軌道(3)
その女性は、肩を弾ませていた。丘の上の建設現場前、早良たちの傍まで辿り着くと、息を切らしながらすっくと直立してみせた。
敏捷そうな体つきをしていた。女性にしては背が高く、手足がすらりと長い。ここまでの距離を一気に走ってきたにも関わらず、疲れた様子は窺えなかった。面立ちにはまだあどけなさが残り、少女と呼んでも差し支えないくらいだ。灰色のブレザーとスカートと言ういでたちから、恐らくは学生だろうと思われた。
彼女はスカートの裾をはためかせ、風に乱された長い髪はそのままに、雄輝を睨み付けている。
ややもせず深く息を吸い込み、次の瞬間、
「雄輝っ!」
少年の名を叫んで、一喝した。
「どうしてあんたはそうなの! いつもいつも、いたずらばかりして、人様に迷惑掛けてっ!」
張りのある声が、現場の騒がしさを物ともせず、青空の下に響き渡る。
呼ばれた方はびくりと縮み上がった。周りの子どもたちも、同様に。
「い、いたずらした訳じゃないよ」
雄輝はそう答えて、ちらと早良の方を見る。
「この人に、公民館のことを聞こうと思ったんだ」
「またその話?」
腰に手を当てた女性も呆れたように、雄輝の視線を追う。
そうして早良と、目が合った。
早良は、彼女を観察していた。
興味を持った訳ではなく、ただあまりも唐突な現れ方をした存在について、把握しようとしていただけだった。
彼女の顔立ちを見れば、どことなく雄輝少年と似ていた。威勢の良さも、そのようだ。
あどけない顔が忙しなく瞬きをしながら、早良の方を見ている。長い髪を風が梳いていくのにも構わず、揺すられるスカートの裾を気にする様子もない。化粧をしていない面立ちは、こうして見ると本当に、幼く映った。背が高いだけで、やはり若い娘なのかもしれない。
しかし、早良が年齢まで推察する前に、彼女の表情は申し訳なさそうなものに変わってしまった。
「すみません、うちの弟がご迷惑をお掛けしたみたいですね」
彼女はそう言い、頭を下げてきた。
先程まで、弟に向けていた声とは違い、落ち着いた話し方をしている。それだけはいささか大人びて聞こえた。
「いえ、迷惑と言うほどではありません」
すぐに早良も、当たり障りなく応じた。
それでも彼女はもう一度頭を下げてきた。それから、神妙にしている子どもたちの中で、唯一ふてぶてしい表情でいる弟の頭に手を置く。
「ほら、あんたも謝りなさい!」
「や、やだよっ。俺たち、悪くないもん」
雄輝は強くかぶりを振り、姉の手から逃れた。途端、姉の表情がふくれっ面になる。
「どうしてそう、素直にごめんなさいって言えないの!」
「まあ、いいよいいよ。今度から気を付けてくれれば」
そこで冨安が口を挟んだ。
冨安は厳つい顔に疲弊の色を浮かべ出していて、どうやら埒の明かない姉弟の会話に割り込むタイミングを窺っていたようだ。ようやくと言った様子で続ける。
「あかりちゃんから良く言っておいておくれよ。邪魔になるかどうかってことよりもだね、ここらをうろちょろしてるのが危ないんだから。子どもが入ってきていいとこじゃない」
「本当にごめんなさい。言い聞かせます」
あかり、と呼ばれた女性は、また深々と頭を下げた。大人に対する態度は折り目正しく、接し方に慣れているのが窺えた。
姉の健気な態度を見ても、しかし雄輝少年の不満げな顔は変わらない。
一つ溜息をついてから、汚れた指で早良を示した。
「でも俺、この人に話があるのに」
「人に指を差さないの!」
すかさずあかりは、雄輝の手を叩く。大仰な身振りで手を押さえた雄輝は、顔を顰めながら抗弁した。
「けど、このままだと公民館が壊されちゃうだろ! 新しい奴だってもう造り始められてるし! 早くしないと!」
早良は黙って、一人気を吐く少年の言葉を反芻している。
丘の麓にある古い方の公民館は、確かに後に取り壊される運命だった。老朽化が酷く、いく度か改装工事を施してはいたものの、見栄えもあまりよろしくはない。このまま残しておくなら相応の維持費が必要となることも明白だった。新しい公民館の建設計画が持ち上がった時は、旧公民館の取り壊しに反対する者は誰もいなかった。上郷の住人たちさえ、である。
だからこそこの少年と、少年に従う子どもたちの主張に驚かされた。あの古びた建物を壊すなと言われるとは、思いもしなかった。誰もが新しく建つ丘の上の公民館を歓迎してくれていると考えていた――。
「話ならお父さん、お母さんにしなさい。おじさんたちに言われたところで、そういうのは困る」
冨安がやんわりとそう口にした時、早良もまた口を開いていた。
「君たちはどうして――」
穏やかな声が発せられると、騒音の只中にも関わらず、皆が早良の方を向く。
「向こうの公民館を壊したくないと思っているんだ?」
早良は手で、丘の麓を示す。
見下ろすところに古い方の公民館の、茶色い屋根が見えていた。鉄筋コンクリート造りのあの建物は、昭和初期に建てられたものだ。丘をもう少し下れば、くすんだ漆喰の壁に大きなひびが入っているのも見えたはずだった。
雄輝ははっとしたように瞬きを止めてから、おずおずと答える。
「それは……だって、だってさ。まだ使えるから」
「何言ってるの、雄輝。麓の公民館はがたが来てて酷いって、皆言ってるでしょ」
「でも壊しちゃうことないだろ!」
姉の言葉にも耳を貸さず、雄輝は一歩、前に出た。
