ささやかな冬の儀式(1)
うっすらと雲が広がる夕暮れ空に、二つの光が浮かんでいた。一つは時間をかけて下りていく太陽の光で、もう一つは同じくらいの高さに浮かぶ、それよりも小さな虹色の光だ。
「ねえさま、ご覧ください。幻日です」
裏庭の井戸まで水を汲みに出たマリエは、随伴する弟の言葉に頷く。
「ええ、すっかり寒くなりました」
そして、雲を透かした幻想的な陽光に目を眇めた。
冬の日暮れ時によく起きる幻日という現象を、吉凶と結びつけて語りたがる迷信深い者もいる。
だがこの国の冬にはそう珍しいものでもなく、またマリエの主はその手の迷信をとかく疎んでいる。せっかくこんなにきれいなのだからと、マリエもその美しさだけを味わうようにしていた。
「井戸の水も温かくなりましたね」
ミランが井戸から水を汲み始める。
城に上がったばかりの頃は、釣瓶を動かすのにもうんうん唸っていたはずだ。そんな弟もいつの間にか一人で水を汲めるようになっていた。腕はまだ子供らしい細さに見えたが、そのうちにマリエのものより立派な腕になることだろう。
「もうじき雪が降るかもしれません」
水を張った桶を抱え、ミランは声を弾ませた。
期待を込めたその口調に、マリエも思わず微笑んだ。
「ミランは雪が好きなのですね」
「はい。空からふわふわ降ってくるのも美しゅうございますし、辺り一面に降り積もって、街の景色が真っ白になるのも見応えがございます」
ミランは大人びた物言いで語った後、恥ずかしそうに言い添える。
「小さな頃はよく、家の庭の隅に雪うさぎを作りました。かあさまは風邪を引くからよくないと仰いましたけど」
白い雪を固めて作るうさぎは、子供たちが好む冬の遊びの一つだ。
実際、雪が降ると喜ぶのは子供くらいのものだろう。既に大人になってしまったマリエにとっては困り事の一つでしかない。雪が積もれば水汲み一つにも手間取り、洗濯物は乾きにくく、寒さで手は悴むと憂鬱なことだらけだ。
だがそんな冬であっても、雪うさぎはマリエの密かな楽しみでもある。
「ナナカマドの実を赤い目の代わりにするのでしょう?」
マリエは思い出し笑いを堪えて聞き返す。
するとミランは意外そうに瞳を瞬かせた。
「ねえさまもご存じなのですね。雪遊びをなさったことがあるのですか?」
姉の生真面目さを知った弟からすれば、子供らしく雪遊びをする姉の姿は想像がつかないのかもしれない。
実際、マリエは雪うさぎを作ったことがない。
「いいえ、わたくしではありません」
マリエは堪えきれなくなって、くすくす笑いながら続けた。
「雪が降ったら、殿下のお部屋の窓辺を見てごらんなさい。そこに雪のうさぎができているはずです」
「殿下が、そのような遊びをなさるのですか?」
ミランは驚いたのだろう。甲高い声を上げた後、勢い余ってむせていた。
十八、九歳の王子殿下しか知らないミランには、やはり想像もつかないのだろう。
カレルと言えば毎年雪が降るのを誰よりも心待ちにしている人物であり、また身近に雪合戦などという遊びを教える者もいたせいで、冬だからといっておとなしく過ごすということはまずなかった。
雪うさぎを作るのももはや慣例のようなものだ。ちょうど城の庭にナナカマドの木が立っていて、カレルは雪が降るとその実を取りに行き、居室の窓辺に雪うさぎを作る。初めて作ってみせた時、マリエはその丸々とした愛らしい造形に歓声を上げ、主の器用さを褒め称えた。以来カレルが雪うさぎ作成を手がけない年はなく、ある大雪の年には作りすぎてとうとう霜焼けになってしまったほどだ。
とは言えそんな殿下もすっかり成長し、大人になった。今年こそは、窓辺にひっそりと佇む雪うさぎを見ることはないかもしれない――とマリエは毎年思っているのだが、その予感が当たったことはない。
「けほっ」
思い出を辿るマリエの傍らで、ミランが小さく咳をした。
「ミラン、大丈夫ですか?」
とっさに声をかけると、喉を押さえて顔を顰めている。
「ちょっと喉がちくちくして……でも平気です」
「身体を冷やしたのでしょう、早くお戻りなさい」
マリエは弟から水を湛えた桶を受け取り、代わりに羽織っていた肩掛けで包んでやる。熱はないようだが、念の為に一足早く中へ帰すことにした。
