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(最後に一言、言わせて)

 ――ふと、冷たい風が吹きつけた。
 屈めていた身を起こし、アロイスは空を見上げる。雲が広がってきたようだ。
 芽吹きの季節を迎えても、日が翳れば風も冷たくなる。畑仕事の最中では心地よいくらいだったが、この程度の風さえ身体に障る者もいる。

 アロイスは視線を巡らせ、野菜畑の隣に作った小さな花壇に目を向けた。
 そこにいた若い婦人は、ようやく膨らみ始めた腹部を庇いながら花を摘んでいた。鋏で花の茎を切る、たったそれだけの仕事さえ難儀しているようだ。
 しかしアロイスが案じていくら苦言を呈そうと、彼女はそのくらいは自分ですると言って聞かない。アロイスがどれほど気を揉んでいるか、わかっているのだろうか。
「風が出てきましたね」
 声を掛ければ、身重の彼女はゆっくりと振り向いた。
 もうじき母親になるからだろうか、顔立ちが近頃とみに穏やかさを増したようだ。今もアロイスを見て、柔らかい微笑を浮かべている。豊かな黒髪が風に吹かれ、さらさらとたなびいていた。
「そうですね、切りのいいところで戻りましょうか」
 頷く彼女に、アロイスは思わず苦笑した。
「先にお戻りください、マリエ殿。私はもう少し片づけてから参ります」
「わたくしも、花を摘んだら戻ります」
 マリエもおっとりと返事をする。
 本音を言うなら、そんなものは放り出してすぐにでも家へ帰って欲しいのだが――アロイスは諭すように続けた。
「花なら私が持ってゆきますから」
「でも……」
「あなたにもしものことがあっては、あの方に顔向けができません。どうかご自愛ください」
 アロイスは語気を強めたが、当の本人にはさほどの不安もないらしい。マリエはふくらんだ腹を撫でながら、たおやかに笑ってみせる。
「大丈夫ですよ。お医者様には経過がよいと言っていただきました。それに休んでばかりいるのもかえってよくない、身体を動かした方がよいとも伺いました」
「それは、私も耳にしましたが……」
 医者の言葉を信じていないわけではない。城から密かに足を運んでくる侍医だ、腕は確かなはずだった。
 しかしアロイスからすれば、身重の婦人はまさに未知の領域だ。火を使って火傷をしないか、水を汲む時によろけはしないか、刃物を使って指を切ってしまわないかと不安は枚挙に暇がない。
「とにかく、一刻も早くお戻りください。花は私が用意しておきます」
 駆り立てられるように促せば、ようやく聞き入れるようになったのだろう。マリエは笑んで頷いた。
「わかりました。では摘んだ分だけ持って参ります」
 花を三、四輪ほど携えた彼女が、ゆっくりとした足取りで畑から去ってゆく。
 彼女が歩く細い道は真っ直ぐに伸び、傍らに建つ小さな家の裏口へと通じている。そこに彼女が消えるまで、アロイスはじっと見守っていた。扉が静かに閉められると、思わず深い溜息が出た。
 あと数ヶ月もはらはらさせられるのかと思うと、気が気でない。
 彼女は彼女で城勤めの頃の癖が抜けないのか、立ち働いていないと落ち着かないようで、アロイスが諭してもあの通りだ。現在の状況に対するお互いの認識には、ことごとくずれがあるようだった。
 そのずれを除けば、二人きりの生活はまずまずの順調さで続いていた。

 城を出た二人に与えられたのは、町外れの丘陵地帯に建つ小さな一軒家だった。
 特権階級の人々が休暇を過ごす、いわゆる保養地と呼ばれる一帯で、近隣には贅を尽くした立派な別荘が建ち並んでいる。ここで通年を過ごす者は多くなく、だからこそ隠れ蓑とするには都合がいいと、かの令嬢は言っていた。
 二人が暮らす家の隣――と言ってもすぐ隣にあるのは途方もなく広い庭だけで、奥の奥にそびえる邸宅まではちょっとした散歩になる距離がある。ともかくその邸宅は、今はとある令嬢の所有物となっていた。
 彼女の権威と別荘の陰で、アロイスとマリエはひっそりと日々を送っている。

