Tiny garden

ペルセウスの方角から(2)

 八月十二日の朝、早良は史子と会っていた。
 数日前に電話をした折、ついでに上郷行きを伝えたところ、是非あかりに届けて欲しいものがあると言われたのだ。それで急遽、出発前に会う時間を設けた。

 自宅の前で待ち構えていた史子は、早良が車を停めるや否や、駆け寄ってきて紙袋を差し出す。運転席の窓を開ければ、明るい声が飛んできた。
「これ、クッキーなの。日持ちのするものがいいかなと思って……よかったらお二人でどうぞ」
「気を遣わなくてもいいのに」
 正直に早良は言ったが、すかさず史子は首を横に振る。
「ううん、大したものじゃないのよ。それに本当に届けて欲しいものはお菓子じゃないから」
「どういうことだ?」
 早良が訝しがると、史子は紙袋を手渡し、中を覗いてみたらと仕種で示す。それで素直に袋の中を覗けば、包装されたクッキーの箱以外に、小さな封筒が入っているのを見つけた。
「……これは?」
 封筒を指でつまみあげる。空色の封筒に宛名などはないが、しっかり封がされていた。ためつすがめつ眺めていれば、史子が中身を教えてくれる。
「それ、この間話していた写真よ。早良くんの」
「俺のか……。何で、こんな物を」
 思わず顔を顰める。付き合いの長い史子が自分の写真を持っているのは承知の上だったが、それをわざわざあかりに見せようとするのが解せない。見る方も見られる方も対して面白いものではないはずだ、と思う。
「だって、あかりさんが見たいって言ってたんですもの。だったらいくつか差し上げようと思って。早良くんの写真が、あかりさんには一番のプレゼントになるでしょう?」
 史子は早良の困惑などそ知らぬふりだ。にこにこ笑いながら続ける。
「あ、出来るだけ可愛い写真ばかりを選んでおいたから。早良くんは安心していてね」
「そうは言われてもな」
 何となく嫌な予感もする。早良は不安を覚えながら封筒を紙袋へ戻す。
「小さかった頃の早良くんを見たら、きっとあかりさんもびっくりするわね。今と全然イメージが違うでしょう」
 しみじみと史子が語る。
「早良くんは昔は活発な子だったものね。あまりにやんちゃだから、私はいつも一緒に遊べなかったのよ。覚えてる?」
「何となくは」
 昔の自分がどういう子どもだったか、おぼろげながらも記憶はある。あの頃はまだ友達と呼べる相手もいたし、気安く人を信じることが出来た。一日の間に笑っていることの方が多く、毎日が充足し、とても楽しいと思っていた。
 齢を重ね、大人になり、早良は多くのものを失いながらも、ようやく新しいものを手に入れた。信頼出来る恋人と友人を得、毎日とはいかないまでも楽しさや充足感を得るようになった。今の、大人になった自分もそれほど悪くはない気がしている。むしろ今あるものを失いたくはないから、昔に戻りたいとは思わない。
 車の外に立つ史子を、早良は改めて見遣る。――自分とは違い、子どもの頃から印象の変わらない彼女は、けれど先月よりも格段に明るくなったと思う。一時見せていたやつれたような面差しは消え、血色もよく、頬がふっくらとしている。浮かべた笑顔も穏やかで、憑き物が落ちたようだった。
「元気そうだな」
 早良が告げると、史子が少し笑った。
「そう見える?」
「ああ。顔色がよくなったみたいだ」
「何とか、上手くやってるから。いろいろあったけどね」
 史子はちらりと背後を見遣る。そこに立つ志筑邸は、夏の朝の涼しさの中、まだ眠りに落ちたままでいるようだ。しんとして何の動きもなかった。
「あれから、少し父と話したの」
 声を潜めて史子が言った。
 早良が目を瞠ると、苦い微笑が返ってくる。
「ほんの少しよ。相変わらず、父は機嫌を損ねてるみたいだったから。でも……ぽつぽつとでも意思の疎通が出来るようにはなったのかもね」
 その後で、史子はためらうように目を伏せた。まだ何か決めかねている様子で、おずおずと言葉を継ぐ。
「あのね、早良くん。私、家を出ようと思っているの」
「……志筑さん、本当に?」
 意外な考えを聞き、早良は更に瞠目する。彼女にとってその行動は、婚約の拒否よりも更に大きな反抗だと思えた。一時期の史子からは想像もつかないような宣言だ。
「私と父は、距離を置いた方がいいような気がしてるの。その方がお互いに話し合うことも出来そうだし、父に余計な心配をされずに済みそうだから」