「ほら、暖かくして。お水はわたくしが持っていきますから」
「ごめんなさい、ねえさま」
ミランは恐縮していたが、その後も空咳を繰り返していたので、マリエも心配でたまらなかった。
それから数日後、この小国にも真っ白な雪が降り積もった。
丘の上に立つ城も美しい雪化粧を済ませ、気がつけばめっきり冬らしくなっていた。
そして毎年の恒例行事も、マリエの予感を覆して無事に執り行われた。
「失礼いたします」
一声かけてから主の居室に立ち入ったマリエは、窓辺に佇むカレルの後ろ姿を見た。この冷え込みの中でも窓を開け、寒風に白金色の髪を揺らすカレルは、窓の外に積もった雪を両手でそっと集めているところだ。その途中でマリエに気づいて振り返り、悪戯が見つかった少年のような顔をする。
「まだ作っている最中だ。説教なら完成してからにせよ」
「説教などと……ただお身体に障りますから、程々になさってくださいませ」
マリエが近寄ろうとすると、カレルは慌てて窓を閉める。
窓辺にはナナカマドの赤く熟した小さな実と、青々としたカルミアの葉が静かに出番を待っていた。
「冬の風は澄んでいて好きだ。少しの間当たるくらいよいであろう」
カレルは平然と言い放ちつつ、マリエには気遣わしげな目を向ける。
「しかしお前は向こうへ行っていろ。風邪を引かれては困る」
「お心遣いは嬉しく存じますが、わたくしは殿下の御身こそが心配でございます」
「私はお前よりも丈夫にできている。案ずるな」
自信ありげなカレルだったが、ここ十年で何度風邪を引き、何度熱を出したかをマリエはしっかり記憶している。回数を純粋に比較するなら、雪遊びが好きでよく汗を掻く王子殿下の方がはるかに風邪を引きやすい。
「お言葉ですが――」
マリエはなおも食い下がろうとして、そこでカレルに笑われた。
「お互いに案じ合うばかりでは、話が進まぬではないか」
そして毒気を抜かれたマリエに対し、こう尋ねてきた。
「ミランはその後どうだ。熱は出ていないのか?」
「はい。食欲もございますし、本人は至って元気にしております」
数日前に咳をしたミランは、大事を取って休養を取らせている最中だ。
もっとも風邪というには熱は出ず、咳もそれほど続かなかった。本人も体調不良というわけではないらしく、自室で暇を持て余しているようだ。ただ喉だけは不調のようで、時々咳払いをしたり、しゃがれた唸り声を立てたりしていた。
カレルもそんなミランを案じているらしく、やがて気遣わしげに提案してきた。
「やはり念の為、侍医に診せた方がよいのではないか」
マリエの浮かぬ表情を窺いながら続ける。
「お前もその方が安心できるはずだ」
「わたくしもそう勧めたのですが……」
聡明で早熟なミランではあるが、そこは子供らしく医者を怖くてたまらないらしい。マリエが診てもらうよう勧めても頑なに遠慮という名の抵抗を続けている。少し喉が痛いだけで風邪ではなく、この程度で皆様のお手を煩わせるのも申し訳ない――というのがミラン自身が主張する建前だ。
「医者が怖いと申すか。あれもまだまだ幼いな」
話を聞いたカレルは愉快そうに笑ったが、かくいう王子殿下も幼い頃は城の侍医を幽霊よりも怖がっていた。侍医が部屋に来ると聞いた途端、怯えて寝台の下に隠れた小さな王子の姿を、マリエは昨日のことのように思い出せる。
「ミランのことは今しばらく様子を見るつもりでございます」
マリエは思い出には触れず、主の恩情にそう答えた。
「殿下、お気遣いくださりありがとうございます」
「こんなことでも堅苦しい物言いだな、お前は」
カレルはマリエの口調をからかうと、遠ざけるように手を振った。
「さあ、私には冬の儀式をこなす務めがある。身体を冷やすといけない、お前は離れていろ」
どうやら殿下にとって雪うさぎ作りは、儀式と呼ぶにふさわしい重要なものであるらしい。
その物言いにこそマリエは微笑み、それとなくねだってみた。
「殿下のお仕事ぶりをお傍で拝見しとうございます」
「駄目だ。お前に見られていると気が散ってしまう」
カレルはかぶりを振った後、優しい声で言い添える。
