例えば此処を離れるとしたら、/後編
居室に戻り、遅い昼食を済ませると、カレルは舟を漕ぎ始めた。椅子の上でうとうとしては、慌ててかぶりを振るのを何度か繰り返した。明らかに瞼が重そうだったが、どうにかして堪えようとしているようだ。
昼食の後片づけを終えたマリエが、すかさず見咎め、進言した。
「殿下、少しお休みになってはいかがですか」
「……嫌だ」
不服そうにカレルが答える。
「せっかくお前が傍にいるのに、眠ってしまうのはもったいない」
そうして切なげな、とても名残惜しそうな表情を向けてくる。
マリエは照れから頬を染めつつ、言葉ではこう応じた。
「わたくしは明日も、必ずお傍におります、殿下」
「当たり前だ。私は今日が終わってしまうのが惜しいのだ」
カレルは自らの手の甲を抓り、睡魔に打ち克とうとしている。それだけ必死に堪えたくなるほど眠いということなのだろう。昨晩は一睡もしていないそうだから、無理もない。
二人きりの室内には、一見して普段と変わったところがなかった。
強いて言うなら寝室の花瓶が空のままになっている点と、その傍に置かれた赤いリンゴが、何とも言えぬよい香りを漂わせている点、その二つだけが大きく違う。
あらゆるものが居心地よく設えられているのはいつもと同じだ。カレルが椅子に腰掛け、その傍らにマリエが控えているという構図も、やはりいつもと何も変わりない。
ただ、二人の間にある空気は、普段通りというわけにもいかないようだ。
もしかすれば『普段』などというもの自体、今日を境に変わってしまったのかもしれない。
「うっかり眠ってしまえば、お前がどこかへ行ってしまいそうな気がする」
カレルは椅子からマリエを見上げ、酷く感傷的なことを言い出した。
「今日はもうお前を離したくない。部屋には帰らず、ずっと私の傍におれ」
重ねる物言いは熱に浮かされているようで、その眼差しも睡魔のせいでとろりとしている。自分を見上げる青い瞳が揺れるのを、マリエはどぎまぎしながら見つめ返した。
「わたくしはどこへも参りません。ご安心ください」
「本当か。本当に、どこへも行かぬと申すか?」
「夕食の支度には参りますが、そのくらいでございます」
マリエが答えると、カレルは何やら言いたげな顔をした。だが何か口にするより先に、瞼がのろのろと下りてくる。
「殿下、どうぞ寝室でお休みになってくださいませ」
すかさずマリエは告げ、途端に重そうな瞼がはっと開いた。カレルはまたかぶりを振る。
「眠くはない」
「殿下、無理はなさらずに」
「無理などしておらぬ。お前と二人でいたいという、私の気持ちがわからぬか」
「いえ、それはその、よく存じておりますけれど……」
カレルは随分と素直な胸中をぶつけてくるようになった。それはマリエをやはり素直にときめかせたが、主が睡魔と真正面から戦う様子は見ていて辛い。まるで大変な苦行を強いているようで、マリエからするとかえって心が痛むのだった。
「夕食のお時間にはきちんと起こして差し上げますから」
そう提案してみたものの、既に外は日が暮れていた。昼食が遅くなった分、夕食の時間が遅くなるのは必然だろう。それを理解してか、カレルは惜しむように顔を顰める。
「もったいないではないか。せっかく、お前が傍にいるというのに」
「明日もお傍におりますから」
「それはさっきも聞いた。いてくれなければ困る」
「夕食のお時間が来たら声をおかけします」
睡魔のせいか、同じような押し問答がしばらく続いた。
やがて、カレルが先に折れた。
「名残惜しいことこの上ないが、限界だ。少し休む。日が変わる前に必ず起こせ」
マリエは安堵に胸を撫で下ろしたが、面には出さないように努めた。あからさまにほっとしてみせれば、きっとカレルが気を悪くするだろう。長い時間共にいたいのは、マリエとて同じだ。
「承知いたしました」
顎を引くマリエを見やり、カレルは短い間逡巡を見せた。だがすぐに意を決した、もう一言添えてきた。
「それと、一つ条件がある」
「条件でございますか?」
マリエが聞き返すと、カレルはためらいがちに語を継いだ。
「私が寝つくまででよい、傍にいるように」
「構いませんが……」
意外な言葉にマリエは応じ、それからくすっと笑ってしまう。
「殿下がそんなふうに仰るのも何年振りでございましょう。ご幼少の頃に戻られたようです」
凛々しい青年になったかと思えば、こんなふうに甘えてくることもある。マリエはそれがおかしかったのだが、
「マリエ、お前はまたしても勘違いを……」
カレルはなぜか腑に落ちない顔で、何か反論しかけて――言葉の代わりにあくびが出た。そのせいか、反論を諦めたようだった。
寝室に入るや否や、カレルは上着を脱ぎ、寝台へ腰かけて靴も脱いだ。後は着替えもせず、そのまま夜具に潜り込んだ。よほど眠かったようだ。
共に寝室へと立ち入ったマリエは、寝台の隣に椅子を引き、腰を下ろした。天蓋から下りた薄絹の向こうにカレルの影が見える。そちらへ目を凝らそうとすると、中からカレルの手が伸びてきて、薄絹を引き開けてみせた。ランタンの明かりに照らされた、まどろむ顔がマリエを見やる。
「傍におるな、マリエ」
「はい、ここに」
マリエは頷き、同時に懐かしい記憶が蘇ってきて、少し笑んだ。
「こうして寝室でお傍にいると、昔のことを思い出します」
そう切り出すと、枕に頭を埋めたカレルが怪訝そうに尋ねた。
