運命なんて、知らない/前編
開け放たれた窓から、穏やかな風が吹き込んでくる。緑の匂いがする風は、窓辺に立つカレルの髪をさらさらと揺らしていた。
お茶の支度を始めていたマリエは、ふとその髪の眩しさに目を奪われた。傾く日に照らされた草原のような、美しい白金色をしていた。
そしてここにはいない、未だ顔も知らない人のことを想う。
だが、見つめる近侍の視線に気づいたのだろう。やがて振り向いたカレルは面映そうな顔をしていた。
「どうした、マリエ」
「いえ、あの、……失礼いたしました」
マリエは動じたが、以前と比べればうろたえることも少なくなった。胸中の想いを打ち明け合ってから数日、気恥ずかしさにも胸の高鳴りにも、わずかずつではあるが慣れつつあった。あくまでも微々たる変化ではあったものの。
これまでのマリエの鈍麻さからすれば、むしろ動じてしまうこと自体、大きな変化と言えるのかもしれない。
「謝ることではない」
カレルが笑ったので、マリエはどぎまぎしながら尋ねた。
「殿下は、一体何をご覧になっていたのですか」
するとカレルは無言で手招きをし、マリエを窓辺に呼び寄せた。マリエがそれに従うと、窓から手を伸ばして城の裏手を指し示す。
この窓からは、城の裏手に広がる小さな森が見える。青々と生い茂る緑の向こうには、城下町の景色が霞んでいた。
カレルとマリエがあの森の小道を駆け抜け、町へ下りたあの日から、半月が過ぎていた。
消えぬ記憶はまだ苦味を伴っている。マリエが痛む胸に手を当てると、カレルも静かに告げてくる。
「あの森へ、もう二人で行くことはないだろうな」
そう口にした後、カレルはふと笑んだ。
いいことを思いついた時のような喜色は、だがいつぞやのように幼くはない。現実を知った上で希望を抱く大人の笑みだった。
「しかし私は、お前を隠しておくなら、あの森がよいと思うのだ」
「え……?」
瞬きをするマリエに対し、カレルは抑えた声で語る。
「あの森はよいところだ。城からも街からも近く、どこへでも出かけてゆける。迷うほどの大きさではなく、それでいて緑の匂いが心地よい」
確かにカレルはあの森をこよなく好いていた。城からの外出が許されるのは、公務を除けばあの森へと散歩に出かける程度だ。だからだろう、用事のない晴れた日には、マリエと近衛兵とを従わせてよく足を運んでいた。
「一見してわかる通り、あの森は、作られた森だった」
ナイフで形を整えたような、美しい菱形の森だった。人の手が加えられたことは明白で、大きさからしても迷うことは絶対にないであろう場所だ。
「あの森がどうして作られたのか、私は、ようやくわかった」
どこか照れくさそうにカレルが笑んだ。
頭巾を被るマリエの頭を撫でながら、声を落として優しく続ける。
「いや、あの森を通る道が、と言うべきかもしれぬ。なぜあの森は小さく作られたのか、なぜ道を通さねばならなかったのか――ようやく、腑に落ちた」
それでマリエも、先日観た芝居のことを思い出す。
二つの心を背負った貴い身分の青年と、酒場で働く歌姫は、あれからどうしたのだろう。どのようにして想いを育んだのだろう。歌姫が青年の元へ向かう以前、二人はどのようにして逢い、ともすれば身分の差によって打ち壊されてしまいそうな儚い想いを、歴史から消えるまでの間、保ち続けていられたのだろう。
その答えがあの森と、森の小道にあるのかもしれない。城と街との間にある、小さな森。城門側からではなく、城の裏手口から通じている道が、小さな森を迂回せず通り抜けているその事実こそが。
とはいえ、本当のところはわからない。マリエが知っているのはただ、芝居の登場人物たる二人が幸せな結末を迎えたということだけだ。
そしていつかは、マリエとカレルも同じ道を辿るようになるのかもしれない。
不意に、廊下で声がした。
自然と見つめ合っていた主と近侍は、その声ではたと我に返る。ほぼ同時に視線を向けた扉から、女性の声が聞こえてきた。
「ルドミラ嬢か」
カレルが不審そうに眉を顰める。
「しかし何やら、様子が妙だな」
廊下から聞こえてくるのは、挨拶にしては鋭い婦人の声だった。兵が応じているらしく、宥めるような声も響いている。
