どっちがこわい?/後編
扉が開かれる。凍りつくアロイスの視界には、いつ何時も凛とした令嬢の姿が飛び込んでくる。
今日も今日とて気概に溢れた様子で、扉が開くなり真っ先にアロイスの方を見た。否応なしに目が合えば、唇には高潔かつ勝気な笑みが浮かぶ。
高く結い上げた栗色の髪も、身動きを妨げない細身のドレスも、全てがいつもの彼女と変わりなかった。唯一、白い頬だけが普段よりも更に色づいていて、アロイスはしまい込んでいた記憶を蘇らせる。
――恐ろしいと思った。
近衛隊長として勇猛果敢で知られ、主の為なら命を懸けられると自負しているアロイスも、この時ばかりは素直に震え上がった。
ルドミラがアロイスを見つめていたのは一呼吸の間だけだった。しかしアロイスには恐ろしく長い時間に思えた。
令嬢は改めてカレルに向き直り、恭しくお辞儀をする。
「殿下、突然の拝趨となってしまいまして、誠に申し訳ございません」
「気にせずともよい」
カレルは気安くかぶりを振ったが、その答えがむしろアロイスの意識を現実へと返らせた。
手紙を寄越したその日のうちに尋ねてくるとは不敬な振る舞いだ。いくらルドミラに直情的な一面があったとしても、そして彼女がいかなる火急の用を訴えたとしても、そうそう許されることではない。
しかも拝趨の目的がカレル本人ではなく、その御身を守るだけの存在にあると言うなら、非常識なこと甚だしい。
「本日は、どうしても近衛隊長殿と話がしたくて、こうしてお邪魔いたしましたの。殿下にはお時間を取らせて申し訳ございません」
ルドミラが澄まして言ったので、アロイスは思わず口を挟んだ。
「全くです。殿下のご都合も考えずどうしてこのような真似を。あなたがこんなにも不躾な方だとは思いもしませんでした」
「――アロイス、止せ」
しかしすぐに、カレルによって制された。
思わず唇を噛み締めれば、王子殿下はアロイスを穏やかに窘めてくる。
「先にも言ったであろう。ルドミラ嬢は私の友人、この程度のことで無礼とは思わぬ」
それから、思い出したように唇を歪めた。
「何より、ルドミラ嬢が約束もせぬうちからやってくるのは今日が初めてでもない。先日の、お前にケーキを焼いてきたという時もそうだったではないか」
主の言葉は正しかった。危うくすんなりと腑に落ちそうになり、慌ててかぶりを振って反論する。
「ですが、殿下。私は――」
「隊長さん」
すると今度は、ルドミラ自身に遮られた。
視線が動き、自然と目が合う。姿勢のいい貴族令嬢も、そこで柔らかく微笑んだ。
「わたくしに話をさせてもらえたら、殿下の貴重なお時間を潰すこともなく、ほんの少しの時間で済んでよ。まずは聞いてもらえるかしら」
アロイスはうろたえる。
それでいて狼狽を面に出さぬよう、厳めしい顔を作ってみせた。
「あなたのご用件とは、一体いかようなもので?」
「だからそれを、これから話すの。聞いてもらえるわよね?」
「私には殿下のお時間を無駄にしてまで、あなたの話を伺う理由はございません」
「わたくしにはあってよ」
分も余裕ぶりも、今は令嬢の方が勝っていた。アロイスは捻じ伏せられたように黙り込む。
「それとも、わたくしがそんなに恐ろしいのかしら?」
笑声の後で口にされたのは、かつて尋ねられたのと同じ問いだった。
かつては、恐ろしくも何ともなかった。
ルドミラがいかに苛烈な怒りを見せてこようと、面と向かってなじられようと、アロイスが抱くのは煩わしさ程度のものだった。この扱いづらい小娘に嫌々ながらも許しを乞い、そして許された時には、もう関わらなくて済むのだと心底ほっとしていた。彼女はただの幼い小娘だと思っていたからだ。
今のアロイスはそうではない。そうは思わない。
恐ろしいと思う。
「安心してちょうだい」
ルドミラはアロイスの拒絶に、寂しげな口調で応じる。
