幽霊よりも怖いもの(2)
幽霊騒ぎから数日が過ぎ、田舎の生活は至って平穏だった。ベルはしばらくの間怯えていたようだったし、クラリッサも釈然としない様子ではあった。だがあれ以来幽霊を見かけることはなく、季節外れの猟師小屋を訪ねる者もいなかった。真相はうやむやのままだ。
バートラムとしても、二人が元の快活さを取り戻してくれるのが一番いい。
もちろん解き明かしたい気持ちはあったが、まだ確たる証拠がなかった。
そんな折、バートラムはクラリッサとベルが外出の支度をしているところに出くわした。
「この白いドレスがよいかと存じます」
小間使いに薦められ、赤い髪を結い上げたクラリッサがドレスを手に取る。
「そうね……すっきりと清潔そうに見えるわ」
「はい。奥様の髪色にもよく似合っておいでです」
「ありがとう。では、これにします」
クラリッサは満足そうに微笑み、ベルもその笑顔を嬉しげに見守っていた。
二人の仲睦まじさは見ている側にとっても心地よいものだ。バートラムは温かな気持ちを覚えつつ、声をかける。
「どこかへお出かけかな」
すると二人は振り返り、クラリッサが上機嫌で答えた。
「はい、デュベリー夫人のお招きで。先日のお茶会は悪天でお流れになってしまいましたから」
三つ隣のデュベリー夫妻については、バートラムもよく知っている。
夫人はこの村の出身ではなく町育ちで、やや気取ったところはあるが心根は優しい女性だ。夫のデュベリー氏も温厚な人物で、バートラムとクラリッサにも日頃から親切にしてくれていた。
「奥様、お靴はこちらでいかがでしょう」
そう言って、ベルが靴を取り出した。
エナメル革の赤い靴は、顔が映るのではないかというほどぴかぴかに磨き上げられている。
「磨いておいてくれたの?」
驚くクラリッサに、ベルは照れ笑いを見せた。
「はい。デュベリー夫人のところへ伺うのであれば、お靴は何よりきれいでなければと……」
その言葉を、バートラムは聞き咎めた。
「なぜ? かの夫人は客人の靴にも注意を払うのか?」
小間使いが粛々と答える。
「デュベリー夫人はとてもきれい好きなのでございます。奥様とわたくしも招かれた折にはまず玄関で靴を拭うようにお願いをされます」
そして思い出したように苦笑して言い添えた。
「以前、デュベリー氏が玄関のお掃除をさせられていたのもお見かけしました」
「ええ。畑で転ばれて、全身泥だらけでお帰りになったとのことで」
クラリッサも頷き、恥ずかしそうに続ける。
「ですからわたくしたちも身だしなみ、こと靴に関しては気を配るようにしております。わたくしも、作法にはまだ自信がありませんから」
「君は以前から完璧だろう。どこからどう見ても非の打ちどころのない、愛らしい貴婦人だ」
バートラムが誉めると、妻は一層恥ずかしがって赤い睫毛を伏せてしまう。
「そんなことは……」
むしろ傍で聞いていたベルの方が、嬉しそうに瞳を輝かせていた。
そして昼食後、妻と小間使いが連れ立って出かけていった後――。
バートラムの脳裏にはある推論が浮かびつつあった。
幸いにもこの日、バートラムにはするべき仕事がなかった。
暇なら庭の手入れでもと思っていたから、謎を解くには都合がいい。
「セドリック、私も少し出かけてくる」
そう声をかけると、銀髪の執事は即座に聞き返してくる。
「旦那様、どちらへ」
「例の猟師小屋までだ。留守を頼む」
バートラムは何でもないふうで続けた。
だがセドリックはそれだけで、主人が何事か掴んだのだと察したようだ。珍しく懸念を露わにした。
「お一人で? 私がお供をいたします」
「それでは母が一人になってしまう。君は残ってくれ」
「ですが奥様も仰っていたはずです、何があるかわからないと」
「何もないさ、私の考えが正しければな」
少なくともバートラムは危険など感じていなかったし、万に一つ何かあったとしても切り抜けられる自信があった。
クラリッサが案ずる気持ちもわからなくはない。
だがこれまでに起きた数多の危機及び騒動を、自分は見事に切り抜けてきた。そのことを最もよく理解しているのも彼女のはずだ。
「後を頼む、セドリック。日暮れ前には帰るよ」
バートラムが重ねて告げると、セドリックは納得したのか諦めたのか、ともかく頷いた。
「くれぐれもお気をつけて」
そんな言葉に見送られ、バートラムは単身家を出る。
猟師小屋には、足音を忍ばせ近づいた。
窓から見えないように壁際へ身を寄せ、耳を澄ます。
小屋の中からは微かな物音がした。推測通り、中には誰かがいるようだ。