 二人きりの暮らしに不自由は多かった。
 マリエが身重の為、アロイスは家を空ける余裕もなく、必然的に自給自足の生活となった。時々差し入れられる食料品と、畑で採れる野菜類で食事を用意した。アロイスが畑仕事をしたのは紅顔の少年期以来で、久方ぶりに握る鍬は使いにくいことこの上ない。それでもマリエの、そしてカレルの為と思えば、辛いことは一つとしてなかった。
 ただ、城が恋しくなることは時々ある。
 晴れた日に目を眇めれば、遠くに見える白亜の城――もう戻ることの許されぬ場所に、感傷を抱く時もある。
 城の傍にある小さな森には、既に何度か足を運んでいた。会うごとに威厳を増してゆくカレルは、アロイスと会う度にマリエのことを頼むと言ってきた。かつての主から託された思いが、今のアロイスの支えだった。

 アロイスが畑仕事を終え、花を摘んで戻ろうとした時だ。
 家の門の前に、四頭立ての馬車が停まった。車体に描かれた紋章には見覚えがある。ルドミラの家のものだ。
 かの令嬢の豪胆さは年月を越えても相変わらずだった。アロイスとマリエが隠れ住んでいるはずのこの家にも、紋章入りの馬車で堂々と、頻繁に乗りつけてくるほどだった。
 一度、よその人間に見咎められたらどうするのかと尋ねてみたことがある。
『来てくださるのはありがたいのですが、あなたとて醜聞はお嫌でしょう?』
 アロイスの問いに、ルドミラはあっさりと即答した。
『我が別荘のお隣にお邪魔するくらい、おかしなことではないでしょう』
 アロイスはその回答に納得がいかなかった。
 と言うより齢を重ねたせいか、近頃は何かにつけて心配性の顔を覗かせてしまう。長らく仕えていた主は腕白坊主で、多少のやんちゃぶりを不安がる必要はなかった。だが相手がマリエで、しかもカレルの子を身篭っているとなれば、いくら心配してもし過ぎるということはないように思う。
 あとは当のマリエが自覚してくれればよいのだが。

 そう思っている傍から、家の玄関が開いた。
 馬車の停まる音を聞きつけたのだろう、マリエが外へ歩み出てくる。さすがに飛び出してくることはなかったものの、じっとしていればいいのにとアロイスは胸裏で呟く。
 馬車からひらりと降りた令嬢も、同じことを思ったようだ。門の前に立つなり眉を逆立てた。
「ちょっとマリエ! こんな風の強い日に外へ出ては駄目よ!」
「大丈夫ですよ、ルドミラ様。ご心配いただくことはございません」
 マリエは取り成すように微笑む。当然、その物言いではルドミラを納得させることなどできず、かえってぼやかれる始末だ。
「全くもう……マリエ、いつもながら少し用心が足りないのではなくて? 今のあなたは大事な身体だというのに」
 嘆息したルドミラが、次いでこちらを見遣る。目が合うとすかさず苦笑いを浮かべてきた。
「ねえ、あなたも言ってやってちょうだい。マリエったら自分のことには無頓着なんだから。心配しているのはわたくしたちだけではなくてよ!」
 それにはアロイスも同意だった。素早く語を継いだ。
「ご令嬢の仰る通りです、マリエ殿。くれぐれもご自愛ください」
「そうでしょうか。皆様のお気持ちは嬉しいですけど、心配のし過ぎでは……」
 二人から咎められると、さしものマリエもしゅんとした。だが聞く耳持つ気になったようで、挨拶もそこそこに玄関の戸へ手をかけた。
「では、ひとまず中へ入りましょうか。ルドミラ様も、アロイス様もご一緒に」
「それがよろしいでしょう」
 アロイスは頷くと、摘んできたばかりの花をマリエに差し出す。マリエがぱっと表情を明るくした。
「ありがとうございます! 早速、花瓶へ活けておきます」
 そして花を手に、いち早く家の中へと立ち入った。
 来客のある時は、いつも摘みたての花を活けるのが彼女なりのもてなしだと聞いていた。今の質素な暮らしでは、客をもてなす手段も限られている。そもそも客自体がごく少ない人間に限られているのだが、それでも彼女は細やかな心配りを行き届かせている。
 そう思うと今も、マリエなりの心配りを働かせたつもりなのかもしれない。
 玄関前、今はルドミラとアロイスの二人だけだ。

 アロイスはちらと、門を潜る令嬢の姿を見遣る。
 あの日、王子殿下の前で誓いを立ててから、七年が過ぎていた。
 ルドミラはもはや小娘とは冗談にも呼べぬ、麗しい婦人へと成長していた。姿勢のよさと凛とした佇まいは変わらず、気位と知性の高さもさして変わらぬままでいる。それでいて勝気さが多少和らいだせいか、この頃のルドミラはより女性らしい色気を帯びたように映る。
 社交界では今でも引く手数多なのだろうかと、アロイスとしてはその辺りもそれなりに気になる。ご機嫌伺いと称して度々訪ねてくる彼女を、この期に及んで忘れることはできそうになかった。それどころか――。

