的優位は終盤、三年生からの猛追を受けて一気に縮められてしまったけど、アンカーの子が死力を尽くして守り抜き、一位のままでゴールした。
 レースの最初から最後まで、二年生は一位の座を他の学年に譲ることはなかった。

 リレーのヒーローはもちろん、劇的なスタートダッシュを見せた庸介だ。
 体育祭の閉会式の後、彼は大勢の生徒たちに囲まれていた。
「徒野って本当に速いんだね! びっくりした!」
「前の学校では何か部活やってたの?」
「すっごい格好よかったよ!」
 皆から誉められて、庸介はぎこちない笑みで謙遜していた。
「たまたま上手く走れただけだよ」
 それを見咎めたか、すかさず蒲原くんが飛んできて、庸介をつつく。
「格好つけんなって、照れてんのか?」
「うるさいな。別にそんなんじゃない」
「すいませんね皆さん。こいつマジ照れ屋なもんで」
「余計なこと言うな!」
 蒲原くんと庸介がいつものようにじゃれあうのを、皆が笑いながら見ている。

 私はそれを、少し離れたところから窺っていた。
 その輪に入っていくことに、どうしても抵抗があった。
「行かないの?」
 渡邉さんが隣で囁く。
「うん。どうせ一緒に帰るし、その時話せるから」
 言い訳めいたことを答えてはみたものの、それだけが理由ではないはずだった。
 それでも渡邉さんは理解した様子で、少し笑ってみせてくれた。
「まあ、声かけにくいよね。あんなに囲まれてちゃ」
 もちろん、庸介なら私が声をかければすぐに駆け寄ってきてくれるだろう。もしかしたら声すらかける必要もないかもしれない。私に気づいただけですっ飛んでくるはずだ。
 だけど――。
「六花!」
 私の葛藤を見抜いたように、不意に庸介の声がした。
 取り囲んでいた人垣をすり抜け、彼は硬い表情で駆け寄ってくる。皆の好奇の視線を背負っても尚、真面目な口ぶりで続けた。
「さっきは応援ありがとう。お蔭で全力を出し切れたよ」
「私は声をかけただけだよ」
 思わずかぶりを振ったけど、これも蒲原くんに言わせれば『照れてる』ことになるのだろうか。
 いや、違う。私は何も頑張っていない。応援しただけだ。
 ただ庸介に、頑張って欲しくて。
「六花が見ていてくれなかったら、こんなに走れなかった」
 庸介は皆の前でそう言い切ると、呆気に取られる私の手を取る。
「こっち来て。二人で写真を撮ろう」
「えっ、今?」
「忘れないうちに済ませた方がいいだろ」
 誰かが悲鳴に似た歓声を上げ、冷やかしめいたどよめきも起こった。渡邉さんがこちらに親指を立ててみせたのも見た。
 それでも庸介は一切の視線を振り切るように、私の手を引いてどこかへ歩いていく。
 さっきまでバトンを掴んでいた大きな手が、うろたえる私を連れていく。