バートラムは身を屈めて扉へ歩み寄ると、一呼吸置いて、勢いよく引き開けた。
「わあっ!」
小屋の中には男の悲鳴が響き、バートラムの視界はもうもうと立ち込める紫煙で遮られた。
それを片手で払いつつ目を凝らせば、そこにいたのは――、
「……やはり、そういうことですか」
咥えたパイプをぽろりと落とし、へたり込むデュベリー氏だった。
人が来るとは思っていなかったのだろう。すっかり腰を抜かしていて、目を丸くしてバートラムを見ている。
「こちらでいつも喫煙を?」
それでも尋ねてみれば、デュベリー氏は我に返ってうろたえ始めた。
「あ……ああ、ですがこのことはどうか、妻には内密に!」
夫人の見立てか洗練された服に身を包み、いでたちだけなら紳士然としている。
だが顔面は蒼白で、バートラムに対しても平伏さん勢いで詫びてきた。
「奥様を驚かせた件は申し訳ないと思っています! ですが詫びに行けばうちの妻にも知られると思い、どうしても――」
それを聞きつつ、バートラムは改めて小屋の内部に目を走らせた。
扉を開け放ったお蔭で煙は薄らいでいたが、窓はすっかり煤けていたし、煙い臭いも染みついている。
しかしそれ以外に荒れた様子はない。デュベリー氏が純粋に喫煙の為にここへ来ていたのだとわかる。
前に小屋を訪ねた時から奇妙だと思っていたのだ。
燃えさしも燃やした後もないのに煙いのは、煙草のせいだった。
「奥様の目を盗んで、煙草を吸われていたのですね」
バートラムの問いかけに、デュベリー氏は力なく答える。
「うちの妻はあの通りきれい好きです。家で煙草を吸うと壁が汚れると言い、しまいにはパイプを取り上げられてしまいました。しかし吸いたい気持ちは抑えられず、町でパイプを買ってきて、こうして――」
夫人についてはクラリッサとベルからも聞いていた通りだ。
それほどきれい好きなら、この煙は確かに許せないだろう。
「猟師小屋は今の季節、誰も利用しないでしょう。持ち回りの掃除の日だけ気をつければいいと思っていたのですが――」
デュベリー氏はそこで申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「あの日はあなたの奥様と小間使いがうちに来ると知っていました。その時間はのんびりしていてもいいだろうと気を抜いていたところ、お二人が帰ってくるのを見かけて、思わず息を潜めてしまったのです」
それでクラリッサとベルは、煤けた窓越しに誰かの目を見た。
その前に見たという『鬼火』は、やはり燐寸の火だったようだ。
「そういうご事情であれば、奥様には内緒にしておきましょう」
バートラムは肩を竦めた。
「ただ、うちの妻と小間使いには正直に打ち明けることを許していただきたい」
「え……! あ、あの、秘密を守っていただけます……よね?」
デュベリー氏はびくびくしている。
次に煙草の件が知れれば、パイプを取り上げられるだけでは済まないと思っているのだろう。
そういえば前に玄関の掃除をさせられていたとも聞いていたが――案外、煙草の臭いを隠す為にわざと泥だらけになったのかもしれない。
「もちろん、口止めはしておきます」
だからバートラムは固く誓った。
「二人は非常に怖い思いをしたようですから。真実を知らせてやりたいのです」
「そういうことなら……」
不承不承、デュベリー氏は頷いた。
彼としては夫人にさえ知られなければいいようだ。
「夫婦の間に秘密を作るなとは言いますがね……」
別れ際、氏は情けない笑みと共に呟いた。
「秘密のない人間などいませんよ。そう思いませんか?」
それは確かにその通りだと、バートラムも思う。
だとしてもこの件については、クラリッサに秘密を作る気などなかった。
バートラムはクラリッサとベルの帰宅を待ち、皆に事の顛末を打ち明けた。
もちろんデュベリー夫人には秘密だと厳重に言い含めた上でだ。
「まあ、煙草を? こっそり隠れてだなんて……」
メイベルはこの一件を笑い話として受け取ったようだった。
くすっと笑うその隣では、ベルが胸を撫で下ろしている。
「幽霊ではなくて、わたくしは心底ほっといたしました」
「当たり前だ。幽霊なんているわけがない」
セドリックが淡々と述べたのには一瞬顔を顰めていたが、ともかくも納得はしたようだ。
「あの時は奥様と一緒に、本当に驚きましたから――」
そう言いかけたベルがクラリッサの顔を見て、はっと口を噤む。
バートラムもそちらに目をやり、突き刺さるような眼差しに気づいた。
クラリッサは夫を真っ直ぐに見据えていた。睨んでいるといってもいい。