「あなたの務め、わたくしはちゃんと理解していてよ。これからはずっと、あなたの邪魔をするつもりはないわ。あなたに何か求めるつもりだってないの」
意外な言葉にアロイスは瞠目する。
ならば彼女は、自分に何を言いに来たのか。
「ただ話を聞いて欲しいだけ。……いえ、そうね。誓いを立てに来たのよ、わたくしは」
自らに言い聞かせるように続けた後、ルドミラは再びカレルを見やった。
「殿下にはその誓いの証人になっていただきたかったの。よろしいでしょう、殿下?」
「無論だ」
カレルが躊躇なく顎を引く。
アロイスは眩暈を覚えたが、しかもそれだけではなかった。廊下がにわかに騒がしくなった。その瞬間までは全く気づかなかったのだが――ルドミラの背後、扉が開けっ放しになっている。
その戸口から、マリエと、部下の兵たちが鈴生りになってこちらを窺っていた。マリエは祈るような面持ちをしており、部下たちは一様に興味深げな眼差しを向けている。証人というなら、この場には大勢が居合わせている。
本格的な眩暈がした。
アロイスが前後を失している間に、ルドミラがいつのまにやらその目の前に立っていた。
視界を遮ろうとするように、背筋を伸ばし、凛と直立する姿が恨めしい。彼女の勝気さにここまで手を焼かされるとは思いもしなかった。
かつて笑われたように、そして先程問われたように、彼女自身が恐ろしいとは思わない。ただ。
あの休日に彼女と垣間見た穏やかな時間、あれこそが恐ろしかった。
王子殿下の為に生きることを決めた身には、耐え難い誘惑だった。身勝手な振る舞いをしてでも断ち切らねばならなかったのに、彼女がそうさせてくれなかった。
「隊長さん」
ルドミラが、再びアロイスを呼んだ。
見上げてくるはしばみ色の瞳が、そこで優しく細められる。
「わたくしはね、あなたに惹かれ始めていたのよ」
廊下から複数の溜息が漏れ聞こえる。
アロイスは呆気なくうろたえ、しかし廊下ではなくカレルの方を見た。
カレルもちょうどこちらを見ており、何事か目配せをされたようだ。何が言いたいのかは、わからないふりをした。
「勘違いしないでちょうだいね」
ルドミラの言葉が、アロイスの視線を引き戻すように続く。
「惹かれた、とは言わないわ。だってはっきりとはわからないもの。あなたのことをこの先どう思うか、もしかしたらもっと素敵な殿方に出会うかもしれないし、あなたがあまりにも身勝手な人だから、いつか愛想が尽きてしまうかもしれないでしょう」
率直な物言いだった。多少癇には障ったが、言い返す気にはならなかった。
身勝手なのは事実だ。先程まで、彼女の来ないうちに全てを終わらせようとしていたのだから。
「あなたは言ったわね。歴史とは未来においてのみ評価されるものだって」
彼女は、アロイスが告げたその言葉を覚えていた。
「だからわたくしの今の気持ちも、未来になるまではわかるはずがないわ。ほんの少し惹かれ始めただけで終わってしまうのか、それとも、これから想いが募ってもっと大きなものになるのか。その答えはきっと、未来で詳らかになるのよ」
では、答えの出る未来とは、一体いつのことなのだろう。
アロイスが胸に抱いた疑問を、彼女は看破したように答える。
「あなただって、今でこそ精悍で、よく鍛えていて、自分の力を大いに信じきっているようだけれど、いつまでも若いままではないでしょう? いつかは歳を取っておじいさんになってしまうのよね? 剣だっていつまで持っていられるかわからなくてよ?」
その挑発は、先程よりもはるかに強く癇に障った。
しかし、
「その時こそが、わたくしにとっての未来よ」
彼女がそう言った時、アロイスは反論の言葉を失った。
「その時までわたくしがあなたに惹かれていて、あなたのことを愛するようになっていたら。そうしたら、剣を持てなくなったあなたの面倒はわたくしが見てあげるわ」
