星が降る日まで(7)
次の週末が目前に迫った、或る日のことだった。早良は夜を待ち、あかりへと電話を掛けた。この間は三日置いて、早いと言われてしまったので、今度は五日置いた。
これでも待っていた方だ。焦れる思いを抑え込み、繰り返されるコール音を聞く。彼女は直に電話に出た。
『――あ、早良さん、先日はごちそうさまでした』
あかりは少女らしい快活さで言ってきた。
「いや、こちらこそ。付き合ってくれてありがとう」
早良も感謝を返す。その後で、ためらいがちに切り出した。
「その……この間、俺が言ったことを覚えてるかな」
『この間? ええと、何のことでしょう』
「また食事に誘ってもいいか、と尋ねたことだ」
告げれば一瞬間があった。
追って、零れるような声が聞こえてくる。
『はい。せっかく誘ってくださったのに、すみません。後から思ったんですけど、ちょっと生意気だったかなって……』
事実、生意気だと思った。子どものくせに子どもらしくもない気遣い方をすると、早良も思っていた。
だが口にはしなかった。先日史子に言われたこともきちんと留意していた。
「君の言いたいことも十分わかる。気を遣ってくれているのもわかっているつもりだ」
一度は肯定し、それから早良は告げる。
「でも、本当はあまり気を遣ってくれない方がありがたい。君にとって心の休まらない時間になるのは、好ましいことではないからな」
『……はい』
あかりが答えたのを聞き、早良は小さく息をついた。
唇と喉が渇いていた。やけにそわそわしてくる。落ち着かない気分で語を継ぐ。
「だから、これからも……時々誘わせてくれないか」
言ってから、あまりスマートな物言いではないような気がしてきた。しかしどう訂正していいのかもわからない。仕方なく、そのまま続けた。
「この前の店よりももう少し、気楽な店を教えてもらった。よかったらまた、付き合って欲しいんだ」
史子から貰ったメールには、数件の情報が載っていた。料理や店の雰囲気について、丁寧な解説まで添えてくれていた。こういうことには実に頼もしい史子だった。早良も認めざるを得ない。
『えっ、あの、でも』
困惑の色がありありとうかがえる、あかりの声。
「嫌ならいい」
早良は言葉の割に、有無を言わさぬ口調で言った。
「ただ、もし君が気を遣っているだけなら、そういう風には捉えないで欲しい。俺は誘いたくて誘っているんだ、君も少しでも来たいと思うなら、来てくれるとうれしい」
もう少し柔らかい言い方が出来たらよかったと、言った直後に思った。
今の早良にはこれが限界だった。
しばらくの間、あかりは考えてくれていたようだ。ノイズ交じりの沈黙だけが流れていった。
ややあって、
『早良さんって、優しい方なんですね』
笑い声と共に彼女は言った。
『私のこと、ここまで考えてくださって……本当にうれしいです。私がホームシックに罹っていた時からずっと、優しくしてくださってて、どうお礼を申し上げていいのか、わからないくらいです』
優しいつもりはなかった。親切な訳でもなかった。
かつて自分で彼女に告げたほど、早良は大人ではない。同情だけで動けるような人間だったなら、もう少し違う、器用なやり方をしていたはずだ。
あの日から今日までずっと、早良は自身の感情だけで動いてきた。思うがまま、ただ自分がそうしたいからという理由だけであかりに接してきた。つまり。
食事に誘うのだって、そうしたいと思うから誘うまでだった。
他に理由は何もない。最早大人ぶる余裕も、偽善ぶるつもりもない。
『だけど私、もうすっかり大丈夫なんです』
あかりは言う。
『もうすぐ、春が終わります。夏が来たら、流星群の季節まで本当にすぐです。ホームシックに罹ってる暇なんてないんです。もうじき帰れるんですから、ちゃんとしていないと雄輝に笑われちゃいます』
穏やかに、快活そうに言ってくる。