頬は髪色に負けじと燃え盛り、眉をきゅっと逆立てて、唇を震わせバートラムを見ている。
「……どうして、そんな危ない真似を」
その唇から発せられた、声もまた震えていた。
バートラムは苦笑いで応じる。
「危なくはないさ。私は薄々察しがついていたからな」
「でも、読み誤る可能性だってあったでしょう」
どうやらクラリッサは、バートラムが一人で猟師小屋へ行ったことを不服に思っているらしい。
薄々とは口にしてみたものの、ほとんど確信していた。仮に外れたとしても恐れる相手ではないと思っていた。
「私の実力が信用に足るものだということは、君が一番よく知っているだろう」
バートラムは冗談めかした口調で言い返す。
だがそれは生真面目な妻の気に障ったようだ。
「信じているとかいないとか、そういう問題ではないんです!」
弾かれたように立ち上がったかと思うと、声を荒げて非難してきた。
「わたくしがあれほどお一人では危険だと言ったのに、結局聞きもしないで、何でも自分でできるなんて……できなかったらどうする気だったんですか!」
どうもこうも、とバートラムは思う。
自分の実力くらい把握している。できないはずがない。
「君が心配してくれているのは嬉しいが――」
「心配するのは当たり前です! 家族なのですから!」
バートラムの反論さえ制し、クラリッサは怒鳴る。
「わたくしがなぜ怒っているのかわからないなら、これ以上お話しすることはありません!」
そう言い放つと、
「クラリッサ!」
呼び止めるのも聞かず、皆のいる居間を飛び出していった。
とっさに追い駆けようとバートラムは腰を浮かせた。
そこでぼそりとベルが呟く。
「奥様は、旦那様が本当に大切なんです」
恐る恐る、しかしどこか責めるような口調で続けた。
「旦那様がご無事ならよかったという話ではないのです、きっと――」
「よせ、ベル」
それをセドリックが静かに遮る。
「旦那様とて人間だ。女心を読み誤られることもある」
セドリックに言われるのも大変に不本意だが、要はそういうことだろう。
「早く行ってあげなさい、バートラム」
メイベルは慌てず騒がず勧めると、おろおろする使用人たちに微笑みかけた。
「夫婦の間のことは夫婦に任せておけばいいの。まだ日暮れ前ですし、我々はお庭に行って、薔薇でも摘んできましょう」
「大奥様がそう仰るなら……」
「喜んでお供いたします」
ベルとセドリックはあっさりとメイベルの側についた。
バートラムも自分の務めは心得ているつもりだ。黙ってクラリッサを追うことにした。
赤毛の妻は、寝室にいた。
もっともその姿が見えたわけではない。扉に鍵をかけ、閉じこもっているからだ。
「クラリッサ、開けてくれ」
ノックをして声をかけると、すぐさま反応はあった。
「嫌です!」
涙混じりの声が聞こえ、バートラムは凍りつく。
あれほど気の強い彼女を、まさか自分が泣かせてしまう日が来るとは思わなかった。
「悪かった。君を悲しませるつもりはなかったのだが……」
閉ざされた扉に向かって訴える。
「私一人でも平気だと、自惚れていたのは事実だ。済まない」
それを『自惚れ』と称していいのか、バートラムには未だ判断がつかない。
あらゆる辛酸を舐めた少年期、長きにわたる放浪の末に主を見つけた青年期において、完璧とも言える危機管理能力を身に着けたつもりだった。危険を嗅ぎ分けられる知覚も、とっさに動くことのできる判断力も、多少の荒事でさえ切り抜けられる身体能力も全てを有している自負があった。
ましてや今回のことはたかが田舎の一騒動だ。
推論が浮かんだ時には危険はないと確信できた。笑い話として語り聞かせれば、クラリッサの不安も払拭できるだろうと思っていた。
「君を泣かせるほど傷つけたとは思わなかった」
そう告げると、扉の向こうからは啜り泣きが聞こえた。
「バートラム、あなたはわかってない……!」
泣き声と否定の言葉が胸を締めつける。
こうなると普段の冷静さも吹き飛んで、思わず扉に縋りついた。
「頼むからここを開けてくれ」
「嫌と言ったら嫌です!」
「後生だ、クラリッサ。君の目を見て謝りたい」
「何もわかってない人に謝られたって!」
扉を叩いても、揺すっても、返ってくるのは拒絶ばかりだ。
過去には彼女から、もっと苛烈な拒絶を貰ったこともあった。
あの旅立ちまで、クラリッサはバートラムにひたすら手厳しかった。求愛の度に顔を顰められ、彼女の為に尽くしてもその頑なさが和らぐことはなかった。もっとも当時はバートラムの方もわざと彼女の反応を楽しんでいたのもあり――打てども打てども返ってこない一方通行のやり取りさえ、輝くような思い出のひとときだった。