 ルドミラもちょうどアロイスの方を見ていた。
 目が合うと、そっと笑みかけてきた。その目に今の、四十三になった自分はどう映っているのだろう。今でも老後の面倒を見たいくらいには思っているだろうか。
 その胸中を知ってか知らずでか、ルドミラが少女のように唇をほころばせた。
「あなたは相変わらず、花が好きなのね」
 その言葉に、アロイスは苦笑する。
 彼女は未だに誤解をしている。なまじ花壇などを作っているせいか、あれから七年経った今でも花が好きなのだと思われているらしかった。それはマリエも、そもそもの発端であるカレルですら同様で、皆の認識を改める機会もなく今日に至っている。
 例によって詳しいわけではないものの、育ててみれば花もそう悪いものではないと感じていた。好きかと問われれば複雑だが、嫌いではない。ただほんの少し、寂しい気がするだけだ――もう、花を摘むお二人の姿を見ることはないのだと思えば。
「人間、そうそう変わるものではありませんよ」
 ぽつりと、いくつもの思いを込めて答える。
 その言葉は偽りなのかもしれない。だが齢を重ねたからこそ、そうあって欲しいと願うようにもなっていた。
 たくさんのものが変わっても、本質だけは失われずにあるように。
 カレルも、マリエも、ルドミラも、そして自分も、心底にしまい込んだ想いだけは変わらずにあるように。アロイスはそう思いたくて堪らなかった。
 こちらの意図を酌んでくれたのか、ルドミラは心得た様子でふっと笑った。
 それから小さな声で、
「アロイスさん」
 呼びかけてきた。
 その呼び方に照れたのか、すぐにはにかんで言い添える。
「……やっぱり、この呼び方は慣れないわ。ねえ、前のように『隊長さん』では駄目?」
「今の私はもう、隊長ではありませんので」
 もっともらしく答える。彼女にどう呼んでほしいのか、見え透いているなと自分でも思う。
「仕方ないわね、慣れるようにしておこうかしら」
 ルドミラは首を竦めた。そしてはにかむ表情のまま、更に続けた。
「わたくしの気持ちも、ちっとも変わってはいなくてよ。今は歴史書の編纂で忙しいから、あなたの老後も待っていられるわ」
「引退はまだまだ先ですよ」
 安堵の情を滲ませつつも、口ではそんなふうに言ってみる。
 そして彼女を案内しようと玄関の戸に手をかければ、ついてきたルドミラが声を弾ませた。
「そうね、陛下もおっしゃってたわ。マリエのことを預けられるのはあなただけだって。わたくしからすれば、少し妬けるくらいだけれど」
「陛下に、お会いになったのですか?」
「ええ、先日拝謁したの。お忙しい様子で、あまり長居は出来なかったのだけどね」
 戴冠式を終えてから、まだ一年も経っていない。新しい国王陛下が多忙を極めているのはアロイスも十分よく知っていた。そうでなければもう少し頻繁に、大事な時期のマリエに会おうとするだろう。
「あの方も、そうは変わっていらっしゃらないようよ。わたくしと会っていても、お尋ねになるのはマリエのことばかりなんですもの」
 ――いかにも、あの方らしい。
 思い浮かべてみて、たやすく想像できてしまうことに、アロイスも笑った。
 自分が知っていて、慕わしく思っていたカレルは、今もあの城にいるらしい。もう『殿下』とお呼びすることはなくとも、冠を戴いていようとも、あの方の本質は変わることがないのだろう、きっと。

 自分も、今しばらくは変わらずにあれたらと思う。
 見通せない運命の先、平穏な余生がわずかにあれば。それを望む気持ちを持ち続けていたかった。
 七年間は持ち続けていられた。まだまだ、もうしばらくは大丈夫だろう。
「――ねえ、アロイスさん」
 慣れない調子で彼女が名を呼ぶ。
 家の中に立ち入る直前、囁き声で続けてくる。
「わたくしだって幸せよ。未来までずっと、幸せだって思っているに違いなくてよ」
 ルドミラのその思いも、変わらずにいてくれたらいい。

 この先の未来は知る由もないが、彼女が幸いだと、幸いだったとそう言ってくれるように、お互いに変わらずにいられたらいい。
 齢四十三のアロイスは密かに、そんなことを思っている。
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