それすらも早良にはどうでもよかった。彼女が元気になってくれたのはいい。彼女を気遣うことなんて、どうせ自分には出来やしない。そのくらいならもっと正直にふるまう方がいいだろう。
「夏まではまだ時間があるだろ」
早良が語気を強めた。
「どこか、空けてくれないか。暇を作ってくれ」
『え? えっと……』
「君に会いたいんだ」
言葉の割に、やはり強い物言いになった。まるで言い聞かせるような、もしくは命ずるような口調だった。
あかりがぽかんとしているようだったので、早良はもう一言、付け加える羽目となった。
「デートの誘いだ、これは」
口実でも何でもなく、それが正しい答えだと、やっとのことで早良も気付いた。
史子に散々言われて、からかわれて、それでもなかなか認めようとはしなかったが――ようやく、わかった。気付けた。
単純な話だった。
彼女を、デートに誘いたい。そういうことだったようだ。
曖昧で不安定だった感情に、一つの決着がつき、早良はいくらか安堵していた。
だが今度は別の感情に囚われた。えもいわれぬ気恥ずかしさが襲ってきた。デート、などと一体どの口が言うのだろう。言ってしまったものは仕方がないが、出来れば違う表現が欲しいものだと思う。表現を変えたところで本質が変わらないのでは気恥ずかしさもやはり変わらないだろうが、それでも、この状況は耐えがたい。
『デート……ですか?』
おずおずと、あかりが尋ねてきた。
『早良さんが、私と?』
「そう、だ」
答える早良も、どことなくぎこちない。
『え……で、でも、その、そういうのって……』
「何か問題でもあるのか」
『問題はないですけど……本気で、おっしゃってるんですか?』
言いにくいことを聞いてくるものだと、早良は内心苛立った。どう答えればよいものか。本気だとも、本気ではないとも言いづらい。
「いや、それは、冗談で誘ったつもりはない」
『そ、そうですよね。あの、疑っている訳でもないんですけど、何と言うか、その』
あかりも動揺しているらしいのが、電話越しにも伝わってきた。
『年の差もありますよね、私たち』
「年の差? いや、それほどはないだろ?」
『そうでしたっけ……。失礼ですけど、早良さんっておいくつなんですか』
「二十四」
『あ、そうなんですか。ええと……どうなんでしょう、こういうのって』
どうと問われても。早良も困惑していた。
いや、困惑以前に居た堪れない思いだった。次から次へと気恥ずかしい思いが押し寄せてきて、どうすればいいのかまるで判然としない。あかりが存外にうろたえているのも居心地が悪かった。それほどまでに驚かせるようなことを言っただろうか?
「とりあえず、俺は君に交際を申し込んだ訳ではないからな」
『は、はい。その辺りはわかってます』
「肩の力を抜いて、イエスかノーかではっきり答えてくれると助かる」
早良は相変わらず強い口調で促した。
すぐに息を吸い込むのが聞こえて、そして、
『……じゃあ、イエスです』
あかりが答えた。
『あの、私でよければ……と言うのも、妙ですけど。よろしくお願いします、早良さん』
ようやく、望む答えを得たような気がした。
安堵と照れの入り混じった心情を持て余しながら、早良は微かに笑った。
「ああ、こちらこそ、よろしく」
彼女はどこまで、早良の言うことを本気にしているのだろう。
約束を終えた後で言ってきた。
『本当に、いろいろありがとうございます。早良さんがよくしてくださるから、私もちっとも寂しくありません』
その言葉はやはりどうあっても、早良のふるまいを優しさか親切心からのものと捉えているように聞こえた。
否定すべきか、知らないふりをしておくべきか、今の早良には判別つきがたい。
夏までは、流星群の季節まではまだ時間がある。その頃、どんな気持ちでいるかはまだわからない。あかりがどんな思いを抱えて、上郷へ帰ることになるのかも、わからない。その為に早良が何をなせるかも。
心の向かう先へ従うより他ない。少なくとも早良は、それ以外の術を知らなかった。