複数の誰かがどよめいた。
その騒がしさすら凛とすり抜けて、ルドミラは笑顔で言い切る。
「これがわたくしの今の誓いよ。――本当の未来がどうなっているのかはわからないけれど、今は、そう考えているわ」
心底、恐ろしいと思う。
自分よりはるかに若い令嬢の、途方もない発想も。
その小娘ごときにもたらされた、平穏かつささやかな幸いの一時も。
そして見通せているはずだった自らの運命が、この先の未来が、まるで見通せなくなったことも――。
アロイスがカレルの命に従うならば、若いうちに下野することはできなくなる。なるべく身軽な方がいいと思うのも当然だった。自らの辿るべき道と、運命くらいは理解しているつもりだった。
だが、ルドミラはその運命をかき乱そうとしている。
貴族の家に生まれ、何の苦労も知らぬまま安穏と暮らしてきた、まだ十八年生きたかどうかという彼女が、自分の老後を世話すると言う。老人となった自分ですらも、もしかしたら愛せるかもしれないと言う。その言葉が恐ろしく――だが噛み砕いていくうちに、なかなかに愉快だとも思う。
ならば確かめてやろう。彼女の未来も見届けてやろう。
彼女がその認識の甘さに気づき、自らの浅薄な誓いを悔やむ日を。懸想の入り口に立ったはずの彼女が、そこで回れ右をして心移りする日を。あるいは――彼女が、誓いを勝気に貫き通す日を。
どの未来も全て、アロイス自身の目で確かめてやればいい。
アロイスは深い溜息をつく。
そしてルドミラを、真っ直ぐに見つめ返した。
眼前の令嬢は自信たっぷりに笑んでいる。その笑みが打ち崩される未来も、崩されぬまま保ち続けられる未来も、どちらにせよそう恐ろしくはない。
どちらの運命に転ぼうとも、彼女は自分を、忘れずにいてくれるだろう。
その先に平穏な日々がもしあれば、幸いなこと。なければないで、その時考えればよいことだ。
「ルドミラ嬢」
なるべく優しい声音で呼んだ。
「私はあなたを決して守りはしない男です。あなたの為には剣を振るわぬ男です」
アロイスは淡々と、言葉と想いを重ねてゆく。
「それでもよろしければ、どうぞあなたのお好きなようになさってください」
「ええ。そうするわ」
うら若き令嬢も、ちらとアロイスに流し目を送った。ただの小娘にはできないであろう、ほんのりち艶めいた眼差しだった。
「わたくしも、そういうあなたの方が都合がいいのよ。あいにくだけど、懸想だけしていられるほど暇ではないんですもの」
そんな目をされても、困る。
こちらとて、今は懸想だけしていられるほど暇ではないのだから。
困りながらもアロイスは笑んだ。
何と言ってもその腕一つで隊長まで上り詰めた男だ。いろいろと驚かされ、肝を冷やされはしたが、それでもこの成り行きを面白がり、まだ笑んでいられるだけの余裕があった。
その余裕が完全に失われたのは、大勢の証人がいる前で、ルドミラが豪胆にも飛びついてきた時だ。
日頃の鍛錬の甲斐あって、アロイスが彼女を受け止めること自体はたやすかった。しかしカレルが目を丸くし、マリエが頬を赤らめ、部下たちが容赦なく囃し立ててきた時、さしものアロイスも声を上げずにはいられなかった。
「ルドミラ嬢、殿下の御前です!」
「知っていてよ」
ぎゅっと強く抱きつきながら、令嬢は笑った。
「でも、今日くらいは許していただきませんこと? わたくしだって懸想だけしていたい時があるんだから」
途方に暮れたアロイスは、ルドミラを抱きかかえたまま主へと目を向けてみた。
我に返ったらしい主が、そこですかさず目配せを送る。
――行け、と。
もちろん無理に決まっている。
仕方がないので、主と部下たちへの弁解を、余裕のない頭で考えることにした。
怖いもの知らずの令嬢を抱いたままでは、ちっともまとまらなかったのだが。