 そう言って、史子は綻ぶように笑う。
「距離を置いて初めて、私たちは本当の親子みたいに、お互いのことをわかっていられるようになると思うの。いまは近過ぎて、お互いに相手のことが見えなくなってるのよ」
「……そうか。そうなのかもしれないな」
 早良にも史子の気持ちはいくらかわかる。親にとって、自分はいつまでも『子ども』にしか映らない、その苛立ち、歯痒さは理解出来る。いつまでも幼いままではないのだと、大人になったのだと認めてもらうには、はっきり目に留まる行動で示すより他ない。
 史子が行動を取ったら、史子の父親はどういう反応を見せるだろうか。早良には想像がつかなかったが、今の史子なら自身の望むとおりにふるまえるだろう、とは思っていた。威圧だけでは止められないだろうから、きっと。
「ねえ、早良くんはどう?」
 水を向けられて、早良はこれも正直に答えた。
「どうってこともないな。あれから仕事以外の話はしていないし、彼女のことも何も言ってこない。代わり映えしないよ、せいぜい以前ほど口うるさくなくなったくらいだ」
 早良の父親は、あの日以来あかりや史子の名前を口にしていない。早良の行動を咎めることもしなくなったし、詮索することすら止めてしまったようだ。家で顔を合わせても、挨拶の他は仕事の話をするだけ。そういう関係が親子らしいのかどうか、早良にはいまいちぴんと来ない。
 ただ、今日の上郷行きについては父にもそれとなく伝えていた。その件について父が何も言ってこないのは、ある意味で許容か、もしくは諦観しているのかもしれないと思う。
 何を言われても引かない覚悟でいた早良は、父親の態度にいささか拍子抜けもしていた。それでも、自分は諦めることはしたくなかった。いつか自分と、あかりとの関係を認めさせようと心に決めていた。
「本当は認めてもいいと思っていらっしゃるのかもね」
 楽観的とも思える物言いで、史子は言った。
「今更認めるなんてって、意地を張りたくなってしまわれたのかもよ? 早良くんのお父様ってそういうイメージですもの」
「そんな可愛いもんじゃない」
 さすがに早良も苦笑したが、するとすかさず言い添えられた。
「早良くんって、早良くんのお父様にそっくりよね」
「出掛けに気の滅入るようなことを言わないでくれ」
 否定するより、呆れるよりも、早良は少々落胆した。父親としてはもうちょっとでも寛容で大らかな人間になるべきだと思う。自分が父親になる未来は、とてもではないがまだ想像出来ない。
「ごめんなさい」
 明るくなった笑顔で、史子が笑った。
 そして、
「ところで、あかりさんとは最近どう?」
 早良にとってより答えにくい方向へと話題を転換してくる。
 うろたえはしなかった。隙を見せればたちまち突っ込まれるとわかっているからだ。表面上は平静を装い、早良は答えた。
「どうと聞かれても、しばらく会ってないからな」
「でも、これから会いに行くんでしょう?」
「だから、どうなのかは会ってみないとわからない」
 これも正直な思いで答えた。――悪い方向になど全くもって考えてはいない早良だったが、史子の前でそれを匂わせるのは危険だと察知していた。だからあえて素っ気なく言った。
 が、史子は史子で、早良の隠し切れない自信に気付いたらしい。おかしそうに口元を押さえた。
「上手くいってないはずないわよね。これから、会うのが楽しみで楽しみでしょうがないって顔をしているもの」

 史子に気をつけてね、と見送られ、早良は車を発進させる。
 彼女の姿が見えなくなってから、バックミラーでそっと自分の顔を確かめた。
 ――鏡の中にいたのは、確かにわかりやすい表情だった。わざとらしく作ったしかめっつらの、口元だけが今にも緩み出そうとしている顔。早良は普段、自分の顔を面白みのない、つまらない作りだと思っていたが、今の表情は我ながらおかしかった。史子が笑うのも無理はない、とも思った。
 一人きりの車内で、早良は少し、笑ってしまった。


 八月十二日は、からりと気持ちのいい快晴だった。
 雲一つない空の下、早良は車を走らせる。上郷へ、一足先に向こうで待っていてくれている、彼女のところへ帰る為に。
 一緒に帰ろうと言った約束を果たす為に。
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