ペルセウスの方角から(6)
山は、春先よりも静かに二人を招き入れた。あかりに手を引かれ、早良は山に立ち入る。薄暗い木々の影を潜り、背の高い草むらをすり抜ける。慣れない道を慎重に登っていくと、やがて開けた一帯に出た。以前、訪れたところだ。
背の高い木が一本だけ、空に向かって伸びている。その周囲を膝の高さまで草が生い茂り、ぐるりと深く囲んでいた。他に空を遮るものはなく、見上げれば、空一面に瞬く星がよく見える。
月明かりの控えめな、夏の星空が広がっている。
季節の移り変わりを除けば、この場所はまるで記憶の通り、そのままあった。
「木には登らないのか?」
早良が尋ねると、懐中電灯を手にしたあかりがおかしそうに笑う。
「それはさすがに……早良さんからいただいた服、破けるといけませんから」
じっと空を見上げる彼女の足元、白いワンピースが夜風に揺れる。
溜息をつき、早良は視線を移す。ここからはちょうど、村を挟んで向かい側の丘が見えていた。頂上と麓に、それぞれ明かりの点る建物のあるあの丘。風の音と木々のざわめきに満ちたこの山からでも、丘の上の賑々しさは想像がついた。皆、星を見始める頃だろう。
まだ昼間の熱が引かない、むっとするような風が吹いている。緑の匂いも春先とは違い、どこか生々しさがある。すぐ傍から微かな虫の声が聞こえてきて、背中を流れ落ちる汗を感じた時、早良はふと呟いた。
「夏の匂いがするな」
いつよりも強く、季節を感じていた。
「え? そうですか?」
あかりが鼻を鳴らす。その後で苦笑いを浮かべた。
「私は虫除けスプレーの匂いがするみたいです」
「それだって十分、夏らしい」
早良は言って、また深く息をつく。
「ここは季節がはっきりしていていいな。春も夏も、ちゃんと来ているんだって実感する。あの街にいると時々、今の季節がわからなくなる」
星空だけではなかった。早良の住むあの街には、失われたものがたくさんある。普段は気付けないようなささやかなものたちは、少しずつ少しずつ、音もなく失われていく。そういったものたちと、上郷で再び出会えたような気がした。
「そうですね」
ゆっくりと、あかりが頷く。
「私も向こうに行ってすぐは、戸惑ってばかりでした。本当に星が見えなくて、初めて耳にしたこと、初めて目にするものばかりで……」
あの街で何度も見かけた、不安そうな面差しがよみがえる。今のあかりはもう、そんな顔をしていない。
「離れてみてからしみじみ思ったんです。上郷ってなんていいところだったんだろうって。夜の空に星が見える、たったそれだけのことがなんて幸せなんだろうって」
散らばる星の光が、二人のところまで届いてくる。澄んだ空を見上げれば、星たちは一つ一つ異なる色をしている。強い光を放つものも、そっとひそやかに瞬くものも、様々だった。
夜風はごく穏やかで、黙っていてもじっとり汗ばむような夏の夜。繋いだ手の中は熱を持ったようだった。それでも星の光は冷たく、冴え冴えとしている。気の遠くなるような遥か彼方で輝いている。
「でも、あの街のことも、私は嫌いじゃないんです」
ふと、あかりがそう言った。
早良がそちらへ目を向ければ、あかりは星空を見上げたままでいた。
「あの街には、いい思い出がたくさんありますから。あの街にいなければ知らなかったこともたくさん、あるんです。上郷にいたままならきっと、わからなかったこと……」
繋いだ手にぎゅっと力が込められる。
「まだまだ未熟者ですけど、たった四ヶ月いただけですけど、それでもたくさんのことを知りました。道に迷わないように気をつけて歩こうとか、知らないお店に入る時は注意しようとか、風邪を引いた時の為に、いつでも食べ物を常備しておこうとか」
風の音に紛れるような笑い声が聞こえた。
彼女が俯く。口元は、ほんの僅かに笑んでいる。
「……好きな人が出来たら、どんな気持ちになるのか、とか」
祈るように瞼を伏せる。そうしている時の彼女はとても儚く、きれいに見えた。
思わず手を伸ばして、抱き寄せたくなる。
「好きな人の言葉を、他の何よりも信じていた方がいいんだってこととか」
あかりは言う。本当に早良のことを信じてくれた、彼女がしみじみと呟くように言う。
「だから私、あの街にも帰りたいって思うんです。夏が終わったら、ちゃんと向こうに帰りたいです」
その言葉は、早良にとっては意外に思えた。と同時に安堵を誘う言葉でもあった。
「よかった。君が向こうに戻りたくないって言ったら、どうしようかと思ってた」
胸を撫で下ろした早良をちらと見て、彼女が笑う。
「心配してくださってたんですね」
「君はこっちにいる方が楽しそうだからな」
「そんなことないつもりですけど」
