ヒーローと猫耳少女(1)
体育祭の前日、私は庸介の目を盗んで徒野さんのところへ行った。「明日は体育祭だから、庸介と私、二人分のお弁当を用意して欲しいんです」
私が持ちかけると、徒野さんは驚いて瞬きを繰り返す。
「庸介に、何か至らない点がございましたか」
「ううん、そうじゃないんです」
いつもは庸介が自分のと私の分、両方のお弁当を作ってくれている。だから徒野さんもそう聞いてきたのだろう。だけど庸介のお弁当に至らない点なんてあるはずない。
「庸介が体育祭でリレーの選手に選ばれたの、知ってますよね?」
私の問いに、徒野さんはますますきょとんとした。
「いいえ」
「えっ、庸介言ってませんでした?」
「何も申してはおりませんでした。あの子が選手に?」
「はい。クラスの代表なんですよ、すごいんです!」
どうやら徒野さんは、庸介から何も聞いていなかったらしい。
私のことは父と母にしっかり報告しているみたいなのに、自分のことはお父さんお母さんに何にも言わないんだ。ずるいな、庸介。
「だから本番の直前くらいは、競技に集中できたらって思って」
私は畳みかけるように続けた。
「本当は私が代わりに作れたらいいんですけど、私、あんまり料理できないから……」
すると、徒野さんは笑いを堪えるような顔になる。
「お嬢様がお弁当を作られると聞いたら、庸介はそわそわして酷いでしょうね」
うん、確かに。
想像だってついてしまう。キッチンに立つ私を、傍でうろちょろしながら見守る庸介。私の手が止まるごとに『よそ見をすると怪我しますよ!』『やっぱり俺がお手伝いしましょうか?』なんてしつこく聞いてくるに決まっている。バレンタインデーとかいつもそう。いくら私がお料理苦手だからって心配しすぎだと思う。
でも、だからこそ作ってびっくりさせたいのもある。デザートくらいは私が用意しようかな。もちろん庸介の見てないところで。
徒野さんとお弁当について打ち合わせた後、
「お嬢様、お知らせくださりありがとうございました」
深々と頭を下げられて、私はにんまりしておいた。
「庸介が体育祭のこと、何にも言ってなかったなんて知りませんでした」
「言わないんですよ、学校でのことは特に」
困ったように肩を竦めた徒野さんに、それならと提案する。
「よかったら、庸介が走るところを写真に撮ってきましょうか?」
息子さんのせっかくの晴れ姿、きっと見てみたんじゃないかと思ってのことだ。
徒野さんは目を瞠って、少し気遣わしげに応じた。
「それはありがたいお申し出ですが、ご面倒ではありませんか」
「いいえ。クラスの皆も写真を撮ると言っていましたし、私もカメラを持っていくつもりです」
元から、庸介の走っているところを撮るつもりでいた。きっと本人だって見たがるだろうし――いや、どうかな。庸介なら要らないって言いそう。
そう言われたって、撮るけど。
「では、是非。お嬢様のお写真、楽しみにしております」
「はい、任せてください。いい写真を撮ってきます!」
お弁当のことも快く相談に乗ってもらったし、日頃お世話にもなってるし、そのくらいのお礼はしないとね。
お礼と言えば一番は、いつも傍にいてくれる庸介にするべきなのだろうけど、庸介は何も欲しがらないからなあ。この間の香水のお礼だってまだだけど。
その日の夜、庸介は私に寝る前のホットミルクを届けてくれた後で、こう言った。
「お嬢様。体育祭のこと、うちの父に言いましたね」
「いけなかった?」
私が聞き返すと、庸介は珍しくきまり悪そうな顔になる。
「できれば黙っていていただきたかったです」
「どうして? いいニュースじゃない」
「恥ずかしいからですよ」
「何で恥ずかしいの? クラスの代表に選ばれたのに」
「親に知られるのは恥ずかしいです。別に大したことでもないのに」
「大したことだよ! わかってないなあ」
もしかして私に教えてくれなかったのも、単に恥ずかしかったからだったりして。変なところで素直じゃないというか、頭が固いのが庸介だ。
「お弁当だって、俺が作っても構わなかったんですよ」
どうやら庸介と徒野さんの間には、そのことで何がしかの話し合いが持たれたようだ。庸介はどこかうんざりした様子で続ける。
「それをうちの父が出しゃばってきて……あの人にあまり余計なことを吹き込まないでください。すぐ張り切りたがるんですから」
きっと照れ隠しなのだろう。まくし立てながらも、庸介は頬を赤らめていた。
私はにやにやしてしまうのを隠す為に、ホットミルクを一口飲んだ。夏の夜に飲むのにちょうどよい温さで、甘くて美味しかった。
「お嬢様、聞いていらっしゃいますか?」
「うん。でも話しちゃったんだから仕方ないじゃない」
開き直るというわけではないけど、口止めされていたわけでもないのだし、責められるいわれはないはずだ。私は言い返す。
「言われたくないんだったら先に言っておいて欲しかったな」
「お嬢様がうちの父と、学校について話すとは思いませんでしたから」
そう言うと庸介はとても訝しそうな顔をして、
「そもそも、どうしてうちの父にお弁当の話を持っていかれたんですか?」
と尋ねた。
私はマホガニーのテーブルにカップを置き、向こう側に立つ庸介を見上げる。
「何て言うか、お礼のつもりだったんだけど」
「お礼、とは?」
「この間、香水買ってもらったでしょう?」
アナスイのシークレットウィッシュ。嬉しくて、大切にしたくて、まだ使ってみてもいなかった。
でも渡邉さん曰く、この香水は高校生にとっては、決して安いものではないらしい。
