Tiny garden

新月の頃(5)

 郊外の住宅街の一角で、早良は車を停めた。ちょうど古びたアパートの前で、あかりはドアを開けて車から降りる。すぐに早良も後に続いた。
 外の空気は夜風に冷え、しんとしていた。肺に冷たさが満ちると途端に空気が切り替わる。先程まで淀んでいた何かが流れ落ち、二人の間には風が吹き抜けていく。
「あの、ありがとうございました」
 あかりは深く一礼して、顔を上げる。明るさを幾分かは取り戻しているように見えた。大人の表情で笑み、首を竦める。
「早良さんのお蔭で本当に助かりました。何とお礼を言っていいのか」
「お気になさらずに」
 早良も軽く笑んでかぶりを振る。落ち着いた心では装うのも容易かった。
「それと、さっきはごめんなさい」
 眉尻を下げたあかりはいたって明るく、先程の件に触れてきた。
「私、愚痴っちゃったみたいで、早良さんにまで嫌な思いをさせてしまいました。さっきの話は忘れてください」
「それもお気になさらず。誰しもあることですよ」
 模範解答を口にした早良を、あかりはにっこりと笑んで見つめた。
「ありがとうございます。早良さん、優しいです」
 思わず早良は息をつく。――優しい、と言われたことに複雑な思いでいた。
 優しいのはきっと、事実だ。あかりを気遣うそぶりで、彼女が喜びそうな言葉を掛けた。落ち込む彼女を励まし、未来へ向かうようにと促した。彼女が優しいと思うのも当然だろう。
 だがその実、早良はあかりと距離を置き続けている。彼女の内面には触れない。彼女の領域には踏み込まない。彼女の未来に何が待っているのか察しも付いているくせに、そのまま進むようにと促している。ここでは、彼女は彼女のままではいられない。そうとわかっていながら、早良は優しさを向けることで彼女の背を押してしまった。自らは既に通り過ぎた、現実的な虚無の方向へ。

 郊外の住宅街は閑静で、人通りも少なかった。しかし夕飯時ともあって、方々で窓から光が覗き、ざわめくような気配が感じられる。目の前のアパートだけはどこにも照明が灯らず、ひっそりと静まり返っていたが。
 静寂の中、あかりがそっと呟いた。
「早良さんが言っていたとおりですね」
「――何が、ですか」
 はっとして早良が視線を向けると、あかりは空を見上げていた。星の見えない空。向こうの方で赤々と街の光に照らし出されているだけの、新月の頃の夜空を。
「星が見えないんだってお話です」
 空を眺めやりながら、彼女はぼんやりと続ける。
「夜になっても星が見えない空があるだなんて思いもしませんでした。実際にこの目で確かめてみるまではなかなか信じられなかった」
 早良は唇を噤んだ。上郷の星空は、星々の輝きはやはりここにはない。
「でも、本当なんですね。ここでは星が見えないんです。街の光が強過ぎて、ちっとも星が見つけられないんです」
 あかりはどこか懐かしむような表情で空を見つめ続けている。どんなに瞳を凝らしても、彼女の望むものはない。あるはずのものが、確かに存在しているはずのものが、ここでは目にすることも叶わない。
「新月の頃だから、本当なら――」
 呼吸をするように彼女が言った。
「――上郷なら、ちゃんと見えるはずなのに」

 冷たい風が吹き抜けて、彼女の結い上げた髪を震わせる。春先の寒さに頬を紅潮させたあかりは、それでもじっと夜空を見上げている。見えないものをいとおしむように。
 早良は黙っていた。何も言えそうになかった。上辺だけの優しさも同情も気遣いも、全て言葉に変えることは出来なかった。そんなものを押し付けたところで、彼女が望むものを見つけられる訳でもない。彼女の望むものはここにない。そして早良の望むものもまた、同じだ。
 望むものがあった。欲してやまないものが。自分ではないもの、早良という人間を形成する要素の中にはない、新しいものが欲しかった。それを手に入れて、自分が充足するのかどうかはわからない。それでも望んだ。叶わぬこととわかっていても、密かに欲していた。だがそれはまだ、早良の目には映らない。確かにあるはずのものでも認めることが出来ないのなら、あるのかどうかわからないものは、更に見つけ出すのが困難だろう。
 それでも、進むしかないのか。絶望しか待っていない未来だとしても。早良があかりの背を押したように、早良の背を押す人間はたくさんいる。留まることは許されない。ただひたすら進んでいくしか、ないのかもしれない。

 もう、用はないはずだった。あかりを彼女の部屋まで送り届けた早良は、すぐに立ち去ってもいいはずだった。今から同窓会の席へ戻る気もなかったし、帰宅の途に着けばいいはずだった。唯一安らげる自室へと戻れば、この絶望感も幾許かは和らぐ。いつものように目を逸らし、逃げ込んでしまえばいい。
 だが、そうとわかっていても早良は動けなかった。夜空を見つめるあかりの表情にじっと見入っていた。あどけなさの残る少女の顔は、見えない星々をいとおしんでいる。彼女の瞳の中に揺れるのは星の光ではなく、震えるような水銀灯の光だけなのに。

「……あ」
 やがて、あかりが早良の方を向いた。途端に大人びた気遣いの色が戻り、慌てた様子で言ってきた。
「あの、ごめんなさい。引き止めてしまったみたいで……その、またおかしな話もしてしまいましたし」
「いえ」
 早良はかぶりを振る。しかし今度は、笑おうとしても上手く笑えなかった。
「本当にありがとうございました、早良さん」
 あかりはもう一度頭を下げてから、思いついたように言い添えた。
「そうだ、古い公民館のことも、ありがとうございました。どうにか話が上手くまとまりそうで、雄輝たちもとっても喜んでます」
「それはよかった」
 頷いた時、早良はあかりと雄輝からそれぞれ貰った手紙のことを思い出す。二人に手紙の返事をまだ出していなかった。詫びなくてはいけなかった。手帳に挟み込んだまま、ずっとそのままにしていたこと。面映さと戸惑いのせいで返事が出来そうになかったこと。それでも他の誰の手にも触れられたくないと思っていること――それから。
 しかし、早良はその話を切り出せなかった。躊躇いがちに切り出す前に、あかりが笑んでこう言った。
「じゃあ、おやすみなさい」
 そうして彼女は駆け出すや否や、目の前のアパートに飛び込んでいく。風のような素早さは健在だった。あっという間に姿が遠ざかり、階段を駆け上がる音とドアの閉まる硬い音が響いた。見えなくなった。
 茫然とする早良の視線の先、ぽつんと明かりが灯った。アパートの二階、右端の部屋。そこにあかりが暮らしているのだろう。真っ暗な建物に唯一灯った柔らかい光。
 彼女はこれから、この街でどう暮らしていくのだろう。寄る辺もなく、溶け込む場所も見つけられず、そして自分を偽る術も持たぬうちはどのようにして生きていくのだろう。辛いことも苦しいことも数多ある世界で、たった一人で未来を切り開いていくことが出来るのだろうか。未来で、彼女の明るさはやはり失われているだろうか。この街の空のように、ひっそりと息を潜めてしまうのだろうか。
 思いを巡らせればきりがなかった。

 早良はゆっくりと目を逸らし、そのまま空を見上げた。新月の頃の夜空に、やはり星は見えない。上郷の空とは違う、淀んだ空だけが広がっている。
 やがて踵を返し、車に乗り込んだ。早良はその時、一つの決意を胸にしていた。まだおぼろげで、躊躇いがちな、しかし初めて他人の為に抱いた決意だった。
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