「近衛の皆様にも、ルドミラ様の来訪は伝えたはずなのですが……」
ただならぬ声の応酬に、マリエも不安を抱いた。
ルドミラに手紙を認めたのも、やはり数日前のことだった。今度は本から文章を引用せず、自分の言葉だけで綴った。先日の詫びと、ごく簡単な事の顛末。そして本日の、お茶の時間への招待をしたためた。
令嬢からはすぐに返事が届いた。相変わらずのごく事務的な文面で、必ず伺う旨が記されていた。それでマリエは安堵し、今日の彼女の来訪を心待ちにしてきたのだ。
「様子を見て参ります」
マリエは扉に駆け寄り、廊下の様子を伺った。
すると居室前の廊下は騒然としていた。困惑顔の近衛兵たちが、胸を反らして憤るルドミラを遠巻きにしている。明らかに憤然とした面持ちのルドミラは、ただ一人目の前に立つアロイスを睨みつけていた。
令嬢と相対するアロイスは、困惑の面持ちで口を開く。
「ですから、私は先日の非礼をお詫びしたまで。なぜご立腹なさるのですか」
「非礼ですって! よくもまあ、そんな一言で件の振る舞いを表せますわね!」
ルドミラは地団駄を踏んだ。
「そもそもわたくしは、あなたに詫びていただきたいだなんて欠片も思っておりません! わたくしを絨毯か何かのように抱えて運んでいった挙句、地面に放り出して転がしておくだなんて狼藉、忘れようと思っても忘れられませんの! おあいにくさま!」
「では、何と申し上げればご満足いただけるのですか」
慇懃無礼にアロイスが尋ねた。
覗いていたマリエはまずいと思ったが、時既に遅し。火に油を注がれた格好の令嬢は、美しい顔立ちを引き攣らせた。
「何も言わなくて結構! その代わり、二度とわたくしを物扱いしないでちょうだい!」
「善処いたします」
困り果てた様子で、それでもアロイスはいつもの調子を崩さない。それがルドミラの神経をことさら逆撫でしたようだ。歯噛みする音が聞こえてきたので、マリエは恐る恐る口を挟んだ。
「あの……ルドミラ様……」
「何よっ!」
突き刺さるほど鋭い声を上げたルドミラは、マリエと薄く開かれた扉とを目にした瞬間、気恥ずかしそうに怒りを萎めた。
「あ、あら、マリエ……。殿下はいらっしゃるの? お邪魔してもよろしくて?」
「ええ、あの、どうぞお入りくださいませ」
マリエはルドミラを先に招き入れた。ルドミラはつんと顎を反らし、カレルの居室へ入っていく。その小さな背中を扉の向こうに見送ってから、マリエはアロイスにそっと告げた。
「後のことはお任せください、アロイス様」
「お任せします」
アロイスは疲れ果てた様子で苦笑した。
「私はどうも、かのご令嬢の扱いが不得手のようです。じゃじゃ馬よりも気難しくておいでだ」
しかしマリエは、二人には仲良くいて欲しいと思う。アロイスもルドミラも、共にカレルが信頼を置く存在だ。これからは顔を合わせる機会も増えるだろうから、あまり険悪なようでは互いに困るだろう。
「遅くなりまして申し訳ございません、殿下」
カレルの前に現われると、ルドミラは何事もなかったかのように品よくお辞儀をした。
「ルドミラ嬢、アロイスの数々の非礼は、私が代わって詫びをする。本当に済まなかった」
やり取りを聞いていたカレルが謝罪を告げると、令嬢は再び勝気そうな表情をひらめかせる。そして聞こえよがしに応じた。
「殿下に謝っていただくことではございませんわ。あの方がお勤めに熱心なのは存じておりますもの。ただあのお歳にもなって、婦人の扱いもろくにおできにならないようですけど」
たった十八の娘に、女性の扱いを酷評されたアロイスはどんな気分でいるだろう。マリエは閉ざされた扉の向こうで、誰かが咳払いをしたのを聞いたような気がした。
しかし今は、もっと大事なことがある。
「ルドミラ様、先日は大変なご無礼を……」
マリエはルドミラに詫びたいと思っていた。
案じてくれていたルドミラの厚意を、マリエは頑なな態度で踏みにじった。あの厚意があったからこそ、マリエはやっとの思いで頑なさを打ち捨てることができたのだ。一つの道を正しいものとして選び取ることもできた。だから、今こそ謝らなくてはいけなかった。