だが今は違う。
想いを通わせ、夫婦となった後で貰う拒絶の言葉は、思いのほかバートラムを打ちのめした。
「クラリッサ……頼む」
もはや余裕さえなくなり、振り絞るような声で切々と告げる。
「私は君を失うのが、何より一番辛い……!」
幽霊など怖くはない。
そんなものが本当にいるなら、命を絶った家族たちは自分に会いに来ただろう。
だが幽霊も恐れぬバートラムにも怖いものはある。長い長い時を経てようやく手に入れた家族、最愛の妻、共に過ごす平穏だが温かい日々を、失うことは考えられない。
クラリッサがいなければ、この地に留まることも考えなかった。
家族を持ちたいとすら思わなかった。
彼女に求婚をした日の記憶も、一日たりとも忘れたことはなかったのに。
「……それは、わたくしも同じです」
不意にクラリッサが呟いて、それから鍵の開く音がした。
軋みながら開いた扉の隙間に、まだ涙で濡れている彼女の顔が覗いた。
「クラリッサ!」
ようやく顔を見られた安堵と、その悲痛な表情への辛さが同時に込み上げてくる。自分が泣かせてしまったのだと、バートラムは改めて自覚した。
「わたくしだって、あなたを失うのは嫌です」
クラリッサは髪色と同じくらい赤くなった目で夫を見据える。
「あなたは確かに有能な方です。お一人で何でもできるというのも自惚れではなく、事実なのでしょう。でも……」
血の気の引いた唇が微かに震えた。
「でも、わたくしたちは家族で、あなたはもうお一人ではないでしょう?」
怒りではなく、悲しみに満ちた声で言う。
「全部お一人でやってしまう必要なんてないはずです。わたくしが――そして皆がいるのですから」
クラリッサの言葉に反し、バートラムはこの時初めて、自らの自惚れに気がついた。
自分で何でもできると思っていた。それは確かに事実でもあったのかもしれない。
だが昔と違うのは、自分を深く案じてくれる人がいることだ。
バートラム自身を失いたくないと、思ってくれる人がいることだ。
それは自信に満ちた言葉や行動で解消できるものではない。言ってしまえば生ある限り、クラリッサはバートラムを案じ続けてくれるだろう。ほんの些細な出来事でさえ気にかけて、心を尽くしてくれるだろう。
バートラムがクラリッサを思うのと、同じように。
目が覚めたような気分だった。
「……そうだな。私には、君がいるのに」
バートラムは扉の隙間から、クラリッサの震える手をそっと握る。
小さく細い彼女の手は、氷のように冷たかった。
「私は思い上がっていた。一人で済ませてしまえば、君に心配をかけることなく片づけられると思ったのだ」
情けない思いで打ち明ければ、泣き顔の妻が少しだけ笑う。
「お馬鹿さん。かえって心配になります」
「君の言う通りだ。本当に、済まなかった」
握った手を引き、バートラムは彼女を手繰り寄せる。
クラリッサは抵抗もなく、すんなりと腕の中に収まった。
「これから忘れないでいてくれるなら、許してあげます」
「もちろん忘れはしない。君に誓おう」
誓いの証に、バートラムは妻の額に口づけた。
そしてようやく戻ってきた温もりを、二度と離すまいと抱き締める。
バートラムも、クラリッサも、かつて大切なものを失った同士だ。
ずっと傍にあったものを失くすのも、初めから手に入らないまま待ちぼうけているのも、どちらも辛いことには違いない。
同じ思いをしたくはないし、させたくもない。
彼女の夫である以上、もう自惚れてもいられない。バートラムは自らを戒めた。
しばらくして落ち着いたのか、クラリッサがおずおずと面を上げる。
泣いた後の顔は瞼が腫れ、頬は濡れ、唇はかさかさに乾いていた。赤くなった目をこすろうとするから、バートラムは慌ててそれを制し、手巾で涙を拭ってやった。
「喉が渇いただろう。お詫びのしるしに、私がお茶でも淹れようか」
そう持ちかければ、クラリッサは困ったように微笑んだ。
「あなたが? それは日暮れ前に飲んでも平気なお茶ですか?」
以前振る舞ったお茶に酒を混ぜたことを言っているのだろう。
バートラムもやっと安堵して笑い返す。
「もちろん、いつ飲んでもとびきり美味しいお茶だとも」
「それでしたら……」
するとクラリッサは恥じらうように目を伏せて、囁き声で夫に言った。
「今ではなく今夜お願いいたします、バートラム」
愛を込めたその返答に、バートラムは改めての抱擁で応じた。