「だがな、仕上げは手伝わせてやってもいい。その時には呼ぶから、少し離れたところにいろ」
それでマリエは窓辺から離れ、カレルの作業を見守った。
カレルは再び窓を開け、粉雪まじりの風をものともせずに窓枠に積もる雪をかき集める。そして両手で包むように形を整え、舟形の小さな雪山を作った。
指先で細かく調整した後、そこでようやくカレルはマリエを手招く。
「右側を頼む。左は私がやる」
ナナカマドの実を一粒、カルミアの葉を一枚ずつくれて、うさぎに耳と目をつける手伝いをさせてくれた。
マリエはカレルの赤くなった指先を見ながら、葉の角度と目の高さを合わせて飾りつけた。小さな雪の塊は、葉の耳と赤い目を得て、まるで命が吹き込まれたようにうさぎらしくなる。
作業が済むとカレルは窓を閉め、二人は窓越しにこちらを覗く白いうさぎの姿を眺めた。
耳の傾きも瞳の位置も、ぴったりと息の合った左右対称に仕上がっている。カルミアの葉は風に吹かれてぴくぴくと揺れ、つぶらなナナカマドの目はひたむきに二人を見つめていた。
「本日のうさぎも、実に可愛らしゅうございますね」
ちょこんと窓枠に佇むうさぎを、マリエも目を細めて褒め称えた。
カレルは照れ笑いを浮かべつつ胸を張る。
「自分で言うのも何だが、年々腕を上げているようだ」
「ええ、殿下は雪うさぎ作りの天才でいらっしゃいます」
「作る度に喜んでくれる、可愛い奴がおるからな」
「……ありがとうございます、殿下」
マリエ自身、カレルがなぜ雪うさぎ作りに夢中になるのか、その理由は既にわかっている。
昔のように霜焼けを拵えられるのはさすがに困るが、主の気持ちはやはり嬉しく、カレルお手製の雪うさぎを見るのも楽しみだった。寒いばかりで憂鬱にもなる冬ではあるが、一方で雪が降るのをどこか待ち遠しく思ってしまう。
「ただ、お手が冷えていなければいいのですが……」
マリエはそう言って、まだ赤らんでいるカレルの指先にそっと触れた。
見た通り、氷のように冷たくなっている。慌てて両手で包み、温めた。
「こんなに冷えて……悴んでいらっしゃるのでしょう?」
「雪を弄ったのだから当然のことだ」
カレルには悪びれる様子もなく、むしろ温めてもらうのを待っていたかのようだった。
こうして雪遊びの後に手を温めてやるのも、昔からの儀礼のようなものだ。
代わりに温かい湯を用意すると言っても駄目で、カレルはとにかくマリエの手で温められることを望んだ。それはカレルの手がマリエよりも大きくなってからも続き、十九になった今でも変わらず、儀式のように今年も行われた。
今ではマリエの両手をもってしても、がっしりと大きなカレルの手を全て包むことはできない。
それでも精一杯温めたいと願い、マリエは冷たいその手をしばらく握り続けていた。
そうして一心に手を包んでいると、やがて二人の手は溶け合うように同じ温かさになる。
「今度はお前の手が冷たくなった」
カレルが心配そうに囁いてきた。
それでマリエは面を上げ、
「いいえ、そんなことは――」
答えかけてふと息を止める。
カレルの青い瞳が、窓の外のうさぎよりもひたむきに、自分を見下ろしていた。
浮かぶ表情は真剣でありながらどこか苦く、切なげで、マリエはその意味を測りかねていた。
「殿下……?」
「お前に手を温めてもらうのは好きだ」
ぽつりと、呟くようにカレルが言う。
「だがお前が冷たくなってしまうのは、嫌だ」
たどたどしく言葉を紡いだ後、カレルは温められていた手を離し、代わりにマリエを抱き締めた。
少年時代のようにか細くはない腕は、やすやすとマリエの身体を包み込む。突然の抱擁にうろたえるマリエをよそに、カレルは体温を共有するように腕に力を込めてきた。
「これからは私がお前を温める」
カレルは低い声で宣言すると、その後で少しだけ笑った。
「……ずっと前から、こうしたかったのかもな」
マリエがカレルと共に冬を迎えるのは初めてではない。
だが想いを通わせ合ってから、初めて迎えた冬だった。
温かい腕に包まれて、マリエは戸惑いながらも目をつむる。立場が入れ替わったことに少しの後ろめたさはありつつも、分け与えられる温もりが心地よく、幸せだった。
今年の冬は去年とは違うものになる。強く、そんな予感がした。