ルドミラが、ちらとマリエを見る。そして謝罪を遮るように言った。
「お手紙、じっくりと読みましたわ。先に言っておきますけど」
「は、はい」
「わたくし、お詫びの言葉を聞くのはあまり好きではありませんの。だって、どうお返事してよいのかわからないんですもの」
聡明な令嬢も、この時ばかりは少女のようにはにかんでみせた。
「ですからお詫びは要りませんわ。マリエも、殿下もです。とっとと仲直りをいたしましょう?」
驚くマリエの眼前で、ルドミラは十指を組み合わせ、もじもじしている。言葉の潔さとは裏腹に、歳相応の面差しが不安げにマリエの答えを待っている。
だからマリエはためらわずに笑んだ。
「嬉しゅうございます。ありがとうございます、ルドミラ様」
「あら、わたくしはお礼を言われるようなことはしていませんわよ」
ルドミラは微かに頬を赤らめた後、気を取り直したように微笑み返す。
「それより、お茶にしてくださらない? わたくし、喉がからからですの」
その言葉に、マリエはもう一度頷く。
「はい、ただいま」
「マリエ、私も早くケーキが食べたい。切り分けてくれ」
「かしこまりました、殿下」
カレルとルドミラに促され、マリエは幸せな気分でお茶の支度をする。本日のクルミのケーキは焼き色もよく、とびきり素晴らしい出来映えだった。
近侍としてのマリエの働きに報いるように、カレルとルドミラは揃って健啖ぶりを見せた。お茶を何杯もお替わりし、お茶菓子は一つとしてもれなく二人によって存分に味わわれた。
何度目かの茶葉の交換の後、入れたてのお茶を差し出せば、上機嫌のルドミラがふと切り出した。
「わたくし、いつか、歴史書を綴ってみたいと思っておりますのよ」
「あなたは学問の道に進みたいと申すか」
カレルが怪訝そうに聞き返すと、ルドミラは目を細めて頷く。
「進めるかどうかはお家次第ですけど……わたくしの手で、わたくしなりの解釈をした歴史を一冊の本に認めてみたいと、ずっと夢描いておりましたの。人によって歴史を見る目が違うのは、当然のことでしょう? わたくしなりの歴史観を、一度きちんと書き残しておきたいんですもの」
そこまで語った時、令嬢は悪戯っぽく片目をつむった。
「その時は、殿下とマリエについても忘れずに記したいと思っておりますの。よろしくて?」
「わ、我々のことをか?」
叫ぶような声の直後、カレルがクルミのケーキでむせた。マリエが慌てて背中を擦ると、ルドミラはくすっと愛らしく笑った。
「だってわたくしが書かなければ、わたくしが見聞きした事実は埋もれてしまうでしょう? お二人がお城を抜け出してお芝居を観に行かれたことも、その懸想がめでたく成就なさったことも、客人を蔑ろにするほど仲睦まじいご様子だったということも、よく存じ上げているわたくしこそが書き残しておかなければ」
「そこまで克明に書き残されても困る」
散々咳き込んでからようやく、低い声でカレルは応じた。
「公にできぬ本は、人目に触れぬよう、隠しておかなければならなくなるぞ」
「お城の書庫の蔵書にしていただけるのでしたら、本望ですわ」
澄ましたルドミラの答えを聞いて、カレルはマリエに向かって尋ねる。
「どうする、マリエ。ルドミラ嬢は本気のようだし、このままでは我々の思い出がこの城に、後世まで残ってしまうな」
しかしその問いかけはどこか嬉しそうだった。それでも構わぬと言いたげに、カレルは幸せに満ち満ちた笑顔を浮かべている。
マリエもつられて、唇をほころばせた。
「わたくしはルドミラ様が綴られたその本を、いつか読みとうございます」
もしかすると訪れるかもしれないその日に、そっと思いを馳せてみる。
数ある歴史書の中に、自分の名が残るかどうか。それはどうでもよいことだった。
ただ、在りし日の思い出が形に残るなら、その逸話は町で観たお芝居のように、誰かの心を和ませることになるかもしれない。
誰かがその歴史書を読み、そしてとある王子の懸想ぶりと、彼に尽くす近侍の的外れな奮闘ぶりを笑ってくれるのなら――それは幸いだとマリエは思う。
それこそが、マリエの生きた証となるだろうから。