「だからお礼がしたかったんだけど、思いつかなくて。だったら庸介に、晴れ舞台をベストコンディションで迎えてもらうのがいいかなって」
あと、私もお弁当作りを手伝う予定なんだけど――それはまだ秘密だ。
庸介が知ったら、絶対何か言ってくるだろうから。
「余計なお世話だった?」
尋ねてみると、庸介は面食らった様子で首を横に振る。
「いいえ……お気持ちは、嬉しいです」
「よかった。お弁当は徒野さんに作ってもらうから、楽しみにしててね」
私はそう言って、もう一つ大事なことを言い添えた。
「それとね、明日は庸介の写真を撮らせて欲しいの」
「俺の? なぜです」
庸介はますます戸惑った様子で、どこかうろんげに私を見やる。
当然、私は正直に答えた。
「徒野さんたちに見せるんだよ。庸介の晴れ姿」
「え……。恥ずかしいのですが」
彼は絶句したみたいだ。こういう時でも感情を乱さないのはさすがだけど、愕然とした目で見つめられた。
だから私は強く主張した。
「大丈夫、庸介の走ってるところ、すごく格好いいから」
リレーの練習が始まってからというもの、私はその度にグラウンドに足を運んで、庸介の練習風景を眺めていた。
それはもちろん彼と一緒に帰るから、待っていなくてはならないからでもあったのだけど、風を振り切って走る庸介が思わず見とれてしまうほど素敵だったのも確かだ。
あんなに足が速いなんて知らなかった。
あんなに格好よかったってことも知らなかった。
だから私は写真を撮りたい。徒野さんたちにも見せるけど、一枚くらいは私も欲しい。アルバムに挟んでおきたいと思っている。
私の保証をどう思ったか、庸介はしばらく疑るような目を向けてきた。
だけど、彼の中で何らかの結論が出たのだろう。短く息をついた後で、言った。
「お嬢様がそう仰るなら、構いません」
「ありがとう。なるべく写りのいいのを持っていくからね」
「お願いいたします」
恥ずかしがる割に、写真写りは気にするんだ。変なの。
私はまたホットミルクを一口飲んで、
「記念にもなるし、いいよね」
庸介は、なぜかそこで眉根を寄せる。
「ただし条件がございます、お嬢様」
「条件って何? それを満たさないと写真撮らせてくれないの?」
「ええ」
にべもなく言い放った後、彼は表情一つ変えずに続けた。
「俺の写真を撮る代わりに、お嬢様の写真も撮らせてください」
カップを置こうとする私の手が震え、残りわずかなミルクの水面が波立った。
私の目の前に立つ庸介は、家にいる時はいつも姿勢がよくて、表情は生真面目だ。学校ではいろんな顔を見せてくれる『幼なじみ』なのに、仕事中の彼からはそういう親しみやすさはほとんど感じない。
だけど二人きりの時――私の部屋にやってくる時、庸介は時々、私をうろたえさせるようなことを言う。
これはごく最近、顕著になったことだけど。
「……わ、私の写真なんて何に使うの?」
さっき聞かれたのと同じ問いを、私は上擦る声でぶつけた。
飲み物を飲んでいるはずなのに、急速に喉が渇いた。ホットミルクにしたせいなのか、身体が熱くて、心臓がどきどきと速い。写真を欲しがるなんてどういう意味だろうって考えてしまったからだと思う。
本当に、どういう意味だろう。
私の疑問に、庸介はやはり顔色を変えず、だけどいくらか間を置いてから答える。
「思い出作りです」
「思い出って……」
「俺が思い出を欲しいと思っては、いけませんか」
真面目に聞き返されると、私の方が言葉に詰まってしまう。
「そんなこと、ないけど」
すると庸介は表情をほんの少しだけ和らげて、私に向かって深々と頭を下げた。
「お嬢様、お許しくださりありがとうございます」
その口調もお辞儀の仕方も、徒野さんとすごくよく似ていた。
私が疑問に思っていることには、一切答えてくれていないけど。
でも私も、庸介の写真が欲しいと思うのはそういう理由なのかもしれない。
思い出作り。彼の晴れ姿を、今まで知らなかった彼の格好よさを、写真に留めておきたいと思った。
だったら庸介は私の、どんな姿を撮りたいと思っているのだろう。
「私、出るのは二百メートルと幅跳びだけだよ。それでもいいの?」
特に代表にも選ばれていない私が出場するのは、全員参加のその二種目だけだ。当然それはクラスメイトの庸介も知っていることで、彼はすかさず頷いた。
「競技中でなくても構いません。俺と一緒に写ってくだされば、それで」
庸介が言い、私は、今度は言葉もなくなった。
喉が詰まったみたいに何も言えなくなって、大慌てでカップのミルクを空にする。
彼はずっと私を見ている。私が視線をさまよわせている間も、ごちそうさまとカップを置いた後も、恐る恐る顔を上げてそちらを窺った時も、変わらずに私を見つけ続けていた。
そして空になったカップを拾うと、もう一度頭を下げてくる。
「明日はよろしくお願いいたします、お嬢様」
「う、うん」
私は頷くのがやっとだったけど、立ち去ろうとする彼にこれだけはと言っておいた。
「明日に備えて早く寝てね。あと、ストレッチも忘れずに」
微かに笑い声が漏れた気がした。
「承知いたしました。お気遣いありがとうございます」
「うん、おやすみ」
「おやすみなさいませ、お嬢様」
彼が部屋を出ていった後、私はぱたりとソファに倒れ込んだ。
すっかり熱くなった額に手を当て、天井を見上げながら呟く。
「何なんだろう、もう……」
だから、写真が欲しいなんて、一体どういうつもりだろう。
幼なじみみたいに長い付き合いだというのに、庸介のことはどんどんわからなくなっていく。
そのことが嫌なわけではないけど、何だかすごく恥ずかしい。