躊躇いがちな他の子どもたちを他所に、早良に向かって尚も語り掛ける。
「大体、新しい公民館なんて要らないんだ! 向こうの公民館には思い出もたくさんあるし、皆、あの公民館が大好きだったんだ。それなのに」
真剣な眼差しを受けて、早良も反応に迷った。撥ね付けるのは容易いが、それで万事解決するはずもないのも、わかっている。
「新しいのが出来るって決まったら、村の人はその話ばっかりで、向こうには見向きもしなくなって……!」
力強く雄輝が言うと、他の子どもたちも堰を切ったように、口々に言い募った。
「壊さないで取っておく方法って、ないの?」
「壊すの駄目! もったいないもん!」
「新しいのが出来ても、古い方も残して欲しい!」
水を得た魚のようにいきいきと訴え始めた子どもたち。あかりと冨安が、それぞれに困惑を見せる。
「もう、そういうこと言って、おじさんたちを困らせないの!」
「何もかも決まっちゃってから言われたってなあ」
早良は内心で嘆息した。
彼らの意見は理解出来た。だが、唯々諾々と受け容れることは不可能だ。そもそも早良にはそこまでの権利もなく、新公民館の建設は着々と進んでいる。竣工してしまえば、旧公民館の取り壊しにも直ちに着手することとなるだろう。
子どもを納得させるのは難儀なことだと知っていた。彼らに誤魔化しは通用しない。含めるように何度も何度も言い聞かせ、嘘のない事実を教えてやらなくてはならない。
しかし、それも仕事のうちだ。
社会人としてまだ年若い早良にも、トラブル対処への心得があった。建設現場近隣の住民たちによる抗議や、設計段階での施工主との行き違い、公共施設を巡る地元の論争に巻き込まれたりと言うことは、ごく当たり前のようにあるものだ。
今回の件は論争とも呼べない規模の小さいものだが、彼らもまた上郷村の住人。どうにか納得して、新しい公民館を受け容れて貰いたかった。
このプロジェクトは、早良にとっても思い入れの深いもの。
早良は、ほんの小さなつまづきも許せないと思っていた。
「じゃあ、一度見てみてよ。あっちの公民館がまだちゃんとしてるってことを!」
顔を真っ赤にした雄輝が叫んだ時、早良は頷いていた。
「いいよ、そうしよう」
「……え?」
あかりが、怪訝そうな声を上げる。
忙しない瞬きの後で、慌てたように言い添えてきた。
「あ、あの、弟の言ってることはお気になさらないでください! 本当に無茶なことばかり言う子で――」
「構いません。今すぐとは行きませんが、後で必ず時間を作ります」
遮るように告げてから、早良は雄輝と子どもたちに向き直る。
そしてごく穏やかな表情で言った。
「夕方頃になるけど、必ず見に行くよ。その時、君たちの話を聞かせて貰おう」
「う、うん……約束だぞ」
突然のことに、雄輝は驚きを隠せない様子で、返す言葉にも先程までの威勢がない。
従えられた子どもたちもきょとんとしている。
早良はそんな彼らの呆然とした顔を眺め回し、言った。
「約束しよう。但し、こちらの話も聞いて貰えたらありがたいな。君たちに話しておきたいことがあるんだ。今、作られている新しい公民館が、どれほど素晴らしいものかってことをね」
子どもたちは口を噤み、顔を見合わせる。
交わす視線のやり取り。しかし結局、決定権は雄輝にあるようで、彼は唇を尖らせて応じた。
「わかったよ。聞いたって、俺たちの気持ちは変わんないけどな」
「聞いて貰えるだけうれしいよ」
内心を見せない微笑で、早良が言った。
「わがままばかり言う子たちで、本当にごめんなさい」
あかりが頭を下げてきた時も、やはり早良は微笑んでいた。
「お気になさらないでください。これも、仕事のうちです」
約束を得た子どもたちが、丘を駆け下りていく。先頭を行くのはやはり、あの大柄な雄輝少年。その後ろから数珠繋ぎに連なる姿が遠ざかる。
眼下の光景を眺めながら、冨安はそっと尋ねてきた。
「よろしいんですか、あんな約束をして……」
早良は微笑を保ったままで首肯する。
「納得の行かないものを建てられても、村の皆さんにはご迷惑でしょう。特に次代を担う彼らには、新公民館のことを理解して貰う必要があります」
「しかし、悪ガキどもに無理に付き合ってやらんでも」
「無理ではありませんよ。どうせ今日は、この村に宿泊する予定があったんです。ついでに地元の皆さんと交流を持つ、と思えば」
そう答えてから、早良はふと、丘を下りる子どもたちの列に目を留めた。
大分小さくなった後ろ姿。彼らの列の一番最後に、あかりがゆっくり下りていく。丘を登ってきた時とは違い、長い髪とスカートの裾をはためかせながら、子どもたちを見守るようについていく。
背の高い、手足のすらりとした彼女を、どうして目に留める気になったのかはわからない。
ただ、ほんの短い会話の中でも、子どものようにくるくると表情の変わる彼女のことを、早良は記憶の中に残していた。元気のいい娘だった。弟にそっくりだ。それでいて、きちんと分別を身につけたところもある。どうして彼女のことが印象に残っているのか、不思議な思いもしていた。
きっと、わからなかったからだ。
彼女が大人なのか、それともまだ少女のままなのか。少し口を利いただけではわからなくて、早良も接し方に戸惑ってしまっただけだ。
こうして見送る後ろ姿は、大人の女性のそれなのに――ふと、興味が失せてしまって、早良はそこで視線を外した。