 着いた先は校舎裏だった。
 人気のない大きな影の中、遠くで蝉の声だけが響く。体育祭も終わった後では、皆のざわめきすら聞こえなかった。
「ここにしよう」
 夏の日差しを遮る日陰に、庸介は私を立たせた。そして携帯電話のカメラを操作し始める。
 私はその様子を見守りながら、彼に尋ねた。
「庸介って、陸上選手になる気はないの?」
 途端に彼が手を止めて、何とも言えない苦笑を浮かべる。
「さすがにそれは大それた夢じゃないかな」
「そんなことないよ。今日だってすごく速かったし、フォームもきれいだった」
「誉めてもらえるのは嬉しいよ。でも、なりたいと思ったことはない」
 庸介がきっぱりと言い切ったので、それならと私は続ける。
「じゃあ、庸介の夢って何?」
 今日、渡邉さんから将来の夢について聞いた。
 それで私が思ったのは――庸介が将来、なりたいものって何だろう、だった。
 走るのが速くて、お料理も上手で、バイトだって熱心にこなして、成績だって悪くない。そんな彼なら、何にでもなれる気がする。
「俺は……」
 庸介は答えかけて、なぜか口を閉ざした。
 それから携帯電話を持ったまま、私に真剣な目を向けてくる。
「六花は、俺にずっと傍にいて欲しい?」
 返ってきた問いに、どきっとした。
「え、あの、ど、どういう意味で?」
「俺がうちの父と同じ仕事に就いたら、君の支えになれるのかな」
 ああ、そういう意味。
 それは確かに、そうかもしれない。庸介がこの先もずっと私の家にいて、美味しいご飯を作ってくれたり、相談に乗ってくれたり、困った時に手を差し伸べてくれたら、きっと幸せだと思う。
 でも、それは違う、とも思う。
「庸介なら、何にだってなれるよ」
 だから私はそう答えた。
「傍にいて欲しくないわけじゃない。でも……でもね、ここに連れてきた私が言うのも何だけど――」
 彼が誰よりも速く、トラックを駆け抜けていくのを見た。
 レースの後で皆に囲まれて、照れている様子も見た。
 あれはもしかしたら、私の知らない、前の学校でもあった光景なのかもしれない。
「私は庸介のこと、縛りたくないって思う」
 バイトを辞めて欲しいと思っているわけではない。
 できれば、私の傍にいて欲しい。
 でも、庸介にしたいことがあるなら、私の意思よりもそれを優先させてほしい。だって彼は、私の自慢の――。
「……六花」
 彼は私の答えに驚いたようだ。小さく名前を呼んだ後、息をつく。
「君がそう答えるとは思わなかったな」
「庸介は? 徒野さんと同じお仕事がしたいの?」
「ずっと迷っていた。父はそうして欲しいようだけど」
 それから彼は肩を竦め、私から目を逸らした。
「俺も、君の傍にはいたいけど……」
「けど? 他にしたいこともあるの?」
「……かもしれない」
 それって、一体何だろう。
 私はもっと突っ込んで尋ねてみたかった。
 だけど庸介は会話を打ち切るが如く、急に私の肩を抱き寄せて、
「写真撮るから、もっと寄って」
「わっ、ち、近いよ!」
「近くないと入らない」
 私達は頬を寄せあうほどに密着して、携帯電話のカメラに納まった。

 そうして撮った写真には、すっかり日に焼けた本日のヒーローと、ハチマキで猫耳を作った赤い頬の女の子が写っている。庸介の表情は平然としたものだけど、私は驚きに引きつった顔をしていて、撮影後に庸介が首を傾げていた。
「これはこれでいいけど、もう一枚撮りたいな」
「ま、まだ撮るの? 恥ずかしいよ……」
「六花だって俺の写真を撮っただろ。お互い様だ」
 こういうのも、お互い様っていうのかな。
 釈然としなかったけど、私は彼に肩を抱かれたままで身動きもできなかった。それで結局、もう何回か撮り直しに付き合った。
 何回撮ったところで私はうろたえてばかりだったし、頬もやけに赤く写ってしまったけど。
「六花、もう少し笑ってくれないか」
「無理だよ!」
 だって距離近いし、ぴったりくっついてるし、少し視線を上げれば庸介の凛々しい横顔がすぐ傍にあるし、大きな手に肩を抱かれてて、こういうのって本当に初めてで、どきどきするし――。
 庸介が目の端で、ちらりと私を見る。
「少しは意識してくれてるのか。意外だな」
「えっ、な、何言って――」
「ほら、撮るよ」
 新たに撮ったもう一枚でも、写真の中の私は狼狽の色がありありと浮かんだ顔をしていた。
 庸介だけは相変わらず冷静な顔つきをしているのが、ずるいと思う。

 意識は、確かに、ずっとしている。
 もしかしたら、私は――。
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