「昔のことだと?」
「はい。殿下が幽霊の話を耳にされて、大変心配していらしたことでございます。お一人では眠れなそうにないからと、寝つくまでわたくしがお傍に……」
「いつの話だ」
たちまち、カレルはばつの悪そうな顔になる。
「それは私がまだ、十になるかならないかの頃であろう。昔も昔、大分古い話ではないか。そんな話は忘れてしまえ」
「なるべく、善処いたします」
唯々諾々とは従えず、マリエはそんなふうに答える。
カレルにとっては忘れて欲しい記憶でも、マリエにとっては懐かしく、いとおしく、大切な記憶だ。忘れられるはずがない。
これからは何もかも覚えておきたいと思う。
カレルに関わることは、全てが貴い歴史となるはずだから。
マリエが知るのは歴史の真実だ。他の人々が知らずに生涯を終えてしまうような真実も、マリエはこの先、子細にわたってじっくりと知ることができる。この目で見て、この耳で聞き、遠く離れた後で思いを馳せることもできるだろう。それは常に穏やかな日々ではないかもしれないが、マリエ自身が望む、最も幸いな生き方ではないかと思う。
「そもそも傍にいろと言ったのは、そういう意味ではないのだがな」
既に幼くはないカレルが、薄絹を掴んだままで恨めしげな目を向けてきた。
意味がわからず、椅子に座るマリエは小首を傾げる。
「では、どういう意味でございましょうか」
「本当にわからぬか」
「はい、あいにくと……申し訳ございません、殿下」
「まあよい、私も今は酷く眠い。次の機会までは堪えておくことにする」
カレルは一人で会話を完結させると、夜具からもう片方の手も出して、そっとマリエへ差し伸べた。長い指、広い手のひらの青年らしい手を、マリエは目を瞬かせて見つめる。
「せめて、手を貸せ。私が寝つくまででよい」
「……はい、殿下」
照れながらもマリエはそれに従う。指を絡め、求め合うようにきつく手を繋ぐ。手のひらがぴったりと触れ合うと、互いの体温が混ざっていくのが心地いい。
しばらくは手を繋いだまま、二人とも黙っていた。
眠いと言ったはずのカレルは、なかなか目を閉じなかった。
かといっていつもの闊達さを見せることもなく、片手で薄絹を引き開け、もう片方の手でマリエの手を握ったまま、マリエをじっと見つめ続けていた。眠そうな瞳はとろとろと揺れ、欲求に抗おうとする切望を湛えている。薄く開いた唇からは微かな吐息が漏れ聞こえ、そこへ目をやると書庫での口づけを思い出すようで、マリエの心を掻き乱した。
それでも、マリエもカレルを見つめていた。まどろむような青い瞳から目を逸らせずにいた。眠気のせいかカレルの手は次第に体温が高くなり、今は繋いだ手の指先までもが熱い。
鎧戸を下ろし、ランタンの明かりだけに頼る室内は琥珀色に染め上げられていた。その空気が二人の熱で、じっくりと煮詰められていくようだった。
不思議な沈黙を、先に破ったのはカレルの方だった。
「質問がある」
そう言って、マリエが返事をするより先に切り出した。
「何か、望む物はないか」
それはマリエにとって予期せぬ問いだった。とっさに聞き返す。
「望む物と仰いますと……」
「何でもよい。花でも、服でも、宝石でも、お前の望む物を贈ってやる。お前を喜ばせる為に何かしたいのだ。そういえば、お前自身の好みはまるで聞いたことがなかった」
一息に語った後、カレルはからかうように笑ってみせた。
「ああ、そうだ。知っているものが一つある。お前は甘い菓子類が好みだ」
「仰る通りですが、今は特に望む物もございません」
マリエはおずおずと答えた後、ふとひらめいて言い添える。
「ですが、殿下にぜひともお願いしたいことがございます」
「何だ。申してみよ」
「はい。ルドミラ様に、きちんとお詫びをしたいのです」
かの令嬢とのすれ違いも、今日の出来事だった。煮詰められた時の彼方にある、遠い記憶にも思えたが、よくよく考えればたった数時間前のことだ。無礼を詫びる猶予はまだあるに違いない。
「できればあの方には、本当のことをお話したいと思っております」
歴史の真実の、全ては話せないだろう。その中にはマリエが背負い、押し隠していかなければならないものも含まれている。しかし――カレルの他に、自分のことを知っていてくれる者を作ってもよいなら、マリエはその役目をルドミラにこそ頼みたいと思う。
「あの方はとても、信頼のおける方です」
マリエが言うと、カレルも存外にたやすく頷いた。
「かの令嬢には大変な迷惑もかけた。詫びも兼ねて、近いうちにここへ招こう」
「ありがとうございます、殿下」
「味方は、多い方がよい」
言いながらカレルは深く息をつく。
「私は、お前の為にできる限りのことをする。私の傍にいなくとも、せめて、幸いな生涯であったと思えるように、尽くせることなら何でも……」
ゆっくりとした言葉は途切れ、やがて規則正しい寝息に成り代わった。
繋いだ指先からも力が抜け、温かく大きな手が薄絹を手放す。マリエはその両手ごと覆うように夜具をかけてやった後、もうしばらく主の傍らにいた。
穏やかなカレルの寝顔を、目に焼きつけるように眺めていた。
例えばここを離れるとしたら、その時は――その時も、幸いだと胸を張りたかった。
愛情深い想い人を得て、自分は誰よりも幸いだとマリエは思う。
何年先もそう思えるように。今はただ、それだけを望んでいる。