そうだろうかと早良は思う。あかりが帰省してからというもの、電話越しに聞く声は常に弾んでいた。彼女をそこまで幸せにする上郷という存在に、嫉妬にも似た感情を覚えたこともある。恋敵にするにはあまりにも強大だ。なぜならそれは、彼女を育んできたものでもあるから。
「私は、早良さんといる時が一番楽しいです」
あかりは弁えたようにそう言ったが、早良としては、その一番を他に明け渡していたとしても仕方がないとも思っている。
今のうちは。
いつかは――彼女をここから、上郷から連れ去りたい。心の中、密かに決意しながら。
「早良さんがいてくださったから、私も胸を張って、上郷に帰ってくることが出来たんです」
あかりはそう言って、こちらへ笑いかけてくる。
「だから、次は私、早良さんのところへ帰ります。夏が終わったらちゃんと帰りますから、向こうで待っていてくれますか?」
夏の終わりまではまだ遠い。それこそ星よりも離れた、気の遠くなるほど遥か彼方にあるように思える。
待っていることは不可能ではないだろう。辛いことをやり過ごしてしまうのは昔から慣れていた。そんな風に、あかりのいない寂しさもほんの一時ならやり過ごしてしまえるかもしれない。
ただし、その為には条件がある。早良は笑って、それを告げてみる。
「夏が終わるまでなんて言わずに、今すぐ帰ってくればいい」
「今ですか? 明日、早良さんと一緒に?」
驚いたように彼女も笑う。
「明日は、いくらなんでも無理ですよ。こっちに帰ってきてから荷物は開けたままで、全然まとめてもいないんですから」
「明日じゃない。今だ」
言うや否や、繋いでいた手を強く引いた。
大きくこちらへ傾いだあかりの身体を抱き留める。蒸し暑さはもう気にするつもりもなかった。腕の中に閉じ込めて、どこへも逃げられないようにする。
そうは言っても、彼女には僅かにも抗う気配などなかった。
代わりに微かな溜息が聞こえた。
「……びっくりしました」
腕の中、あかりがそう呟く。早良も動悸の激しさを自覚しつつ、彼女の耳元に囁く。
「ここに来てからずっと、思っていた」
「何を、ですか」
「そういえば俺は空をあまり見ていない。せっかくの流星群だっていうのに、気がつけば君のことばかり見てる」
重症だった。そんなことは、とうに自覚もしていた。
「だから、こうしている方が、星空により集中出来るかと思った」
口実だということも自覚済みだ。空をあまり見ていないのは、本当のことだったが。
胸元であかりが少し笑う。
「こうしてたら、早良さんには星がちゃんと見えますか」
「なるべく、見るようにする」
抱き締めてしまうと、感覚が全て彼女に奪われたようになる。彼女の体温と肌触り、柔らかさ、それから匂い。
「虫除けスプレーの匂いがしませんか?」
顔を上げたあかりに尋ねられ、早良はかぶりを振った。
「それよりもっといい匂いがする」
何度か訪れた、彼女の部屋と同じ匂い。――ほのかに感じた。
腕の中で初めて、あかりが身を捩った。
「早良さんってたまに、ちょっと恥ずかしくなるようなことをおっしゃいますよね」
「そうか? あいにく慣れてないんだ、こういうのに」
何せ生まれて初めての恋だ。ここに辿り着くまでに散々悩み、迷い、いろんなことを乗り越えていて、紆余曲折の末にようやく、こんな穏やかな時間を迎えることが出来た。これからも悩みは尽きないだろうし、迷うことも多々あるだろう。乗り越えなくてはならないものもまだある。それでもこんな穏やかさの為に、彼女を想い続けたい。
「君が嫌がるようなら少し控える」
早良の言葉に、何度目になるかわからない笑い声がした。
「嫌じゃないです。大好きです、早良さん」
それから、二人は抱き合ったまま、お互い越しに星空を眺めていた。
星空だけに集中しているには、余計に難しい時間だったかもしれないが――ふと、あかりが声を上げた。
「あ、流れた!」
ぱっと表情を輝かせる。
「早良さん、見ました? 今、星が流れていきました」
「どっちだ?」
「あっちです、ペルセウス座の方角から……ほら!」
あかりが指差す方向には、たくさんの星たちが輝いている。早良は彼女の肩を抱いたまま、示された空を注視した。動きは光の瞬きだけで、落ちる星は見当たらない。
月が息を潜めた今夜、空は星明かりに満ち満ちていた。目につく星の一つ一つが、今にも零れ落ちそうなほど光を湛えていた。
「次はどれが落ちるだろうな」
流れ落ちる星が見たい。その一心で早良は呟く。
「絶対、見逃さないようにしましょう」
あかりの声が、すぐ傍で聞こえる。
何もかもが満ち足りた今、幸せを心底で噛み締める。
――ペルセウス座の方角から、星がするりと滑り出したのは、その時。